28章はイスラエル敗北前夜の暗い物語である。ダビデはイスラエルの次期王としての召しを受けておきながら、サウルからの追跡を逃れるために、イスラエルの敵国であるペリシテに逃げ込んでいた。具体的な場所は、ガデの王アキシュの領地。ダビデはその地で、イスラエル寄りの姿勢は全く見せられない。アキシュの味方であることを演じなければならなかった。ということはイスラエルの敵として戦う姿勢があることを演じなければならなかったということである。イスラエルとペリシテの戦いがまた始まろうとしていた(1節)。ダビデはアキシュの部下として出陣を命じられる。ダビデはそれを拒めない。ダビデはアキシュの護衛を務めなければならなくなる(2節)。イスラエルの期待の星がなんとイスラエルの敵軍に回っているという目を覆うような状態。そして、現イスラエルの王であるサウルは、神に見切りをつけられ、とても神を信じている者とは思われない数々の愚かな行動に走っていた。こちらは完全に目も当てられない状態。ダビデもサウルも、それぞれが嘆かわしい状態にあった。そしてイスラエルにあって、王も恐れる信仰のリーダーであったサムエルはもういない(3節前半)。すべてのリーダーがアウト。ほぼ絶望的状況。お先真っ暗。
「サウルはペリシテの陣営を見て恐れ、その心は激しく震えた」(5節)。この時の戦いは、小競り合い程度の戦いではなかった。4節にあるペリシテの陣営の「シュネム」とは、イスラエル十二部族のイッサカル部族に割り当てられた地で、ガリラヤ湖南西およそ30キロ地点である。ここまでペリシテ軍が上って来ていた。ここは平原で戦車などを配備するには最適の場所。イスラエルの陣営「ギルボア」は丘陵地で、シュネムの目と鼻の先である。サウルは眼下に広がるペリシテ軍を見て怯えた。イスラエルはこれまで、劣勢な立場にありながら、神が先立ってくださり戦いに勝ってきたという歴史があった。この度の戦いはどうなるのか。
サウルはこの難局にあって、まず第一に主に伺いを立てた(6節)。主は何も答えてはくださらなかった。どんな手段を使っても答えはなかった。主の沈黙である。三つの手段が挙げられている。「夢」であるが、ヨセフが夢によって啓示を受けたことを思い出す。続いて「ウリム」とあるが、大祭司が神のみこころを民に与えるための啓示の手段である。大祭司の胸当てにこれがあった。サウルは祭司と祭司の町の住民を皆殺しにするような霊性の持ち主である。そんなことをしておきながら今さら何を、というところである。最後の「預言者」であるが、預言者とは神のことばを預かって語る者であるので、神のみこころを知るために、預言者のところに足を運ぶというのは常套手段であった。しかし答えは何もない。苦しい時の神頼みで泣きついても、神に逆らい続けてきたサウルに答えは何もなかった。
サウルが次にしたことは禁止命令を破る行動であった(7節)。「霊媒」はモーセ律法で禁じられていた(申命記18章9~13節)。サウルはこの命令を知っていて、3節後半にあるように、霊媒、口寄せを追放していた。にもかかわらず、藁にもすがる思いになったのか、霊媒に頼らんとして霊媒女を捜させる。「エン・ドル」という町に霊媒女がいることを突き止める。この町はぺリシテの北方にある町で、ギルボアから約20キロ先にある。場所的には行きにくく、地理的には敵陣の端を通って行かなければならないような場所にある。冒険的な旅で危険が伴う。それでも行こうとした。敵にはサウルだと気づかせないために、8節にあるように変装して少人数で向かった。しかも目立たぬようにと夜に向かった。サウルがどれだけ切羽詰まっていたかがわかる行動である。しかし神を悲しませる愚かな行動であった(レビ19章31節)。変装して霊媒に頼ろうして闇路を急ぐサウルの姿を想像すると、あわれでならない。もうこの際、助かるためなら何でもやるという姿である。はっきり言って、落ちぶれた姿である。主に油注がれた者とは思えない姿である。
霊媒女は変装した人物がサウルとはわからない口ぶりで話す。彼女は腰が引けている(9節)。おそらくこの女は追放令が出てから、この地に身を隠していたと思われる。霊媒行為は禁止である。にもかかわらず、国の要人がわざわざやって来て、霊媒によって人を呼び出してくれというわけだから戸惑うのは当たり前である。私を罠にかけて死刑にしようとしているのかしらと疑うのが自然である。霊媒行為に対する律法は死刑である(申命記18章20節)。彼女もそれは知っていただろう。
サウルは女の戸惑いに対して、愚かなことばを口にする(10節)。「主にかけて彼女に誓って言った」とあるが、この誓いは矛盾している。彼は「主にかけて」と、主がそれをすると死刑だと宣言している行為を主の名によって容認してしまうのである。主の名をみだりに唱え、罪を容認するのである。何と愚かなことだろうか。「主はあなたの強盗を許してくださる。さあ、あなたは私の願い通り、強盗を働いて。主はあなたを罰しはしないから」と言っているようなものである。そして、サウルは霊媒女に、死んだサムエルを呼び出してもらうことを願う(11節)。サムエルが生きている時は、サムエルを通して語られた主のことばに何度もそむき、聞き従うことはなかったわけだが、今さら何をと思ってしまう願いである。
霊媒女は、サムエルを呼び出した時、大声で叫ぶことになる(12節)。彼女はサムエルが現れたかのように演じようと思ったら、意に反して、本物のサムエルが現れたので驚いてしまったのだろうか。またその驚きは、サムエル出現の際、変装した男の正体が王様と知っての驚きであったのかもしれない。
サウルは畏敬の念をもってサムエルの前にひれ伏すことになる(14節)。現れた男は本当にサムエルだったのだろうか。ある人たちは、霊媒行為でサムエルが現れるわけがない、このサムエルは悪霊の演技なのだと言う。確かにほとんどのケースは悪霊の演技だと言って良いだろう。現代もそうした事例があることを聞く。だがこの時は、禁じられた悪の方法を超えて、主の直接的な働きによってサムエルが現れたようである。なぜなら、16~19節のメッセージは悪霊からのものではなく、確かに主のことばだからである。では、死人から助言を得ようとする行為は正当化されるのだろうか。否、申命記18章等の律法は、一点一画もすたれることはない主の掟なのである。
霊媒は現代でも見られる。例えば韓国は霊媒に頼る文化である。韓国では霊媒女を巫堂(ムーダン)と呼ぶ。巫堂とは、医学では治らない病気を治すときや、家でよくないことが起こったときに悪霊を祓うときや、先祖供養をするとき、また豊漁や豊饒を祈るときなどに儀式を司る人(ほとんどが女性)のことを言う。楽器を打ち鳴らす中、巫女が激しく踊ったり歌ったりして、トランス状態になっていき霊と交渉し、依頼者に霊を媒介してお告げやアドバイスをする、という形式をとるのが、一般的な巫堂のイメージである。韓国では信仰を持った後にも、霊媒女のところに足を運ぶ者が多かったと聞いたことがある。日本にも霊媒はおり、私も高校時代は何度も足を運んでいた。現代のクリスチャンの場合は霊媒に頼るというよりも、病を治してもらいに新興宗教のところに足を運んで手かざしをしてもらうとか、偽預言者のところに出かけ神秘的お告げを受けようとするとか、そういうケースが見られる。どれも愚かなことである。
サウルは、サムエルに呼び出した理由を述べる(15節)。彼は神が自分から去ってしまい、どのような手段によっても答えを得られないので、ペリシテ人襲撃にあたってどうしたら良いか教えてほしいと思っていた。彼は、このことばの中で「神は私から去っておられます」と述べている。この自覚があるのなら、「私がどうすればよいか教えていただくために」と言って霊媒なんかに頼る前に、悔い改めれば良かったである。それが彼がすべきことだった。彼がしなければならない「どうすれば」とは悔い改めることであった。だが残念ながら、サウルは悔い改めの機会を逸してしまったようである。
サムエルが一番問題にしたのは、アマレクを罰しない不従順の罪であった(18節)(15章参照)。15章のキーワードは18節にあるように「聞き従う」ということだが、サウルはアマレクに立ち向かったが、「聞き従う」ことをせず、聖絶すべき分捕り物に手を出した。サウルはアマレクとの戦い以前も「聞き従う」ことに失敗していた。彼は15章の時点でアマレクを罰しない不従順を悔い改めたのかと言うと、そうではなく、表面的なものにすぎなかった。彼はサムエルに不従順の罪を追求されて、最初はしらを切っていったが、罪を認めざるをえなかった。だが彼は自分のメンツが大事で、王としての威信をこれまでのように民の前で保てるよう願った。「これまでのように、何事もなかったかのようにふるまわせてください。悪いのは認めますから、私の罪はさらけださないでください。穏便に、穏便に。今までのように、すべては穏便に・・・」。サウルの関心は神との関係の修復よりも、人前でのメンツだった。後に、自分のメンツをつぶす者は許さないという態度がおもむろになり、それはダビデに対する敵意となって現われた。もしサウルが15章の時点で悔い改めていれば、状況は少しは変わっていたはずである。彼は真の悔い改めの姿勢を見せることはなく、その後、神は彼から去ってしまう(16章14節)。
サウルは危険を犯して霊媒のもとに来たわけだが、結局はさばきの宣告を聞くだけだった(19節)。サウルが期待していた甘いことばはない。サウルはショックを受けて倒れて、恐怖と憔悴しきった様を全身で表すことになる(20節)。しまいには、忌み嫌うべき霊媒女に慰められなければならないみじめな始末に(21~25節)。霊媒女は食事をするように勧めたわけだが、王が自分のところに来て動けなくなってどうにかなってしまったとか、その辺で生き倒れになってしまったとかなれば、責任をかぶせられて、最悪いのちを取られるかもしれない。彼女にしても、元気になって帰ってもらわなければ困る。こうしてサウルは戦場に帰って行ったが、それは希望の全くない戦場で、神のさばきが待つ死の戦場だった。サウルの死というのは単なる戦死ではなく、神のさばきであることは知っておきたい。「サウルは主の信頼を裏切った不信の罪ゆえに死んだ。彼は主のことばを守らず、霊媒に伺いを立てることまでして、主に尋ねることをしなかった。そのため、主は彼を殺し、王位をエッサイの子ダビデに回された」(第一歴代誌10章13節)。
悔い改めず、神に逆らい続けたサウルに、もはや何のあわれみもない。あとになって泣き叫んでもすでに遅しである。もはや悔い改めの機会すら残されていないのである。同じような人物に、イスラエルの父祖となったヤコブの兄、エサウがいる。「また、だれも、一杯の食物と引き替えに自分の長子の権利を売ったエサウのように、淫らな者、俗悪な者にならないようにしなさい。あなたがたが知っているとおり、彼は後になって祝福を受け継ぎたいと思ったのですが、退けられました。涙を流して求めても、彼には悔い改めの機会が残っていませんでした」(へブル12章16,17節)。
著名な説教家でバプテスト派のスポルジョンがいる。スポルジョンは神のことばをあざけっていた人物についてこう述べている。「彼は健康であったとき、キリストをひどく拒んでいた。だが死の悩みにあったとき、迷信的な気持ちで私を呼び出した。すでに遅すぎたが、彼は神に立ち返ることを求めた。閉じられたドアを開けて入ることを求めた。だが彼はできなかった。彼には悔い改める余地が残されていなかった。神が彼に長い間与えていた救いの機会を無駄にしてしまったからである」。悔い改めが必要であると思っても、それができない。これは厳粛な事実である。それは裏を返せば、神に見捨てられてしまったということである。サウルには神のことばなく、神とのコミュニケーションは途絶えたままで、全くの孤独の中、生きなければならなかった。彼は平常、「主は生きておられる」といった信仰者用語を使ってはいたが、そのことばの響きは空しい。彼の前方に希望はなく、ただ神のさばきを持つのみだった。これ以上の絶望的状態はない。サウルの生涯から、主の御声に聞き従うことの大切さとともに、悔い改めを遅らせてはならないのだということを教訓として心に留めたい。「わたしは生きている。神である主のことば。わたしは決して悪しき者の死を喜ばない。悪しき者がその道から立ち返り、生きることを喜ぶ。立ち返れ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ、なぜ、あなたは死のうとするのか。」(エゼキエル33章11節)
サウルは重い足取りでイスラエルの陣営に戻っただろう。そして部下たちに何を語ったのだろうか。サムエルに告げられたことばそのものを語ったならば、戦意をくじくだけになってしまう。だから、なにがしかの作り話をするしかなかったのかもしれない。霊媒女には会えなかったとか、サムエルは出て来なかったとか、出て来て「あなたがたは勝つ」と励ましを受けたとか。そして形どおり「主」ということばを口に出して、彼らを鼓舞するパフォーマンスをするしかなかったのではないだろうか。ダビデはというと、この時、ペリシテ軍の配下にあった。彼は彼でイスラエルの敵の立場を演じ続けてきて、この時もアキシュ王のしもべということで、アキシュ王に対して忠誠心があるところを演じるしかなかった。サウルもダビデも主に油注がれた者たちだが、なんてこったという有様であった。だがこの後、神のあわれみはダビデに向けられるのである。彼の信仰は死んではいなかったからである。主を恐れる心が残っていた。もうすぐダビデは、停滞していた信仰の夜明けを迎えることになる。

