27章は特徴的な章となっている。「神」とか「主」という文字は一つもない。「神がこう言われた」とか「主が助けられた」という表現もなければ、人が主の名を口にしたことも書かれていない。以上のことから、27章のダビデの行動をどのように評価したら良いのか、慎重な判断を迫られる。
サウルからの逃亡生活を送っていた彼は、ペリシテ人の地に逃れる(1節)。ダビデは心の中で弱気の発言をしている。「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない」(1節前半)。ダビデはどうしてしまったのだろうか。というのは、26章のダビデの勇敢な信仰の姿勢と余りに対照的だからである。ダビデはアビシャイとたった二人で、三千人の精鋭がいるサウルの陣地に乗り込んで行くという勇敢さがあった。そしてサウルにこう言った。「今日、私があなたのいのちを大切にしたように、主が私のいのちを大切にして、すべての苦難から私を救い出してくださいます」(24節)。主が守って下さるという信仰の宣言である。ダビデはそれまでの逃亡生活においても、主の導きと守りを体験していた。だが彼は、「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない」と弱音を吐いている。前回の26章19節をご覧ください。追っ手が自分にどんな悪口を言っていたのかをダビデが告白している。「彼らは今日、私を追い払って、主のゆずりの地にあずからせず、『行って、ほかの神々に仕えよ』と言っているからです」(19節後半)。「主のゆずりの地」とはイスラエルのことであるが、そこを去って、神々に仕えよというののしりである。ペリシテ人の地は、まさに神々の地である。神々の地になんか行けようかという気概を見せていたダビデであったが、ダビデはなんと、主のゆずりの地を離れ、神々の地に行く決断をしてしまう。敗北に等しい姿である。そして26章10節をご覧ください。ダビデは、サウルが主によって滅びることを口にしていた。「ダビデは言った。『主は生きておられる。主は必ず彼を打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ』」(10節)。この「滅びる」ということばを、ダビデは自分に使ってしまっている。「私はいつか、今にサウルによって滅ぼされるだろう」(27章1節)。ダビデは、なぜこのように弱気になってしまったのだろうか。それまでの信仰の姿はどこへ行ってしまったのだろうか。ダビデは別人のようになってしまう。
ダビデはこれまで、二度、サウルを殺すチャンスがあった。しかし、二度とも、主に油注がれた方に手を下すことはできないと言って、サウルを殺さなかった(二度目~26章11節)。これからもサウルに手を下す気持ちはない。すると、あとはただひたすら逃げるしかない。ダビデは精神的にも肉体的にも逃亡に疲れ果ててしまったのかもしれない。列王記第一には預言者エリヤの物語がある。彼は四百人のバアルの預言者と四百人のアシェラの預言者との対決で勝利を治める。神々の預言者たちが剣で殺されたことに怒った悪女イゼベルは、エリヤを殺す決断をする。それを知ったエリヤは、自分のいのちを救うために逃亡生活に出るが、疲れ果ててしまっていたため、「主よ、もう十分です。私のいのちを取ってください」とエリヤらしからぬ弱音を吐くことになる(第一列王記19章)。エリヤはうつ状態になったと言えるし、燃え尽き症候群にかかったとも言えるが、屈強な男で信仰に満ちたはずの人物でも、やはり弱い人間なのだと思わされる記事である。
ダビデの場合はエリヤと違って、一人で逃亡しているわけではなかった。これもまた大変。部下の数は六百人(2節)。また自分と部下たちには家族があった(3節)。家族を連れて逃げるのは困難。ダビデたちはユダの荒野を中心にあちらこちらと移動していたわけだが、サウルの捜索網は網の目のように張り巡らされている。穴の中のむじな同然。しかもイスラエルの精鋭三千人で追って来る。数においても劣っているし、女子どもを連れての逃亡生活ということで、目に見えるところは絶対に不利。これまで主の奇跡的介入を頂いて、危機一髪のところ救われたことはあったが、またもや、そのような危険な目に合わなければならないのか。耐えていくというのにも限界はある。ダビデは自分の周囲から不安の声や不満の声も聞こえてきただろう。いつまでこの状態なのかと。聞こえてこないはずはない。以上のようなことを考えると、ペリシテ人の地に行ってしまったダビデの決断を見て、情けないと簡単にさばくわけにはいかない。しかし、もちろん、ダビデの決断に賛成はできない。1節の「ほかに道はない」は切羽詰まった表現だが、これは神抜きの表現である。決め付けの表現である。本当に「ほかに道はない」のか。ほかに道はあるのに、もう死ぬしかないということばを聞くことがある。その前の「私は、いつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう」も、神抜きの表現である。過去を振り返って、主の御手の導き、摂理に落ち着いて目を向けるならば、このような考えが浮かんできても、すぐに消せたはずである。ダビデはサムエルを通して油注ぎを受けて以来、ヨナタンをはじめ様々な人を通して自分が王になることを確認させられてきたはずであるし、主によって何度もピンチから救っていただいたわけである。だから、このマイナスの結論は主から出たことではない。1節冒頭に「ダビデは心の中で言った」とあるが、ここに主への問いかけはない。以前の23章では、逃亡生活の中で何度も主に伺ったことが記されていた。祭司エブヤタルを通して、主のみこころを尋ねようとしたこともあった(23章9節)。だが今は、そのような姿勢は感じられない。疲れ、気持ちが沈んでしまっていて、主を仰ぐ気力を失ってしまっている。霊的戦いが激しかった後に霊的うつ現象に陥るとも言われているが、まさにそのような状態であったのかもしれない。預言者エリヤもそうであった。激しい戦いの後にガクッとなった。私たちもこれに気をつけたい。ダビデの主に伺うという姿勢はやがて回復することになるが、この時はだめである。
ダビデがペリシテ人の地に行き、身を寄せた先は、以前も主に伺うことをせず行ってしまったガデの王アキシュのもとであった(2,3節)。一度目の記述は21章10~15節に記されている。ダビデは、主に伺うことをせずアキシュのもとに行ってしまうという失敗を二度繰り返してしまう。彼はイスラエルの敵の恩恵をこうむって生きようとする。確かに生き延びた感はあった。サウルは追って来なくなった(4節)。彼は肉体的には生き延びて、確かに時間稼ぎができた。けれども、彼の内なる人は深い霧の中に入ってしまった感がある。そして彼の決断は、自分を難しい立場に追い込んでしまうことになる。どういうことだろうか。
アキシュは前回と違ってダビデを信頼している。アキシュはダビデの逃亡生活の実態から、彼はイスラエルから見捨てられたお尋ね者にすぎず、私のしもべとなってくれると期待したであろうし、ダビデも口で出まかせを言って、今後あなたにお仕えしますとお芝居をしたのだろう。ダビデは王の御膝もとに居ると自分の行動がバレてしまうと思ったのか、地方に住めるよう計らいを願う(5節)。与えられた場所は「ツィクラグ」と言った(6節)。ツィクラグはガデから南におよそ30キロの場所にある。王のもとに駆け付けるにも、王の目をはぐらかすにも、ちょうど良い距離間である。
ダビデは、いずれはイスラエルに帰らなければならない。けれどもここで、イスラエル寄りの姿勢はみじんも見せられない。アキシュの味方であるところを見せていかなければならない。つまりは、イスラエルの敵であることを演じていかなければならない。やがてイスラエルの王となる人物が、イスラエルの敵であることを演じなければならない。何ということだろうか。このようなふざけた話はない。しかし、ペリシテ人の地に滞在するためには、こうしたお芝居を演じていくしかない。かつてガデの王アキシュの前で狂人を演じたダビデであったが、今度は、あなた様の忠実なしもべですという善人を演じるのである。ことばと態度で。もちろん、相手を信じさせるために虚言を使いまくるしかない。究極のお芝居である。その期間はなんと7節にあるように、「一年四カ月」である。その間行っていたことは、当時にあってふつうに行われていた略奪行為である(8,9節)。次元の低いことをやっていたことは否めない。彼は異邦人の地を襲って略奪した。そしてダビデは、この略奪行為において、アキシュから信頼を勝ち取るために虚偽の報告をした(10節)。「ネゲブ」とはユダ地方の南に広がっている地域だが、そこにダビデが属するユダ部族や、イスラエル人と友好関係にあったエラフメル人やケニ人が住んでいた。エラフメル人とケニ人は、ダビデの逃亡生活を助けた人たちでもある(30章29節)。そこを襲って来たと報告したわけである。それを聞いたアキシュは、「ほう、ダビデもなかなかやるわい」と信用してしまった。ダビデは内心、こうした演技をいつまで続けられるのか、いつまでバレずにすむのかと、落ち着かなかったっただろう。演技などというものは、いつかは見透かされてしまうものである。しかし、ペリシテ人の地にとどまるために続けざるをえなかった。職を失った男性が、朝、背広を着て、弁当をもって「行ってきま~す」と家を出て、一日中公園などでぶらぶらして過ごし、夕方に家に帰って、今日も仕事がんばったと家人に報告して毎日を過ごすというドラマを見たことがあるが、もちろん、そのような生活は長く続かなかった。28章以降を見ればわかるが、ダビデは神に相談もせず目先の安全を選んでしまったために、四面楚歌の苦しい状況に立たせられることになる。間もなく、ペリシテ人とイスラエルとの大戦が始まる。ダビデはアキシュの護衛として、ペリシテ人側に付いて出陣しなければならなくなる。「いやです」と逆らったら、なんのためにペリシテ人の地に逃れてきたのかわからない羽目になってしまう。彼はサウルによってではなく、ペリシテ人の手によって殺されてしまうからである。ダビデは承認せざるを得なくなる。そして彼は部下たちと一緒に出陣の備えをする。家族はツィケラグに残してである。その家族にはアマレク人襲撃という悲劇が待っていた(30章)。ダビデは絶望的状況に直面することになる。
ダビデはペリシテ人の地に来る前に、やはり、主に伺う姿勢を持たなければならなかったのである。「ほかに道はない」と結論付けてしまう前に。イザヤ43章には「必ず、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」ということばがある(19節)。主は道を備えてくださるお方である。自分の心の中で聞こえてくる否定的な声、周囲の雑音、それらに呑み込まれてしまうことなく、気力を振り絞ってでも主に伺うべきなのである。最後に、次のことばを紹介して終わりたい。
「何をするにしても立ち止まりなさい。主からことばが与えられるまで待ちなさい。ひざまずいて、主にあわれみと助けを求めなさい。主がその道を明らかにしてくださるまで、神を待ち望みなさい。その道が隠されており、主がそれを閉ざしておられる間は、何も行動する必要がないことは明らかです。私たちが神とともに歩む時に、この原則を適用しているならば、いかなる破滅をもまぬがれることができるでしょう。」

