本日のテーマの最初は「対話」である。私たちは対話の結果はどうあれ、向き合わなければならない相手と向き合い、きちんと対話をするということをしなければならない時が来る。私が関東から秋田に赴任するにあたって、秋田県の特性について書いてある本を幾つか読んだ。すると、対話が苦手な文化であるというのである。陰で色々言うけれども、本人に向かっては言わない、会議でも言わないというのである。そうなのかなぁと思ったが、それを何度も目の当たりにすることになった。対話がないと物事が進展しないわけである。そのことをある方と話していた時、秋田の一人の女性が、自分の心にあることをどうことばにしたらいいのかわからない、と言うのである。まず、そこからかと思った。関西生まれのクリスチャンと接していると、ことば数が多いだけでなく、けっこう自分のこともオープンに話される。関東の人は関西の人までではないけれども、ことばが飛びだす。話し合って物事が進むスピードはそれなりに早い。東北でも地域性というものがあり、たとえば私が生まれ育った会津では、初対面の人には慎重だと言われているが、それでも秋田県の人と比べると、みんなでけっこう言い合う傾向が強い。秋田県内でも県南と県北では違うだろう。そして、また、それぞれに性格の違いというものがある。関西人みたいな秋田県人もおられる。いずれにしろ、どんな人でも乗り越えなければならないのは、人と向き合うべき時は向き合うということである。

ダビデの逃亡生活は続いていた。サウルは追跡を一旦取りやめていたが、追跡がまた始まった。きっかけはジフ人の密告である(1節)。ジフ人の密告は、これで二度目である(23章19,20節)。その後、ダビデたちは追跡軍に追いつかれそうになり、主の奇跡的介入によって、危機一髪の救いを経験した。ダビデを逃したサウルは、確実性を高めるために、イスラエル全体から三千人の精鋭を選り抜いて、捜し、追跡する体制を整える(24章2節)。そして捜しに向かう。そうした中、不思議なことが起きた。ダビデが部下たちと隠れていたほら穴に、サウルがトイレ休憩に入ってきた。ダビデは、これは絶好のチャンスとばかり、サウルに手を下すことができた。けれども、主にあってそれをしなかった。サウルの上着の裾を切り取っただけである。ほら穴の外でサウルとの対話が生まれ、サウルは涙を流し、そして自分の悪を認め、おまえが必ず王となると語って、その場を立ち去った(24章22節)。にもかかわらず、サウルはまたも三千人の精鋭とともに、ダビデのいのちを奪うために追跡に出る(2節)。ダビデはこうなるとわかっていたら、サウルがほら穴に入って来た時に殺してしまえば良かったと後悔しただろうか。そうでないことは、今日の記事を読んでもわかる。ダビデは今回もサウルに手を下すチャンスが訪れるが、やはり、手を下すことを拒む。そして対話が生まれる。

今日の舞台はヘブロンの南東にあるユダの荒野である(3節)。ダビデは偵察を送ってサウルたちがいる場所を突き止める(4,5節)。そして、これまでにないことをする。それは逃げることではなく、サウルの幕営に侵入することである(6,7節)。三千人の幕営に侵入するのである。しかも部下とたった二人で潜入しようとした。その目的は、情報を取ることでも、サウルの首を取ることでもない。自分の身の潔白を堂々と証しするためであった。ただ逃げているだけではなく、相手方と対峙しようとした。

ダビデとともに向かった部下の名は「ツェルヤの子アビシャイ」(6節)。ツェルヤはダビデの姉で、よってアビシャイとは従妹同士ということになる(第一歴代誌2章15,16節)。ダビデとアビシャイは夜、なんと大胆にも、サウルと護衛の部下たちが寝ている場所に侵入した。普通ならこのようなことは絶対にできない。飛んで火にいる夏の虫で、殺されてしまう。無謀な計画に思える。けれども、ダビデには大丈夫という確信が主にあってあったのだろう。それは12節後半の「主が彼らを深い眠りに陥れられたので」が暗示している。主はダビデの背中を押したのだろう。ダビデは大胆にもサウルの枕元にまで来た。それはサウルのトイレ休憩の時と同じような誘惑の場ともなった。皆ぐっすり眠っていた。サウルを殺すチャンス到来である。アビシャイはサウルを殺す許可を得ようとした(8節)。しかし許さなかった。それはサウルが主に油注がれた方であるという理由である(9節)。ダビデのこの時の自制心は、24章のほら穴での出会いの時より向上している。24章では、ダビデはこらえが足らず、サウルの上着の裾を切り取ってしまった(24章4,5節)。その時、心を痛めてしまったわけだが、この時の反省がある。そしてダビデの自制心を向上させた理由は、25章の、ナバルに対する対処の教訓がある。ダビデはナバルの家畜の群れを守ってあげていたわけだが、ナバルは恩を仇で返すような、最大の侮辱をダビデに与える。ダビデは怒りに燃え、ナバル一家を全滅させるために出て行く。そのタイミングで、ナバルの妻アビガイルが止めに入る。復讐は罪になります、あなたの生涯の傷になりますよと。ダビデは、主が自分の愚かな行動を止めるためにアビガイルを送られたのだと気づく。そしてさばきは主にゆだねることを学ぶ。ナバルはダビデが手を下さずとも、主によって打たれ、死ぬことになる(25章38節)。こうした経験を通し、自らの手で復讐することは罪であり、さばきは主にゆだねなければならないという信仰がしっかりと与えられた。その証拠に、ダビデはアビシャイを引き止めた時、10節で、「主は生きておられる。主は必ず打たれる。時が来て死ぬか、戦いに下ったときに滅びるかだ」と言って、続く11節で、「私が主に逆らって、主に油注がれた方に手を下すことなど、絶対にあり得ないことだ」と断言する。ダビデは信仰者として成長している。相手がどんなひどい人であろうが、主の前で何が罪になるのかを判断し、さばきは主にゆだね、行動を制しようとしている。ある人はダビデの復讐をしない姿勢から、「健全なことはおもしろみのないことだ、平凡なことだ」と言ったが、健全さとはそういうものである。ある意味、おもしろみがない。

さて、ダビデが危険を犯して三千人の陣営に飛び込んでやったことと言えば、サウルの枕もとの槍と水差しを取ったことだけ(11節後半~12節節前半)。槍と水差しを取ったという行為にどんな意味があるのだろうか。これを取ってきたということは、サウルの枕もとまで足を運んだ証であり、そこまで来て、それ以上何もしなかったということは、サウルに対して敵意はないことを伝える効果があった。また、ダビデの奇跡的潜入自体、主の守りがなければできなかったことを印象づけ、罰しようとすることは間違っていると、ダビデを擁護する効果があっただろう。

ダビデの最終目的はサウルに訴えかけることにある。ダビデはサウルの幕営から離れた山の頂上に立った(13節)。このようにある程度の距離を置いて対峙し、ダビデとサウルはやりとりすることになる(17~25節)。ダビデは18~20節で自分の無実と敵意がないことを訴え、サウルは応答として21節にあるように、「私が間違っていた」と、自分のいのちを尊んでくれたダビデに対して、自分の間違いを口にすることになる。

ダビデとサウルのやりとりの前には、ダビデがサウルの護衛長のアブネルに語りかける場面がある(14~16節)。サウルの枕もとに槍と水差しがないということは、部下たちの主君に対する態度が全くなっていないことを証するものでもある。ダビデは護衛の責任者であるアブネルに、お前たちはだめだと責任を追及している。この度のヘマは死刑に値すると(16節)。アブネルはグーの音も出ない。アブネルの負けである。そして先に見たように、主君サウルはダビデに「私が間違っていた」と詫びることになる。ダビデは一滴の血も流さずして、事実上、サウルの部下にもサウルにも勝ってしまったのである。サウルたちに反論の余地はない。この時がダビデとサウルの別れの時である。二人は二度と顔を合わせることはない。その最後の出来事である。対話の最後の機会だったと言ってもいいかもしれない。ダビデは言うべきことは言って、剣を振りかざさずして勝利したのである。

私たちは戦国時代に生きているわけではないので、同じようなシーンをたどることはない。だが原則は適用できる。ただ逃げ回るだけで終わらず、人頼みにせず、主が備えてくださる時に愛と勇気をもって相手に臨む。復讐心を働かせず、行動で自分に敵意などないことを示し、敬意をもって相対して対話する。主の助けと守りを願いながら。結果は、主にゆだねるしかない。

サウルは、ダビデが自分のいのちを取れる状況で取らなかったことを知り、ダビデのことばを聞いて、ダビデに対して心和らいだわけである。「私が間違っていた。わが子ダビデよ。帰って来なさい。もうおまえに害を加えない。今日、おまえが私のいのちを尊んでくれたのだから。本当に私は愚かなことをして、大変な間違いを犯した」(21節)。だがハッピーエンドの結末はやって来ない。サウルの心は悔い改める余地がなくなっていた。ダビデもそのことを知っている。ダビデは、やがてサウルと肩を組んでダンスをするというようなマンガチックなハッピーエンドを期待しているわけではない。ダビデはサウルのもとに歩みよって抱き合って泣き合うことをイメージしているわけではない。ダビデは自分の望みを人間にではなく、あくまで主に置く。「今日、私があなたのいのちを大切にしたように、主は私のいのちを大切にして、すべての苦難から救い出してくださいます」(24節)。ことばの前半は、自分はサウルに対して正しい態度を貫いたという自負である。後半は、主がその私を顧みてくださるという希望の告白である。やることはやって、希望は主に置くのである。今日の場面の、ダビデの愛と勇気ある対話は私たちの模範であることを覚えよう。主はダビデがサウルと向き合うように押し出され、ダビデはそれに応えた。私たちは今日の物語を自分の事として捕えよう。

次のテーマは「保障のしるし」とさせていただく。お話を槍と水差しに戻して、槍と水差しについて、もう少し考察させていただく。実は「槍」は権力のシンボルである。22節に「王の槍」とあるが、この槍は王権のシンボルである。「水差し」はいのちのシンボルである。サウルがこの二つを失うことは、将来の暗示ともなっている。つまり、王権といのちを失うということである。そして、神が槍と水差しを楽々と、やすやすとダビデに渡したということは、ダビデに対しては、将来の励ましとなっている。槍はダビデにとって王位の保証となっている。ダビデが王位に着くことを妨げることができるものは何もない。敵が三千人いようとも、万軍の主が味方となってくださるならば、どのような難局も乗り越えることができ、神の約束は必ず成就する。

ある一人の熱心な女性クリスチャンの話である。彼女は熱心にクリスチャン生活を送ってきたはずなのに、自分は神に見捨てられたと感じていた。救いの望みも失っていた。ある日、牧師が彼女と会って、彼女の絶望的結論付けに関して話し合っていた時、彼女はテーブルからグラスを取って言った。「このグラスが壊れるように、私がダメになることはまちがいないんです」。そう言って彼女は、グラスを地面に力強く投げつけた。ところがグラスは全く壊れず、損傷のないままであった。二人は驚いた。牧師は、そのグラスを彼女に対する保証のしるしとして、適用して諭したとのことである。「このグラスが壊れなかったように、あなたも壊れない」と。

保障のしるしということでまとめてみよう。私たちにとって保障のしるしとなるものは幾つかある。目に見える保障としては、キリストの十字架が挙げられるだろう。そこに神の愛と救いの約束が集結している。だから、日々、十字架を見上げるのである(ローマ5章8節)。そしてエペソ1章13節には「約束の聖霊によって証印を押されました」とあり、与えられている聖霊が一つの保障であることが記されている。また、私たちには聖書のみことばが与えられている。皆さんは、落ち込んでいた時、何度もみことばの約束によって励ましを得ただろう。聖書には神の約束が満ちている。そして神はその約束に対して真実な方である。場合によっては先の例話のように、一つの事物、一つの出来事が保障のしるしとして感じられる時もある。それは自分の思い込みかもしれないが、確かにそうであるときもある。「数えてみよ主の恵み」で、過去を振り返ってみれば、あれがそうだったと思い出されるものがあるかもしれない。私も幾つか思い出す。それらを通して、神は私をお見捨てにならないのだなと勇気づけられる。私たちは、不思議としるしを求める幼稚なクリスチャンになってはいけないが、十字架をはじめとする神がくださった保障には、しっかりと心を留めたいと思う。