神さまは足踏みしている者を前にぐいっと押し出されることもあれば、引き止めようとされることもある。それに従うか振り切るかどうかは私たちの意志にかかっている。前回は24章より、ダビデがほら穴でサウルを殺してしまう絶好のチャンスが訪れた時、ぐっとこらえて手を下さなかったこと、また部下たちがサウルに襲いかかろうとしたとき、それを引き止めた記事を学んだ。今日の記事は、ダビデが引き止められる側に回ったという記事である。
1節にサムエルの死と葬りが記されている。「サムエルは死んだ」。それは全イスラエルを駆け巡る衝撃的なニュースだった。国家を代表する一人の偉大な預言者が死んだ。殺人鬼となったサウルであっても、サムエルには手を出せなかった。ダビデは逃亡中、サムエルのもとに身を寄せたことがあった。だがもはやサムエル祈りすら期待できない。暗雲立ち込めるニュースである。けれども、サムエルの死は神の死を意味しない。ここが重要である。今日の場面では、神はなんと預言者ではなく一人の女性を通してダビデの勇み足を止めようとされる。
ダビデは荒野で逃亡生活を送っていたわけだが、ナバルという人物の家畜の群れを守ることがあった。2節を見ると、ナバルの住居は「マオン」と言って、この地はヘブロンの南方14キロに位置し、そこから数キロ北の「カルメル」という場所で事業をしていた。「カルメル」はユダの荒野の端に位置する。この辺一帯は豊かな牧草地を形成していた。ナバルは大牧場を経営し、財産家で裕福であった。ナバルの名前の意味は「愚か者」。ナバルは単に行状が悪いだけではなく、霊的に、道徳的に、社会的にひどい人物であることがわかる。物語全体から見えてくることは、ナバルという人物は富を崇拝し、裕福さを誇り、不敬虔で、飢えている者、渇いている者を顧みず、自分さえ良ければで、お祭り騒ぎをし、富を楽しむために生きているような人物である。世俗的価値観の持ち主の最右翼のような人物である。ナバルの妻の名は「アビガイル」(3節)。夫とは対照的で、聡明で分別のある女性であった。
この章を読んで気づくのは、ダビデのナバルに対する態度は、サウルに対する態度とはかなり違うということである。自分のいのちを狙うサウルに対するあの忍耐はどこにいったのだろうかという行動に出そうになる。なぜだろうか。ナバルは「カレブ人」と言われている(3節)。カレブ人は政治的にはユダ部族に属していたが、カナンの先住民の一部族かエドム民族の一種族と思われ、人種的にはユダと区別される種族である。いわば異邦人。しかもナバルは主に油注がれた者でもない。さらに、戦うという力関係からすれば下である。逃げなければならないような戦力は持ち合わせていない。話の出だしから、ダビデの態度がサウルに対する態度と変わってしまうという予感が走る。
ダビデとナバルとの間に問題が発生した。ダビデは羊の毛の刈り取りの祝いの日に、10人の部下をナバルのもとに遣わした(5節)。ダビデの願いは、祝いの日にあたって、少しだけ食料を与えてくださいというものであった(8節後半)。ダビデがこのように申し出る理由は、ダビデたちがナバルの群れの護衛をしてきたということがある(ナバルのしもべのことば~16節,ダビデのことば~21節)。ダビデは食料を与えてくださいとへりくだった態度で申し出たが、ナバルは尊大で、意地の悪い応答に出た(10節)。ナバルはダビデがしてくれたことに感謝を表すどころか、「そんなやつ知らん」と言わんばかりに、脱走奴隷扱いにまでする。これは最大の侮辱である。ナバルはダビデのことを知らないわけはない。ダビデは有名なイスラエルの戦士であったし、ダビデがしてくれた親切がしもべを通して彼の耳に入っていないはずはない。そしてナバルはドケチの極みである(11節)。パンと水と肉の描写があるが、原文では「私のパン」「私の水」「私の肉」となっていて、「私のものをどこの馬の骨ともわからないやつにくれてやるか」と言い放っている。
ナバルのこの応答に対して、ダビデは激怒してしまう(13節)。彼には部下が600人いたが、なんと三分の二を引き連れて、ナバルに報復しようする。ナバルはサウルのようにダビデのいのちを狙ってはいない。けれど親切行為に対して逃亡奴隷扱い。ダビデは異邦人からの屈辱的扱いに、ふざけるなと怒り心頭で自制心を失ってしまった。この章ではナバルの悪が目立っているが、けれども、信仰者の視点からすると、ダビデに問題がある。今、ダビデは衝動的に間違った行動に出ようとしている。
主のあわれみでしかないのだが、主はこのダビデを引き止めようとする。主が用いた人物は、預言者でも祭司でもなく、そして側近の部下でもなく、ダビデが激怒していた相手の妻である。ナバルの妻アビガイルはひとりのしもべから情報を得る(14~17節)。しもべは事のあらましを語り、ダビデが報復にやってくることは目に見えているので、対策を考えてほしいと懇願する。
アビガイルは、「あらそう、夫がアホだからどうしようもないわ」とか、「わたし知らないわ」とか、逃げ腰ではなかった。「お先に失礼」と言って、家出もしなかった。18節に入ってすぐ、「アビガイルは急いで」ということばがあるが、「急いで」したことは家出の支度でなく、ダビデに会う備えである。「急いで」と、彼女の判断の早さ、機知に富んだ行動を物語る。アビガイルは即断して、ダビデたちのために大量の食糧をすばやく準備する。アビガイルとダビデは出会う(20節)。アビガイルがダビデと出会ったタイミングは絶妙だった。ダビデがナバルへの激怒を表し、復讐を宣言しての直後のことであった。21節で「ダビデは、こう言ったばかりであった」とあるが、その内容は、激烈なものであった(21,22節)。ナバル一家皆殺しである。ダビデは22節で、皆殺しにしなかったら「神がこのダビデを幾重にも罰せられるように」と神の名を持ちだして、自分がこれからしようとすることが、さも神のみこころであるかのような発言をしているが、実際は神のみこころではなかった。ダビデは頭を冷やす必要があった。
アビガイルの態度はりっぱであった。彼女は全き低姿勢に出る。二度ひれ伏す(23,24節)。24章では、ダビデを殺そうとしていたサウルの前にダビデがひれ伏したことが記されている(24章8節)。今度は反対に、殺意に燃えていた彼がひれ伏される番である。ひれ伏したアビガイルはみごとなことばを述べる(24~31節)。アビガイルのことばで特筆すべき点を三つ挙げると、第一は、夫の罪を自分の罪として告白している点である(24節前半,28節前半)。第二は、復讐は主のみこころではないことを示した点(26節前半)。アビガイルは、復讐は主のみこころではないことを婉曲的な言い回しで伝えている。第三は、復讐は今後の生涯の妨げとなってしまうことを伝えた点(28~31節)。「あなたのうちには、一生の間、悪が見出されてはなりません」(28節後半)、「理由もなく血を流したり、ご主人様自身で復讐したりされたことが、つまずきとなり、ご主人様の心の妨げとなりませんように」(31節前半)。ふつうであれば、あせって、ここまで理路整然と話はできないと思う。彼女はダビデをことばで制することに成功した。彼女の霊的資質は高い。稀有な存在である。彼女はこうして、大量の食糧の贈り物を用意しただけではなく、ダビデを冷静沈着にさせる態度と知恵のことばで、復讐にストップをかけた。無用な血を流させなかった。
おまけの話になるが、アビガイルは夫ナバルに対しては、ことばを並べて説得はしていない。それどころか、19節には「彼女は夫ナバルには何も告げなかった」とある。言うだけ無駄だし、その時間もないと判断したのだろう。時は迫っている。一刻を争う。
ダビデは怒りが静まり、目が覚めた。神が自分の過ちを阻止するために、私を引き止めるために、使者としてアビガイルを送ってくださったという認識を持った。「主は今日、あなたを送り、会わせてくださった」(32節)。「主は私を引き止めて、あなたに害を加えさせなかった」(34節前半)。ダビデは「主」を主語にして語っている。主があなたを送り、主が私を引き止めてくださったと。もし、この引き止めがなかったら、どうなっていただろうか。しもべたちも含めて、一家全滅の凄惨な復讐劇。それがダビデの罪となり、生涯の汚点となり傷となり、ダビデから祝福を奪うことになる。
ダビデは腹立ちまぎれの復讐をせずに済んだ。まことに主のあわれみであった。ナバルはダビデが手を下さずとも、主によって直接さばかれ死んだ(36~39節)。さばきは主に任せれば良かったのである。ダビデは未亡人となったアビガイルを迎え、妻に娶ることになる(39~44節)。
今日の記事から、物語から、私たちは三つのことを学び取ろう。第一は、私たちは主にあってアビガイルの役を担えるのか、ということ。暴走しそうな人を引き止めるために、低姿勢で知恵のことばで説得するという役目である。説得する相手は家族であったり、他人であったりするだろう。自分より上の立場の人には、より気を遣うかもしれない。祈りつつ、売り言葉に買い言葉にならないようにして、説得を試みよう。引き止めてくださる方は主であるが、私たちがそのための器を担うということである。私は怒り心頭の相手に対して、なぜ自分がこの役を引き受けなければならないのかと思いつつも、主の御旨と受け止め、役を引き受けたことがある。怒りを前面に出している相手と対峙するというのは、したくないことであっても、腹を据えてやらないければならない時がある。
第二は、私たちは、常に冷静沈着に行動できるだろうか、ということである。ダビデは、自分のいのちを狙うサウルの前では、感情を抑え、また部下たちを説得して引き止めた。しかし、そのダビデは、今日の場面では自分の感情を抑えられなくなってしまった。そして猪突猛進である。私も経験することだが、その時は自分のしようとしていることはまともだと思っているが、後になって考えて見ると、まだ冷静さが足りず、考えが足りなかったと反省することがある。私は牧師になって10年が経とうとしていた頃、ある人のふるまいに許しがたい思いになり、一人の教会役員の前でカッカして、あの人に言ってやらねばとやっていた時、その年上の役員が私をなだめるように、「時がありますよ。待ちなさい。待ちなさい。時があります」と言って、私をとどめた。それで私は落ち着けた。心騒ぐ時、深呼吸して、心を鎮めて、祈って、落ち着いて考えてから行動する者でありたい。
はたし合いに出かける若い武士の物語を読んだことがある。凍てつく寒い夜に、はたし合いに出かける。けれども予定の刻限より早く家を出てしまったことに気づき、どこかで時間をつぶそうかと思っていたところ、橋の下の乞食の老人と出会い、暖かいお茶をもらいながら、老人の身の上話を聞くことになる。その老人はもと武士ではたし合いをして友人を傷つけ、その後、人生が破綻してしまったのである。彼はその時ははたし合いをしなければならない大義を感じて実行に移したわけだが、時間が経ってみれば、感情を制し切れず大事(おおごと)にした自分が幼かったという認識に至ったのである。その乞食の老人の一言一言は、人生を冷静に達観して見つめるように促すかのようであった。それを聞いているうちに、若い武士の心に変化が生まれ、はたし合いをする心が消え去った。彼は刻限にはたし合いの場所に行くも、そこは和解の場所に変わった。
第三に、私たちは、信仰者に対してだけではなく、未信者に対しても復讐してはいけない、ということ。24章でダビデが試みられたのは、主に油注がれたサウル王に対してであった。前回お話したように、新約聖書ではクリスチャンが主に油注がれた者として言われている(第二コリント1章21節 第一ヨハネ2章20節)。私たちは仲間のクリスチャンに対して憎むことや復讐することを許されていない。それどころか新約聖書では、へりくだって相手を自分よりすぐれているように見るように教えている。刺々しい感情はアウトである。だが、ナバルの場合は主に油注がれていない異邦人である。いわば、ノンクリスチャンの未信者である。未信者に対しては敵意を向けることや復讐は許されるのだろうか。ダビデは、相手が異邦人であっても復讐してはならないことを教えられた。そして、やはり、さばきは主にゆだねなければならないことを教えられた。38節では、「十日ほどたって、主はナバルを打たれ、彼は死んだ」とあり、39節後半では、「主はナバルの悪の報いをその頭上に返された」とある。人にした悪は、主によってその人に帰って来る。さばきは主がなされるのである。それは、私たちがすることではない。相手が未信者であっても、外国人であっても。
最後に、ローマ人への手紙12章17~21節を読んで終わろう。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人が良いと思うことを行うように心がけなさい。自分に関することについては、できる限り、すべての人と平和を保ちなさい。愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。『復讐はわたしのもの。わたしが報復する。』主はそう言われます。次のようにも書かれています。『もしあなたの敵が飢えているなら食べさせ、渇いているなら飲ませよ。なぜなら、こうしてあなたは彼の頭上に燃える炭火を積むことになるからだ。』悪に負けてはいけません。むしろ、善をもって悪に打ち勝ちなさい。」

