今日は、私たちが身近な人を通して信仰が試みられることを学びたいと思う。神は私たちの周囲に、いつも自分に賛成してくれる人、自分と気の合う人ばかりを置かれるわけではない。場合によっては、敵対するような人を置かれることがある。それらの人を通して私たちの信仰が練られるというか、研がれる。
ダビデは今、サウルに悩まされていた。悩まされたというようなものではなく、命まで狙われていた。サウルは今、狂気が宿り、イスラエルの国にとっても危険人物に成り果てていた。だがサウルは、神によって油注がれて王となった人物ということに変わりがない。ダビデがサウルにどう対処するかである。
ダビデはサウルの追跡を逃れ、エン・ゲディの荒野にいた(1節)。ここは死海の西岸にあるオアシス。その荒野には多くの断崖があり、多くのほら穴がある。ダビデはここでほっと一息ついていただろう。それも束の間、またサウルが追って来る(2節)。「三千人の精鋭を選り抜いて」と、これまで以上の意気込みである。絶対に確実に殺してやるという意気込みである。だが意外なことが起こる。その地に到着したサウルは、トイレ休憩のために一つのほら穴に入る。そのほら穴の奥には、なんとダビデと部下たちがいた(3節)。これは偶然ではなく神の摂理である。サウルはダビデたちの存在に気づいていない。皆さんがダビデであったらどうするか。飛んで火に入る夏の虫である。容易に命を奪える機会が訪れた。めったにないチャンスである。主が与えてくださったチャンスだ、やってしまおう、と意を決してもおかしくない。殺してしまわなくとも、サウルをやりこめる様々な選択肢はあった。とりあえず捕虜とする。縛って動けなくしてから逃げる。そのまま発見されないと餓死である。その他、方法はあっただろう。
サウルは用をたした後、おそらく休んで寝ていたのであろう。それを見た部下は、今がチャンスとばかり、ダビデに提言をする(4節前半)。部下は主の名を持ち出して、サウルの首を取ることは主のみこころにかなうものであると主張する。「今日こそ、主があなた様に、『見よ、わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。彼をあなたの良いと思うようにせよ』と言われた、その日です」。これは以前の主の誓いの引用なのか、それとも、部下による現在の状況の解釈なのか。いずれにしろ、誘惑となることばである。試されることばである。「そうだ、部下の言うとおりだ」と反応してしまうこともできた。だがそうすることは主のみこころではなかった。では、本当の主のみこころはどこにあるのか。ダビデは何をすべきなのか。
ダビデは短時間の間で、思いをぐるぐると巡らせ、一つの選択をする。ダビデの選択はサウルの上着の裾を切り取るというものであった(4節後半)。首を取るのでも、傷つけるのでも、縛るのでもない。けれども、この行為でさえ、ダビデは、自分はいったい何ということをしてしまったのかと、心を痛める(5節)。なぜだろうか。武士の世界では、主君に刃を向けたとか、それに近いことをしただけで、逆心を起こしたと判断され、切腹か、手打ちはまぬがれない。サウルの場合、人が選んだただの主君ではなく、神が選んだ主君である。たとい、今は狂気を宿していたとしても王として主に油注がれた者である。ダビデの行為は逆心とまでは言えないけれども、忠心の行為ではなかったことは確かである。なによりも、主に油を注がれた者を攻撃することは、主ご自身を責めることであった。「彼は部下に言った。『私が主に逆らって、主に油注がれた方、私の主君に対して、そのようなことをして手を下すなど、絶対にあり得ないことだ。彼は主に油注がれた方なのだから』」(6節)。ダビデは「私が主に逆らって」と言っている。主に油注がれた者を攻撃することは主に逆らうことであった。ダビデはサウルを攻撃してはいない。しかし、ちょっとだけ手を出してしまった。それで心は疼いた。ダビデは、もっと自制心を働かせば良かったと思っただろうが、がまんできずというか、ちょっとやってしまったのだと思う。
しかしながら、サウルを殺さなくてほんとうに良かった。ダビデはこの時、短時間の間にいろいろな解釈を試みて、サウルを殺すことを正当化できた。ダビデは主君に一生懸命仕え、敵国と戦い、勝利を挙げてきた。ダビデにはいのちを狙われる理由は全くない。この場合、サウルが百パーセント悪い。だから、「今ここでやっつけても正当防衛で何も問題はないはずだ」と。そして、サウルはもうイスラエルにとって存在悪になってしまっている。祭司の町ノブを破壊し、続いても、自分の言うことを聞かない町を滅ぼそうとした。神はサウルを離れてしまい、サウルは悪魔の手先となって動いている状況。「サウルは存在悪。誰のためにもならない。天に代わって私が成敗する」と言って正当化することもできた。そして、ほら穴での部下のことばは神から来たものだと解釈する余地があった。「そうだ。このチャンスは神が与えてくださったものだ。神が自分のところにサウルを送ってくださったのだ。多くのほら穴があるのに私がいるほら穴に来るというのは偶然ではない。主がくださったチャンスだ」。ダビデは次期王として、主に選ばれた者であった。ダビデは今こそ自分が王となる時と、サウルのいのちを奪うことができた。そして殺した後、「神さまがサウルを私の手に渡すためにほら穴に送ったのだ」とか、「私こそが王としてふさわしい器なのだ。イスラエルを混乱に陥れ、私のいのちを狙うサウルは一刻も早く死すべきであり、私が一刻も早く王に即位すべきなのだ」と、弁明することができた。人は自分の行いを正当化するために、様々な理由付けをするものであるが、ダビデは幸い、無用な理由付けをしようとしなかった。
サウルは主に油注がれた者である。これだけで殺してはならない十分な理由である。主に油注がれた者に手を下すのは、主に逆らうことなのである。普通の人であれば、耐えきれず、サウルを殺していただろう。しかし、ぐっとこらえ、そうしなかったということにおいて、ダビデは神の試験に合格したのである。ダビデは、人間的工作に走り、自分の力で王座にのし上がろうとはせず、神の時を待ち、神によって王座が与えられるのを待った。
ダビデは「主に油注がれた方」ということばを口にしたが、サウルやダビデのみならず、私たちクリスチャンも、主に油注がれた者である。「私たちをあなたがたと一緒にキリストのうちに堅く保ち、私たちに油を注がれた方は神です」(第二コリント1章21節)「あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので」(第一ヨハネ2章20節)。私たちはともすると、相手の失敗や罪や悪や、また相手のいやな部分にだけ目を留めるだけになってしまうが、相手がキリストを信じることを告白した人の場合、注ぎの油があった人だとわきまえて相対しなければならない。
7節前半を見ていただくと、サウルを殺さないことに決めたダビデに対して、ダビデの部下たちは納得せず、サウルに襲いかかろうとしたことがわかる。首領がやらないならば、我らがやると。ダビデがそれを必死に止めたことにも心を留めたい。「部下を説き伏せ」の「説き伏せ」は強いことばである。直訳すると、「ことばでずたずたに裂く」「ことばでずたずたに破る」「ことばでばらばらにする」、そんな訳になる。ダビデは部下たちの騒ぐ血を鎮めるために、かなり強いことを言ったことがわかる。かなり厳しい言い方をしたのだろう。それでなければ、血気盛んな彼らはサウルの血を流すはめになっただろう。サウルは何も知らなかったわけだが、緊張が走る場面である。ダビデは自らの手でサウルを殺そうとしなかっただけではなく、部下たちの殺害行為をも押しとどめた。りっぱである。「私は知りません。部下がやったことです」と白を切って事を済ませようとする話を耳にすることがあるが、そうしたことではない。
サウルはこの後、何も知らずほら穴から出ていく。その後のダビデのふるまいが、またりっぱである(8節)。ダビデもほら穴から出て行き、「王よ」と呼びかける。直訳は「我が主、王」。そして地にひれ伏して、王に対する姿勢を取った。サウルはダビデのこの低姿勢に接し、ダビデへの敵意が静まった。そして、それがダビデの言うことに耳を傾ける備えになった。もし、この姿勢がなければ、サウルの心は軟化しなかったはずである。話の先のほうでは、14節を見ると、ダビデは自分を「死んだ犬」「一匹の蚤」にたとえている。低い姿勢である。ダビデは話の中で、当然ながら自分の無実を訴える。そして特徴的なのは、神のさばきの介入を願っていることである(12,15節)。主が私とあなたとの間をさばいてくださいますように、という願いである。主にさばきをゆだねているがゆえに、12節後半にあるように、「私はあなたに手をかけることはしません」と自分から手を下すことはせず、そして15節後半にあるように、「私の訴えを取り上げて擁護し、正しいさばきであなたの手から救ってくださいますように」と、主の守りに託すのである。私があなたに手をかけないと私がやられてしまうとか、私の安全はあなたの決定にすべてがかかっているんだとか、そうした人間的駆け引きのことばは口にしていない。神のさばきと守りにゆだねている。神のさばきと守りにゆだねる、これが私たちの模範である。
神のさばきにゆだねるというとき、しばし誤解がある。直接、本人の口から聞いたことがある話だが、「あの憎たらしい人たち、今に神のさばきが下ればいい」。このことばの裏には復讐心がある。神のさばきにゆだねるというのは、相手に対して、敵意、憎しみを抱きつつ、神を復讐の道具として用いようということではない。やられたらやり返せの精神で、神のさばきを望むことではない。ダビデはサウルが亡くなるまで、サウルに何をされようとも、サウルのいのちを大切にすることに決め、愛の攻撃を続けた。サウルが死んでからもサウルに対して敬意を表明した。サウルは17節でダビデに、「おまえは私よりも正しい。私に良くしてくれたのに、私はおまえに悪い仕打ちをした」と告白したが、ダビデはそれとは正反対で、サウルに悪い仕打ちをされても、仕返しはせず、良くし続けた。これは私たちの模範である。私たちクリスチャンは、相手がどんな人であれ、相手に対して憎しみ、敵意を持つことや、それを形に現すことは許されていない(25章でも学ぶ)。
ペテロは不当な苦しみを受けているクリスチャンたちに対して、耐え忍びなさいと、キリストの姿を模範に挙げた。「キリストもあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を示された。キリストは罪を犯したことがなく、その口には欺きもなかった。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、脅すことをせず、正しくさばかれる方にお任せになった」(第一ペテロ2章21~23節)。そして、ペテロはこう語った。「悪に対して悪を返さず、侮辱に対して侮辱を返さず、逆に祝福しなさい。あなたがたは祝福を受け継ぐために召されたのです」(第一ペテロ3章9節)。ダビデは、こうした教えを実践した。私たちは腸が煮えくり返ったとき、静まって、ダビデやキリストの模範に思いを馳せ、神のさばきにゆだね、自分の態度を正していきたい。サウルは19節で「人が自分の敵を見つけたとき、その敵を無傷で去らせるだろうか」と言っているが、キリストはご存じのように、「あなたの敵を愛しなさい」と教えられた。
サウルはダビデとの対面で、感涙にむせび泣き(16節)、ダビデの正しさと自分の悪を認め(17,18節)、ダビデに祝福を与え(19節)、ダビデが次期の王であることを認めた(20節)。そして自分の子孫を断ち切らないでほしいとダビデに懇願した(21節)。こうしてハッピーエンドを迎えたというわけではない。ダビデとサウルは和解には至らなかった。人の心、感情というものは一時、良くなったように思えても、またぶり返してしまうことが良くある。サウルはこの後、またダビデへの憎しみが沸き起こる(26章)。涙を流し、和解のそぶりを見せても、またもとに戻ってしまうという様は私も見てきた。主にあって和解したはずなのにだめだったのかと。サウルの心の変化というものは一時的な表面的なものであった。根本的なものではない。22節をご覧ください。ダビデはサウルと一緒に帰ってはいかない。ダビデは要害へ上って行ってしまう。ダビデはサウルが気分屋にすぎず、根本的に変わっていないことを知っていた。また自分を追って来るだろうと分かっていた。だから、ダビデはサウルと距離を保つという選択をする。これ自体は必要な知恵である。
今日、私たちが一番学びたいことは、神さまは私たちをテストするために人を用いるということである。ダビデはこの後も生涯を通して人から試みを受けることになる。しかしこの場合はサウルであった。いつも自分を厳しく非難する人、いつも自分に反対する人、自分の考えと反対の考えを持つ人、性格がどうも合わないというか、心の色が違いすぎると思う人、そういった合わないなぁと思う人たちを通して、神さまは私たちを訓練される。自分と気の合う家族、気の合う仲間ばかりのところに身を置いていても、人は成長しない。ダビデの場合、サウルとは縁戚関係にもあったわけだが、自分のいのちを狙うという最悪の人物を通してテストにかけられることになる。そしてテストにみごとに合格する。そのテスト期間はほんの数か月ということではなかった。何年も何年も耐え忍んだ。逃亡しても、情報網を網の目のように張り巡らして追って来るという始末である。住む場所と地域を変えたからもう安心ということではなかった。警察に相談するも何もない。特高警察が束になって追って来るようなものである。周囲には迷惑をかけてしまうし煙たがられるしで、主イエスが言われた「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもありません」(マタイ8章20節)を主イエスに先立って強いられた。最大のテストと言っていいのは、ある意味、今日の場面である。敵が無防備な姿で目の前にいる。上着の裾を切り取っても気づかないということは、先に述べたように、おそらく休んで寝ていたというところだろう。百パーセントやっつけることができるチャンスである。手を下しいのちを奪ってしまおうという強い誘惑が襲っただろう。そうすれば追跡は終わり楽になれるし、自分が王になるという名誉も待っているし、そしてこの行為は理屈をつけて正当化してしまえると。命を奪うまでしなくとも、サウルを起こして、サウルを取り囲んで、何が主君だと言って、罵詈雑言を浴びせかけて、手荒に扱って生け捕りにしてしまうこともできたはずである。だが、ダビデはそうした選択はしなかった。ダビデは、サウルの上着の裾を切ってしまったけれども、これからまた追って来る敵に対して、平身低頭の姿勢を見せ、立ち去るままにさせた。さばきは主にゆだねたのである。私たちはこの姿勢に倣うことができるだろうか。

