本日から、ヨハネの手紙第一の講解メッセージを始める。主な目的は、今日のタイトルにあるように、イエス・キリストを正しく知ることにある。この目的が、この手紙が執筆された目的の一つである。使徒ヨハネは冒頭から、イエス・キリストのまことの姿を伝えることに心を砕いている。使徒ヨハネはキリストの弟子として、キリストの直接の証人である。もしヨハネのキリスト観からずれてしまっているのなら、その人は偽り者ということになる。実は、ヨハネが生きていた時代、すでに、間違ったキリスト像を伝える者たちが現れていたのである。そして人々を惑わしていた。ヨハネがこの手紙を通して、イエス・キリストはまことの神でありまことの人であることを教えようとしている。
当時、どのような異端が存在したのかということだが、有名な異端者にケリントスという人物がいた。彼は、人間イエスとキリストという存在を分けて考える。人間イエスがヨルダン川で洗礼を受けた時、霊的存在であるキリストが鳩のようなかたちでイエスの上に下った。しかし、十字架の苦しみの前に、キリストはイエスを残して飛び去り、人間イエスだけが十字架の上で苦しみを受け、復活した。このように主張するケリントスにとって、イエスはあくまでも人間であり神ではない。イエスとキリストを分けてしまうのである。しかもキリストは神的存在であっても、まことの神と言うわけではない。ケリントスについての逸話を、使徒ヨハネの弟子のポリュカルポスが残している。ヨハネがエペソで公衆浴場に行ったところ、ケリントスが中に入っているのを見て、「真理の敵ケリントスが中にいるから、浴場が地に落ち込まないうちに早く逃げよう」と言って、入浴せずに表に出てしまったそうである。
また当時、キリストが肉体を持った人であることを否定する仮現論(ドケティズム)という説が流行した。ドケティズムは、キリストが肉体をもってこの地上に来られたことを否定した。キリストの肉体は幻影である、肉体をもっているように見えたにすぎない、というわけである。ドケティズムの基盤となっているのがグノーシス主義で、霊のみが善、肉体と物質は悪という二元論に立つ。そうすると、神が悪の肉体を持つはずがないということになる。肉体をもって十字架の上で苦しむことも信じない。また汚らわしい肉体の復活も信じない。つまり、キリストの人性(人間としての性質を持つこと)を信じない。
こうした間違ったキリスト観は世の終わりまで消えないだろう。その他にも、イエス・キリストをただの偉人に見立てる教えや、イエス・キリストを天使的被造物とする教えや、霊的に進化した存在であるとか、とにもかくにも多くの間違った教えがある。日本の一例を紹介すると、遠藤周作を挙げることができるだろう。彼はイエス・キリストから神性をはく奪する。そして、復活も信じない。彼はイエスの復活を次のように説明している。「使徒たちの心の中で、イエスはキリストというかたちで生き始めた。彼らの心の中で死んだイエスは再生し始めた。イエスの理念は弟子たちの心の中に残って、イエスがそれによって再び生き始めた。これが復活の一つのかたちである」。イエスは死んだけれども、弟子たちの心の中で救い主として再生した。弟子たちの心の中で生きている。これが復活であるということで、文字通りの歴史的復活は信じていない。彼にとって復活の意味はもう一つあるようである。イエスは死んで大いなる生命体(神)のところに還った。これが復活のもう一つの意味なのだと言う。肉体の復活は信じてない。遠藤は「聖書には、本当にイエスが送った生涯や言葉は書かれていません」とまで述べているのだが、ではイエスがどうしてキリストと呼ばれるようになったのかということについて、要約すると、次のように説明している。「イエスは一個の労働者、貧しいユダヤ教徒の一人だった。当時の政治的、社会的、宗教的危機に直面し、ナザレを出る決心をした。イエスはバプテスマのヨハネの思想に共鳴し、バプテスマのヨハネの教団に入会した。入会の儀式がヨルダン川でのあの洗礼。ヨハネ教団でイエスは頭角を現していったが、イエスの心の中に、バプテスマのヨハネとは異なる教えが芽生えていった。そしてイエスは、バプテスマのヨハネのもつ神のイメージ(厳しい父親としての神)、このイメージに満足できず、やがて離脱。そして独自のグループを結成。イエスによってバプテスマのヨハネにみる怒りの神、裁きの神、罰の神は、愛の神、赦しの神に変えられていく」。遠藤は母性的な神を前面に押し出し、神の父性的な側面を消し去る。そして、イエス・キリストという存在を無能で何もできないイエスに変えてしまい、愛のお方、優しいお方、慰めてくださるお方、弱者の味方としてのイエスを強調することになる。遠藤にとってイエスは人間の次元にとどまる存在でしかない。現代はこのようなキリスト観を持っていたとしても異端と呼ばれることからまぬがれ、クリスチャンと呼ばれたりする。ヨハネは異端を見分ける専門家であったので、彼がもし現代も生きていてくれたらと思うことがあるが、ヨハネの異端反駁の手紙が残されているということは心強い。
ヨハネの手紙第一の書き出しは変わっている。通常、あいさつ文から始まるものである。しかし、そのあいさつ文が全くない。いきなりイエス・キリストの紹介で始まる。彼がいかにイエス・キリストを正しく伝えたかったかがわかる。では1~2節を見ていこう。
「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」(1節)。ヨハネは「すなわち、いのちのことばについて」と、いのちのことばの紹介をしている。そのいのちのことばとは、「初めからあったもの」である。ヨハネの福音書の書き出しである、「初めにことばがあった」(ヨハネ1章1節)を思い起こす。初めからあったものとはドーナツではない。それは人間が作ったものであるから。では、初めからあったものとは人間なのかというと、そうではない。では、初めからあったものとは物質なのか。そうではない。「いのちのことば」という人格なのだと言う。これが初めの初めにあったもの。永遠の初めにあったもの。すなわち、「いのちのことば」とは神を言い換えた表現に他ならない。そのお方が受肉した(人となられた)。文字どおり人となられた。ヨハネはそのことを証言していく。
「私たちが聞いたもの」。ヨハネは直接、キリストの唇から伝わる神のことばを聞いた。まさしくそれは、いのちのことばであった。ヨハネはキリストのバプテスマから昇天に至るまでの期間、キリストと寝食をともにし、ことばを交わし合い、み教えを受けて来た。
「自分の目で見たもの」。この表現は、目撃者であるという立場に強調が置かれている。ヨハネはキリストの声を聞いただけではなく、実際の目撃者なのである。彼の証言は目撃者証言なのである。
「じっと見つめ」。ヨハネは見たことを繰り返している。「じっと見つめ」は、誰かあるいのは何かを熟視する、凝視するという意味で、この目でしっかり見たこと、肉眼で確かに見たことを強調する表現である。何かを観察する時、このような見方をする。ヨハネはよ~く見たのである。「キリストの肉体は一つの幻影にすぎない」という噂を流していた人たちがいたが、キリストは幻でも幽霊でもなく、まさしく肉体をもっていたのである。
「また手でさわったもの」。自分の目で見て、じっと見つめて、それでも見間違えたのだろうとあざける人たちの批判をヨハネは許さない。手でさわったのだと。ヨハネは肉体的接触を強調している。キリストは復活された時、弟子たちに対して、「わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、良く見なさい。幽霊なら肉や骨はありません。見て分かるように、わたしにはあります」(ルカ24章39節)と、見ることとさわることをセットで語られた。この時、その場にいなかったトマスに対しては、八日後に、「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわき腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい」(ヨハネ20章27節)と語られた。異端は、神が物質的からだを持つはずはないと説いていた。物質は悪であるからと。しかしまことの神は肉体を持ち、まことの人となられた。
ヨハネは聞くという聴覚、見るという視覚、さわるという触覚を用いて、いのちのことばであられるイエス・キリストを体験したのである。初めからあった、永遠の存在者を体験したのである。証言というものは、一人の証言では真実とはされない。1節を直訳すると、こうなる。「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちが自分の目でみたもの、私たちがじっと見つめ、私たちが自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて」。ヨハネは「私たち」と言うことによって、証言は独りよがりのものではなく真実なものであることを証している。このようにしてヨハネは、イエス・キリストの神性を否定することも、イエス・キリストの人性を否定することも許そうとしない。現代では、イエス・キリストの神性を否定しようとする傾向のほうが強いだろうか。イエス・キリストにある程度の神性を認めても、神々の一人のような位置づけ、我々人間よりはるかに霊的進化を遂げた人物といった位置づけで、「初めからあったいのちのことばなる神」と信じることはしない。現代のほとんどの宗教のキリスト観がそうである。ヨハネが生きていた一世紀末に、すでに誤ったキリスト観が横行し、人々を惑わしていた。キリスト者も惑わされていた。ヨハネはこうした現状をほおっておけなかった。当時の異端はグノーシス主義という古代教会を惑わすことになる異端の走りであるが、グノーシス主義はニューエイジムーブメントという現代のあらゆる分野に浸透している偽りの教えの源流にもなっていて、今も脈々と流れている。だから、私たちはヨハネに聞いていかなければならない。
「このいのちが現れました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなたがたに伝えます」(2節)。他宗教でも異端グループでも「いのち」ということばは使う。では何が本当のいのちなのかということになる。ヨハネの文書の特徴の一つは、イエス・キリストを「いのち」または「永遠のいのち」として紹介していることである。「いのち」というのは、それがなければ死んでいることになる実体である。いのちがなければ死んでいるということである。明らかにヨハネが伝えているのは、肉体のそれとは違う。肉体のいのちならば、人間だけではなく動物も虫も持っている。では人間が動物や虫と違うことは何だろうか。人間に特有なことは、神のかたちに造られたという事実である(創世記1章27節)。それは言い換えると、神と交わるように造られたということである。だから、神抜きの人生はほんとうに生きているとはならない。人は神と交わり生きるように造られている。その神とは人間にとっていのちであり、永遠のいのちである。そのお方がイエス・キリストである。イエス・キリストは神を現す神となられた。イエス・キリストがまことの人として、聞き、見て、さわることができるお方として来てくださらなければ、人間は神を正しく知ることはできなかった。それだけではなく、イエス・キリストを通してでなければ、いのちを得ることはできなかったのである。そのいのちとは神と交わるいのちであり、永遠のいのちなのである。その永遠のいのちはイエス・キリストである。ヨハネは、イエス・キリストを少しでもゆがめて見てしまうこと、イエス・キリストを少しでも小さく見てしまうことを許さない。私たちは、これからもイエス・キリストを正しく知ることに努め、そしてキリストとの交わりに生きていこう。

