皆さんは、何か無くしものをして、捜して見つかって喜んだという経験はあるだろうか。私は小学生の時、道路で万年筆を見つけて、ラッキーと喜んで、家に戻ってそれを誇らしげに家の人たちに見せたら、おじいちゃんが、「それ俺のだ」と言って、取り上げられてしまった。喜び半分で終わったという話である。
ルカ15章は、「失われた羊のたとえ」「失われた銀貨のたとえ」「失われた息子のたとえ」と、「失われた」ということが共通していて、失われたものを見つけて喜ぶということも共通している。
これらのたとえによって、失われた者を宝物のように捜す神の愛を教えようとしている。私は迷子捜しや行方不明者の捜索に携わったことがあるが、主イエスは神の前に失われているかどうか、迷子になっているかどうかを問題にしている。
今日の場面は、ルカ5章29~32節の収税人レビが開催したパーティを思い起こさせる場面から始まる。「さて、取税人たちや罪人たちがみな、話を聞こうとしてイエスの近くにやって来た。すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った」(1,2節)。「取税人」は、ユダヤ教では強盗や殺人者と一緒にされていた。取税人の家族にまでその恥辱は及び、彼らはユダヤ人社会のコミュニティの場である会堂から締め出され、裁判では証人の資格すらはく奪された。取税人イコール『汚れ』と位置づけられ、異邦人同様にみなされた。そして彼らは、神の厳しいさばきにしか値しないと決めつけられていた。続いて「罪人」であるが、罪人ではない人間はいないわけだが、ここではユダヤ社会の中で特に罪深いとみなされていた人たちに対する呼び名である。収税人も罪人の範疇に入れられていた。「罪人」に分類されるのは、律法学者たちが教えている生活規範、規則、そうしたことに無知であったり、それに従わない人たちのことである。取税人たち、罪人たちは、神の愛顧を得られない汚れた存在と位置付けられ、社会から疎外され、完全な嫌われ者であった。そのような彼らが1節をみると「みな」、主イエスの近くに集まった。主イエスは前回の箇所で群衆に対して、「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子となることはできません」(14章27節)と厳しいことを言われたお方だが、なぜか罪人たち「みな」が集まって来るようなお方であった。主イエスは、罪人と言われていた人たちのように放埓な生活をしていたわけではない。愛が放埓であった。えっと思われるような人たちまで愛し、誰でも分け隔てなく愛された。それを表わすことばが二つ言われている。一つは「受け入れて」。ウエルカムの姿勢である。歓迎するという意味である。もう一つは「一緒に食事をしている」。当時にあって、食事は特に「親しい交わり」を意味した。主イエスは罪人たちの一団に溶け込んでしまっている。彼らは社会から疎外されていただろうから、「同類相憐れむ」で、食事も自分たちで固まって一緒にする機会が多かっただろうが、そこに主イエスもいるわけである。彼らの仲間の一人のようにして。パリサイ派の人たちにとって、これは異常な光景にしか映らなかっただろう。言語道断、なんと不埒な!そこで「文句」を言ったようである。これは神に対するつぶやきに等しいものである。それに対して、主イエスは三つのたとえを語るが、今日は二つだけ見てみよう。
最初は「失われた羊のたとえ」である(4~7節)。主は当時、見慣れた光景を持ち出す。たとえの羊飼いは羊を百匹持っている(4節前半)。当時の羊飼いは、羊を二十~二百匹飼っていたとも言われ、「百匹」は平均的というか、並みの羊飼いの規模である。そのうちの一匹をなくしてしまったというのである。この失われた羊は、この場面では、取税人たち、罪人たちのことである。パリサイ派の人たちは、罪人たちは神の前から失われた存在であることを認めていただろう。でも、パリサイ派の人たちは彼らを無視して、近づかない、連れ戻そうともしない。失われたままにしている。だが、主イエスは良い羊飼いである。旧約聖書では主なる神が良い羊飼いであることが記されていた(詩篇23編1節、イザヤ40編11節、エゼキエル34篇15,16節)。
羊飼いは、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩く(4節後半)。ただ捜すのではなく、「見つけるまで」である。かなりの時間を費やし、肉体も疲れることになる。こうした犠牲を払うのも、一匹の羊への愛からである。
「見つけたら、喜んで羊を肩に担ぎ」(5節)とあるが、それは、あちらこちらさ迷いくたびれ果てている羊を思いやっての姿勢である。羊が傷を負っていることも考えられる。「肩に担ぎ」の直訳は、「両肩に乗せる」となり、背中におんぶして、四本足を胸の前でつかむ姿勢である。優しい羊飼いである。こうして喜びつつ帰途につく。だが、それで終わらない。
失った羊を無事連れ帰った後に、男友達や、近所の男の住人を招いて、男たちだけで喜び祝ったそうである(6節)。
主イエスはこのたとえの後に言われる。「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人に正しい人のためよりも、大きな喜びが天にあるのです」(7節)。「一人の罪人が悔い改めるなら」とは、「一人の罪人が神に立ち返るなら」ということである。その時、「大きな喜びが天にある」。とっても魅力的な表現である。私たちもこの喜びに与りたい。天に喜びがあるという表現は、ユダヤ教の文書にもあるが、しかし、喜ぶ理由が違う。ある文書には、いらだたせる人々が打ち負かされ、邪悪な人々が押しつぶされ、不敬虔な人々が裁かれる時に、天に喜びがあると書かれている。まさに、パリサイ派の人たちの喜びはこのようなものでしかないだろう。悲しいかな、自分を正しいとする人たちは、今もパリサイ派の立場に立つだろう。この節の「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」とは、パリサイ人たち、律法学者たち、彼らにならう者たちが念頭に置かれていると言ってよいだろう。18章9節には、「自分は正しいと確信していて、ほかの人々を見下している人たちに」というフレーズがあるが、「悔い改める必要のない九十九人の正しい人」とは、このような人たちのことを指すのだろう。お前たちは惰弱だ、意志が弱い、と人を裁き、自分の意志の強さ、正しさを真っ当な人間の条件のようにみなしてしまっている。そうして、惰弱だとみなす人たちを憎んだり、軽蔑したり、無視したり、拒んだりするだけで、距離を置くことに終始する。けれども私たちは、主イエスが失われた羊のたとえで話された、真っ当な羊飼いの側に身を置く者たちでありたい。弱くて愚かな羊を受け入れ世話し、また捜す。そして、それを見つけて喜び合う。
続くたとえは「失われた銀貨のたとえ」(8~10節)。先ほどのたとえの羊飼いは男性であったが、今度は女性が主人公である。彼女は「ドラクマ銀貨十枚」を持っていたが、その一枚を紛失する(8節前半)。「ドラクマ」はギリシアの銀貨で、紀元前300年頃は、一ドラクマで羊一匹飼えたというが、その後、価値が下がっていって、一世紀頃になると、一デナリ程度の価値まで下がったと言われる(欄外注)。一デナリは一日分の労賃に相当する。この一枚をなくして、見つけたらみんなに教えて喜び合うという描写から、このドラクマは彼女にとって特別なもので、結婚の持参金の一つで、ネックレスにして首にかけていたものであると言われることがあるが、その証拠はない。はっきり言えることは、この女性は銀貨一枚を床に落としてなくしたということである。おそらくは庶民階級の人であると思われる。金持ちであれば、銀貨一枚見つけても、そんなに興奮することもなく、当初あったところにしまって終わりだろう。
当時のパレスチナの庶民の家は、壁が石か泥の煉瓦で、窓がない家もある。窓はあったとしても小さなものでしかない。家の中は暗い。しかも床は石ではなく土。土に紛れ込んでしまいやすい。以上のようなことから見つけにくい。時間帯が夕方であったのなら、なおさらである。捜す時は少しでも明るくしようと「明かりをつけ」、「掃いて」、「見つけるまで注意深く」、すなわち念入りに捜した(8節後半)。
失った銀貨一枚を見つけたら、「女友だちや近所の女たち」を招いて、喜びを分かち合う(9節)。ちょっとしたパーティを開いたかもしれないが、この時にかかった費用は、一ドラクマを超えたかもしれない。だが関心は経済的なことにはない。問題は損得ではない。大事なものが見つかったという喜びは、一切の打算を超える。次回見る「失われた息子のたとえ」も同じ。放蕩息子が帰って来た時、財産を食いつぶした息子のために、父親は王子様を迎えたような出費の大きいパーティを催す。兄息子のほうはそれを見て憤慨してしまう。父親は「いなくなっていたのが見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか」と答えることになる(32節)。「失われた息子のたとえ」は次回見ることとしよう。
主イエスは言われる。「あなたがたに言います。それと同じように、一人の罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちの前には喜びがあるのです」(10節)。これも天にある喜びの描写である。一人の罪人が神に立ち返ったのならば、喜びが天に湧き上がる。良く見ると、7節でも10節でも、「それと同じように」と言って、失われたものを見つける喜びを、一人の罪人が神に立ち返ることを喜ぶことにつなげている。パリサイ派の教えを信奉している人たちでも、失われた羊を見つけて喜ぶのはナルホドと思うだろう。失われた銀貨を見つけて喜ぶのもナルホドと思うだろう。羊にも銀貨にも価値を見出していた。それと同じように、神は失われた一人の罪人に価値を見出している。取り戻した時の喜びは計り知れない。では、あなたがたも同じなのか?あなたがたは取税人や罪人と言われる人たちのことをどう思うのか?ということである。パリサイ派の人たちは、彼らのことを、羽毛やマトンを提供してくれる羊以下にみなしているのではないか。銀貨1枚ほどの価値も与えていないのではないか。憎み、無視し、近づかず、嫌っていただけであったのではないだろうか。ゲヘナに投げ込まれればいいと思っていたのではないだろうか。主イエスはそうではない。罪人と言われる人たちであっても主イエスにとっては大切な存在で、彼らを受け入れ、また、近づき、愛し、交わりながら、救いの福音を提供した。そして彼らの救いを喜んだ。確かに、彼らは不敬虔な者たちだろう。自分たちにもその自覚があっただろう。
聖書にはこうある。「実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました」(ローマ5章6節)。ここにキリストの愛が啓示されている。そして、悔い改めと信仰をもってこのキリストを信じる者が義と認められるのである。「しかし、働きがない人であっても、不敬虔な者を義と認める方を信じる人には、その信仰が義と認められます」(ローマ4章5節)。自らの不敬虔を自覚する者にとって、これは大いなる福音となる。
今日のタイトルは「失われた者への愛」ということだが、失われたということは、もともと誰かの所有であったということである。不敬虔であろうが、何であろうが、もともと誰かの所有である。失われた羊は男の羊飼いのものであった。それは羊飼いにとって大切な家畜であった。失われた銀貨は女の持ち物であった。それは女にとって大切な銀貨であった。だから、それを失ったら、捜すのは当たり前でしょ、見つけるまで捜すのは当たり前でしょ、見つけて喜ぶのも当たり前でしょ、ということになる。いなくなった羊もなくした銀貨も、もともと主人のもの。それを捜すのは当然であるし、それが見つかったならば、喜ぶのは当然。やがて主イエスは取税人ザアカイを見出した時、「人の子は失われた人を捜して救うために来たのです」(19章10節)と告げられる。ザアカイも罪人と揶揄されていた嫌われ者であった。けれども、もともと神さまのものである失われた羊であった。大切な羊であった。罪を犯して、神さまのもとからさ迷い出てしまっていただけのことである。主イエスは15章の冒頭の場面では、もともと神さまのものである失われた羊を捜し求め、見つけた、良かった~、とやっているのだから、「この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事までしている」などと文句を言うべきではなかった。本来なら、良かった、良かったと、主イエスと喜びを共にすべきであった。
今日の箇所では、キリストの人間観ということを教えられるし、キリストと同じ「捜す愛」を持ちたいと教えられる。そうして、神さまのもとから失われてしまった大切な人を見つけ出し、主イエスとともに、天の御使いたちとともに喜びたいと思う。