今日の教えは、他の福音書にはない、ルカの福音書だけが伝えている教えである。前回の箇所で主イエスは、「どうして今の時代を見分けようとしないのですか」(12章56節)と、今の時代は神の審判が差し迫っている時代であることを教えようとされた。そして、今の時代に必要なことは悔い改めであることを暗示された。今日の区分では、主イエスははっきりと「悔い改め」に言及される。6節からの「いちじくの木のたとえ」も悔い改めを教えるものである。

今日の箇所で、初めに二つの事件が言及されている。主イエスが群衆に語っておられた時のこと、ショッキングなニュースが飛び込んできた。「ちょうどそのとき、人々が何人かやって来て、ピラトがガリラヤ人たちの血を、ガリラヤ人たちが献げるいけにえに混ぜた、とイエスに報告した」(1節)。「ピラト」とは、後に主イエスを十字架につけることになるローマ総督ポンテオ・ピラトのことである。彼は主イエスより約20歳年上で、悪名高い人物として知られていた。「賄賂、侮辱、強奪、暴行、気ままな障害、いつも繰り返される裁判抜きの処刑、止む事のないひどい残忍さ」(フィロン)。ピラトの統治はひどかったようで、このような事件もあり得ることである。ガリラヤ人の巡礼者たちがエルサレムに上って神殿でいけにえを献げようとした時に、ガリラヤ人たちをいけにえ同様に扱ってしまった。これは、ピラトの神を敬う思いの無さ、またガリラヤ人を侮蔑していたことの表れである。

主イエスはこのニュースを聞いて応答するが、死んでしまったガリラヤ人に対して無関心だとか、冷たい感情しかもっていないということではない。主イエスも人としてはガリラヤ人で、弟子の多くがガリラヤ人である。彼らの死を悲しんだだろう。主イエスはこの後、神の裁きで全滅することになる首都エルサレムのために、13章34節では「エルサレム、エルサレム」と嘆き、19章41節では、エルサレムを見て泣くことになる。箴言17章5節には「人の災難を喜ぶ者は罰をまぬがれない」とある。主イエスに人の災難を喜ぶ精神はない。

主イエスの応答発言は、頑迷なユダヤ人たちを意識してのものである。「イエスは彼らに言われた。『そのガリラヤ人たちは、そのような災難に会ったのだから、ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか』」(2節)。ユダヤ人の考え方として、尋常ではない死に方をする人は、普通の人たちより罪深いと見る傾向にあった。「あんなひどい災難に会うのは、よほど罪深いんだ」とか、「あんな死に方をするのは、何か隠れた罪があって、その罰として死んだんだ」とか、そのように見る傾向が強かった。因果応報、応報賞罰主義。主イエスはここで、このような見方をしているユダヤ人たちを意識して発言している。さも、自分たちは悔い改める必要のない、ワンランク上の人間かのように勘違いしている人たちを意識して発言している。彼らは、滅びるということを他人事のように思っている。自分たちは関係のないことだという風に。「ほかのすべてのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったと思いますか」の「思いますか」<ドケオー>ということばは、そうではないのに、そう思い込むということばである。

主イエスが次に言われることは、みな罪人で、みな悔い改めなければ滅びるということである。「そんなことはありません(彼らだけが特別に罪深いということはありません)。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めなければ滅びます」(3節)。みな罪人ということにおいて同じあるし、悔い改めなければ滅びるというのは平等である。他人の詮索をしている場合ではない。

主イエスはもう一つの知られていた事件を取り上げる。「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも多く、罪の負債があったと思いますか」(4節)。エルサレムの南の壁と東の壁のぶつかる角のところに、城内に造られた池があった。そこが聖書にも出て来る「シロアムの池」である。ここに立っていた塔が崩壊して、十八人が下敷きになって死んだ。こうした非業の死を遂げた人たちは、罪深い人たちだとうわさされていたのだろう。主イエスは、ここで罪深いことを、罪の負債が多いという表現で語っている。神に対して罪の負債が多いというのはみな同じである。主イエスはここで、先の事件と同様、非業の死を遂げた人の罪の状態とか、死後どうなるとか、そういうことに関心を向けさせたいのではない。先に死んだ人も、今生きている人たちも、神の前には等しく罪人で、悔い改めなければ、誰もが滅びる。だから、我が身を振り返りなさいということである。

「そんなことはありません。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」(5節)。主イエスは3節の警告を繰り返していることに気づいていただきたい。繰り返しているということは、悔い改めを切に願っているということである。「あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」の「滅びる」<アポリュオー>ということばも説明しておこう。このことばの元の意味は、「見失う」「なくす」という意味である。在るべきところにない、ということである。このことばはルカ15章の「いなくなった羊のたとえ」で、「いなくなった」と訳されている(4節)。神のもとからいなくなった、主イエスのもとにいない、失われた羊のようになってしまった、この状態そのものが滅びと言えるし、滅びにつながると言える。結局、「滅び」とは、私たちを造られた神さまとの関係性の問題である。神さまに背き、神さまのもとから失われ、いなくなって、神さまから離れて生きているなら、それは滅びに向かっているということ。神さまとの関係が切れてしまえば滅びである。しかし、罪を悔い改めで、神さまのもとに立ち返るなら、それが「救い」である。旧約聖書を見ると、「神に帰れ」といった呼びかけが良く見られる(イザヤ50章7節等)。「神に帰れ」という呼びかけは、神知識があったユダヤ人たちに対して向けられていた。また主イエスのことばを聞いていたのもユダヤ人たちで、彼らは神知識はあったし、かたちとしては神殿で礼拝もささげていた。けれども、神に立ち返っていなかった。失われたままであった。別の言い方をすると、悔い改めることを拒んでいた。

そこで主イエスは、「いちじくの木のたとえ」を語る(6~9節)。6節を見ると、なぜかぶどう園に「いちじくの木」が植えてある。たまたまという感じはしない。古代の博物誌には、ぶどう園にはいちじくの木を植えるのがよろしいと書いてあるそうである。実家でもぶどうを栽培していたが、ぶどうは蔓を這わせて栽培する。その蔓をいちじくの木に絡ませると思われる。ユダヤ人たちは「ぶどうの木」と聞けば、それはイスラエルの民の比喩だとわかった(エゼキエル15章2,6節)。では「いちじくの木」は何のことか。やはり、イスラエルの民のことである。「わたしはイスラエルを、荒野のぶどうのように見出し、あなたの先祖を、いちじくの木の初なりの実のように見ていた」(ホセア9章10節)(ヨエル1章7節参照)。主イエスの講話の流れから言って、このたとえはユダヤ人への警告のたとえであることがわかる。だが、「いちじくの木のたとえ」は私たちに適用できる。いちじくの木を植えた「ぶどう園の主人」は、神さまを指すことは疑いの余地はない。ぶどう園の主人は、実が生っているかどうか、時々、視察に来る。7節に登場する「ぶどう園の番人」とは、キリストを指すのかもしれない。主人は番人に言う。「見なさい。三年間、このいちじくの木に実を探しに来ているが、見つからない。だから、切り倒してしまいなさい。何のために土地まで無駄にしているのか」。この「三年間」がいつからのことを言っているのか、正確にはわからない。木を植えてから三年間のことなのか、だが、レビ記19章23節の果樹に関する律法では、植えてから三年間は食べてはならないとあるので、その三年間が経ってからの三年間のことなのか、もっと経ってのことなのか、わからない。また、この「三年間」とはキリストの公生涯の三年間が暗示されているかもしれないが、確かな証拠はない。大切なことは、当然、実を期待できる三年間であったが、実が見られなかったということである。実が生らないいちじくの木の運命は、切り倒されるということである。それは、裁きの描写である。

では、ここでの「実を探しに来たが、見つからなかった」と言われているいちじくの実とは何だろうか。「実」とは、悔い改めの実である。それがないということである。バプテスマのヨハネは、自分のところにバプテスマを受けに来た群衆にこう言った。「まむしの子孫たち。だれが迫り来る怒りを逃れるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(ルカ3章7,8節)。主イエスは「平地の説教」でも「実」について語っていた。「良い木が悪い実を結ぶことはなく、悪い木が良い実を結ぶこともありません。木は、それぞれ実によってわかります。茨からいちじくを採ることはなく、野ばらからぶどうを摘むこともありません」(ルカ6章43,44節)。このように言われた後、「なぜあなたがたは、わたしを『主よ、主よ』と呼びながら、わたしの言うことを行わないのですか」(同46節)と言われている。実によって、その人の本質がわかる。

いちじくの木は切り倒されたかというと、もう一年の猶予が与えられたようである(8,9節)。「木の周りを掘って、肥料をやってみます」という提案が番人からあった。これは、当時、実際に行われていた処置であったようである。番人は、当時の農業の知識、技術からいって、できることは全部やってみて、それでもだめならという選択を主人に話してみた。主人としても、実が欲しくて植えたわけだから、この提案を受け入れただろう。最初から切り倒すつもりなら植えやしない。ここに、父なる神と御子イエス・キリストの愛の忍耐と、愛の共同作業ということを感じる。

ペテロは、裁きの日が来るのが遅いぞ、と言っている人たちにこう語った。「主は、ある人たちが遅れていると思っているように、約束したことを遅らせているのではなく、あなたがたに対して忍耐しておられるのです。だれも滅びることがなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです」(第二ペテロ3章9節)。このような意味において、今も一年猶予の時代と言えるだろう。それは神の愛の忍耐の時代である。神の審判が差し迫った時代であるが、同時に、神が悔い改めを待つ時代である。ノアの時代はどうだっただろうか。神はノアに箱舟を造らせ、ノアを通して人々に救いを呼びかけた。けれども、人々は応じることなく、依然として世俗のことに没頭し、自分たちの欲にふけり、結果、洪水で滅んでしまった。

科学的にこの銀河系はいつまで持つのかとか、この太陽系はいつまで持つのかとか、いつ滅びる可能性があるとか、計算がされている。それはそれで良くとも、私たちは聖書から、今の時代は、神の審判が差し迫った時代であること、万物の終わりが近づいていること、そして、まだ終わりの日が来ないというのは、神が忍耐しておられ、だれも滅びることなく、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるからだ、ということを受けとめておかなければならない。そして終わりの日が来る。それは悔い改めない人にとっては「御怒りの日」でしかない。神はその日、一人ひとりの行いに応じて裁かれる。パウロはそのことをローマ人への手紙2章で論じている。「あなたは、頑なで悔い改める心がないために、神の正しいさばきが現れる御怒りの日の怒りを、自分のために蓄えています。神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます」(ローマ2章5,6節)。

以上が、今日の教えの説き明かしだが、私たちは今日の教えから、自らが悔い改めを尊ぶことを教えられた。当時のユダヤ人たちのように、自分のことは棚に上げて人を裁くばかりで、自分のことを顧みない者たちとはなりたくない。他人のことは良く見えるが自分のことが見えないのが私たちである。そして、真の悔い改めとは何かも教えられた。それは悔い改めの実を結ぶことである。口先で「主よ、主よ」と言うことではない。また私たちは、「いちじくの木のたとえ」から、周囲の人たちに対して、たとえの番人のようになりたいと思わせられる。今は神の愛の忍耐の時代である。神が悔い改めを待つ時代である。番人は、実を結ばないいちじくの木に対して、できることはやってみようとした。「早く切り倒しましょう」ではなく、「木の周りを掘って、肥料をやってみましょう」と。私たちも番人と同じ立場で、人々の救いのためにとりなしつつ、やるべきことはやってみる、木の周りを掘って肥料をやってみる、その人に関わってやれることはやってみる、一緒に時間を過ごす、必要な助けをする、みことばを伝える、そうした者たちでありたいと思う。