今日は、クリスチャンに愛されているメッセージをご一緒に学ぼう。13章31節からキリストの告別説教が始まっているが、今日の箇所から新たな説教の区分に入る。これまでは、告別の辞に心騒がせ不安になる弟子たちに対して、キリストは、「あなたがたを孤児にはしない。もうひとりの助け主を与える。聖霊がともにいてくださるのだ。あなたがたに世が与えるのとは違う平安を与える」と、励ましのメッセージを与えてきた。そして15章に入ると、今度は、弟子として実を結ぶようにと、積極的な勧めをされている。

「わたしはまことのぶどうの木あり、わたしの父は農夫です」(1節)。私は農家出身なので、父なる神は農夫という表現に安心を覚えてしまう。もちろんキリストは比喩として言われているわけだが、実は、ぶどう園、ぶどうの木は、イスラエルのシンボルだった。ユダヤで発行されていた貨幣には、ぶどうの図柄が描かれていた(日本の五円玉には稲穂が描かれている)。また当時のエルサレム神殿には、人の背丈よりも高い、大きな黄金造りのぶどうの木が立てられていたようである。イスラエルをぶどうの木に見立てたのは神ご自身だった。イザヤ5章1~7節「ぶどう畑の歌」を開いて読んでみよう。農夫である父なる神は、イスラエルを良いぶどうの木として植え、管理してきた。しかしながら、悪いぶどうの木になってしまった。悪い実を結んでしまった。エレミヤ2章21節も読んでみよう。同じような表現がとられている。

キリストがご自分をぶどうの木とされたということは、キリストは新しいイスラエルであるということである。そしてキリストを信じる者がキリストの枝であるので、キリストをかしらとするキリストの教会がぶどうの木であると言うこともできるだろう。これまでぶどうの木は、エジプトから救出され約束の地に植え付けられたイスラエルに限定されていた。ユダヤ人という民族に限定されていた。しかし、真のイスラエルとは、地域、民族を越えて、キリストをかしらとする、キリストを王として信じる者たちであることを、キリストは示されている。私は神の民だと自負していたユダヤ人、選民意識を強く持っていたユダヤ人であっても、キリストを救い主として受け入れることをしないのなら、ぶどうの木とは関係のない存在ということになる。

以上でお気づきいただけたと思うが、「わたしはまことのぶどうの木です」とは、単なる比喩ではない。明らかに、旧約聖書で書き記されている「ぶどうの木」が意識されている。「まことの」ということばには、「本物の」「正真正銘の」という意味を込められているのだが、キリストは新しいぶどうの木であり、まことのぶどうの木なのである。人はキリストを信じるならば、誰であっても、まことのぶどうの木の一部、キリストの枝とされる。キリストは、ご自身を離れて、わたしは神の民だと主張することは許さない。

2節では、農夫である父なる神がなされることが記されている。「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために刈り込みをなさいます」。キリストはここで、剪定のたとえを用いておられる。父なる神の剪定に失敗はない。取り除くものは取り除き、多く実を結ぶ剪定を、タイミングよくされる。まず「取り除き」とあるが、これは成績の悪い弟子を破門にするといったことではない。キリストはユダヤ社会から破門同然の罪人、取税人、遊女、病人らを救いに招かれた。十二弟子たちの中には、ユダヤ社会のエリートは一人も入っていない。聖書の専門家も一人もいない。弟子のトップは漁師たち。そして彼らはズッコケ続きだった。キリストはあえて、この世の愚かな者、弱い者たちを招かれている。取り除くというのは、自らキリストの枝であることを拒否してしまうような人たちに対する処置である。旧約聖書において、父なる神がイスラエルの民を取り除かれる事例を見ていくと、悔い改めないで反逆を繰り返す民を取り除いたことがわかる。故意の反逆を続けるならば、取り除かれるのは致し方ない。新約の事例では、これまでのところでは、イスカリオテ・ユダを挙げることができるだろう(13章21~30節)。ユダは最後の晩餐の席で、「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい」と言われ、キリストのもとを去っていった。しかし、取り除いたと言っても、キリストはギリギリまでユダに悔い改めの機会を与えた。この日、ユダの足を洗い、賓客に行うパン切れを浸して与えるという行為までされた。だがユダはキリストの愛をはねのけ、闇の中に消えて行った。それに対してペテロたちは、ヨタヨタながらも、キリストを神の救い主として信じ、従おうとする意志は持っていた。ある者たちは、世の終わりの裁きの時が来なければ、取り除かれる者たちであることがわからない者たちもいるだろう。「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行ったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(マタイ7章22,23節)。これらの人たちは15章6節で言われているように、枝のように投げ捨てられて、火に投げ込まれる。これらの者たちは、表面的にはキリスト信者を名乗り、キリストの名を唱えながら、その実、聖書信仰を有していない、魔術的な、異端的な人たちである。不法も行うようである。現代も、この手の偽キリスト教徒たちがいるだろう。この手の人たちは、大概、聖書のことばに対して軽率で、まともに聖書を信じる信仰がない。3節で「あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです」と言われているが、ここで言われている弟子たちは、キリストのことばをまともに信じた人たちである。ユダは当然、この中に入っていない。キリストのことばを信じなかったからである(13章11節)。ぶどうの木の講話は、キリストのことばを信じた弟子たちに言われている。彼らはキリストのことばを通してキリストを信じ、キリストのことばに従おうとしていた。すなわち、キリストにとどまろうとしていた。私たちも3節で言われている者たちの中に含まれている。だから、ふつうは、自分は取り除かれるなどと、心配する必要はない。救いの恵みを信じて、キリストにとどまっていれば良いのである。反対に刈り込みのことを考えたほうが良い。あまり刈り込まれないのはどうしてだろうとか、これ以上、刈り込まないでくださいとか、そちらのほうで悩んだほうがよいかもしれない。刈り込みとは、愛の鞭というか、試練に感じる体験である。けれども、実を結ぶために必要な作業である。だから、甘んじて受けるべきものである。

では、キリストが言われる結実、「実」とは何のことだろうか。まず、当然のことながら、それは、キリストにとどまることによって得られる実である。キリストにとどまり、キリストが私たちのうちにとどまり、キリストのいのちは枝を流れ、実を結ぶ。ぶどうの枝に流れるキリストのいのちとは、キリストの臨在の霊、聖霊によるものである。では、具体的に、この「実」とは何だろうか。前回は平安について学んだが(14章27節)、平安や喜びも実かもしれない。しかし、キリストはかたちとして表れる実について考えていらっしゃるようである。16節を見ていただこう。ここで「行って実を結び」と言われている。「実が残るため」とも言われている。これは、主のみわざとしての実である。私たちはキリストのみわざを引き継ぐ者たちとされている。主のみわざの通りよき管となるように召されている。主のみわざとしての実を結ぶように召されている。キリストの枝となるというのは、別の表現をとると、キリストの手足になるという表現も許されるかもしれない。私たちはキリストにとどまり、キリストを体現して歩むことが願われているわけである。キリストが民衆や弟子たちにみことばを語り、愛し仕えたように、私たちもすることが求められている。

そしてこの実は、神の栄光を現すものである。8節をご覧ください。「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」。キリストはマタイ5章15節では、このようにも言われた。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、あなたがたの良い行いを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい」(マタイ5章16節)。しかしながら、することすべてが神の栄光を現すというのではない。先に見たマタイ7章のキリストのことばからわかるように、悪霊追い出しをしたからといって、奇蹟を行ったからといって、キリストと関係のない働きであるならば、神の栄光を現すことではない。

ヨハネの福音書の文脈では、この実は、キリストの愛の戒めを守ることが中心にあることがわかる。13章34節で、キリストは「わたしが愛したように、互いに愛し合いなさい」という新しい戒めを与えられたが、キリストは15章後半でも、この戒めを繰り返し強調されていることに気づく。愛の実を結びなさいということである。そしてこの愛は感情ではなく意志であり、するという動詞の愛。今日の箇所では10節で触れられている。「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」。キリストが言われた「わたしの戒め」とは12節で解き明かされている。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」。16節でも実について語られた後、17節で、「あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです」とある。このようにキリストは、愛の戒めを守ることを強調している。愛の実を結びなさい、ということである。

キリストが言われた実は、人間の力では無理で、キリストにとどまっていなければ結べないものなのだと気づかせられる。私たちは、キリストにとどまることを常に願おう。

続いて、4,5節から大切な教えを学び取ろう。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです」。キリストは、4節前半で、「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」と、相互内住について言われている。相互内住ということから、キリストにとどまるということはどういうことなのか、ヒントを得る。相互内住は結婚関係になぞらえることができる。結婚して同居することを思い浮かべていただきたい。親密な関係がそこにはある。「わたしにとどまりなさい。わたしもあなたがたの中にとどまります」とは、まさに親密な愛の関係である。以上のことから、キリストにとどまるとは、キリストを愛することの言い換えであると知る。

「とどまる」<メノー>という原語からも説明しておこう。「とどまる」<メノー>ということばから、「住まい」「住む」<モネー>が造られた。14章2,23節を読んでみよう。「「住まい」「住む」と訳されているのが<モネー>である。そして「とどまる」と訳されている<メノー>は、14章17節では、「「住む」と訳されている。読んでみよう。これらからわかるように、「とどまる」は「住む」と言い換えが可能である。すると15章4節前半は、次のような訳が可能である。「わたしに住みなさい。わたしも、あなたがたの中に住みます」。キリストを愛しているなら、「はい。あなたの中に住みます」となるだろう。少し進んで、7節前半では「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたにとどまるなら」とあるが、ある方がこの箇所を、「あなたがたが我が家に同居し、わたしのことばがあなたの家に住むならば」と訳している。私たちは誰と生活をともにし、誰のことばに従いたいだろうか。私たちの関心は誰にどこにあるだろうか。何に一番の喜びを見出しているだろうか。生きることはキリストという気持ちがあるだろうか。詩篇4編3節には、「人の子たちよ。いつまでわたしの栄光をはずかしめ、むなしいものを愛し、まやかしものを慕い求めるのか」という主のことばがある。私たちは、キリストでない人格に心向け、それに囚われていたり、肉欲に囚われていたり、お金やこの世の何かに愛を注いでいたり、わたし、わたし、とわたしが一番で、攻撃心、敵対心にとどまり、どうして周囲はわたしを認めてくれないんだと、相手をやりこめることで自分を慰めようとしていたり、とにかく、キリストを見失ってしまうのである。キリストにとどまろうとしても、ストレートにとどまることに困難を覚えてしまうことがある。気がついたら、キリストと離婚はしていないけれども別居状態というようなことになってしまう。ある人の場合は、猛烈な忙しさや思い煩いのうちに、キリストと疎遠な関係になってしまうかもしれない。みことばを通してキリストと交わる時間は確保しなければならない。また私たちは、周囲と自分を比較して、お金がないだとか、持ち家がないだとか、肉体的にどうだとか、幸せな家族生活でないとか、昇級できなかったとか、この世の何かにとどまりたいと言わんばかりに、不満を持ち、くよくよ悩む。けれども私たちにはキリストがいる。キリストはすばらしい人格であり、永遠のいのち、神の愛そのもの。私たちの人生の伴侶、同伴者。もし私たちが、自分は何も持っていないかのようにみじめに感じて、暗くて、貧しい感情反応に出ているならば、キリストを見失っているのかもしれない。「わたしにとどまりなさい」は、キリストの愛の招きである。「わたしに住みなさい」という招きである。愛の招きとして、この御声を心に焼き付けよう。そしてキリストにとどまろう。

今、キリストにとどまるとは、キリストを愛することの言い換えだと述べたが、キリストを愛するということは、キリストのことばにとどまることであることを覚えておいていただきたい。7節を読もう。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら、何でもあなたがたのほしいものを求めなさい。そうすれば、あなたがたのためにそれがかなえられます」。「わたしのことばがあなたにとどまるなら」とあるが、これは、みことばに示されているキリストの心と意志を自分のものにすることである。その人の祈りは聞かれることとなる。そして10節では、「もし、あなたがたがわたしの戒めを守るなら、あなたがたはわたしの愛にとどまるのです」と言われているが、キリストのことばにとどまるとは、言い換えると、愛の戒めを守ることであると知る。愛の戒めを守ることがキリストを愛している証なのである。

次に、キリストにとどまるとは、キリストを愛することの言い換えであるとともに、キリストに拠り頼むことの言い換えであることを覚えよう。キリストは5節後半で、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができません」と述べておられる。キリストを信じていないと、何もすることができないのだろうか。私たちは生涯の間、たくさんのことをする。キリストと無関係で生活している人たちもたくさんのことをしている。ここでは、実を結ぶかどうかの文脈で、するしないが言われていることを覚えよう。つまり、あなたがたは、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶようなふるまい、行い、主のみわざをすることができない、神の栄光を現すことはできない、愛することを実践できないということである。ぶどうの枝は実を結ぶためにある。それが本来の私たちの姿である。そしてぶどうの木にとどまっていることが、ぶどうの枝の本来の姿である。

私たちは枝である自分のおそまつさばかりに目が留まり、キリストに目を留めることを忘れることがあるかもしれない。自分の貧しさ、愚かさ、弱さ、力のなさ、そこだけを見てしまう誘惑である。「木を見て森を見ず」ではなく、「枝を見て木を見ず」という状態である。案外、「枝を見て木を見ず」に陥りやすい。枝のみじめさばかりを見て嘆いて終わることがないように、いのち豊かなキリストに目を注ごう。また枝である自分を過信しても、失敗に終わるだろう。キリストにとどまろう。キリストにとどまり、実を結んでいこう。このビジョンを、私たち一人ひとりがしっかりと持っていきたいと思う。キリストはぶどうの木で、私たちはその枝である。キリストが私のいのち、私のすべて、そのような信仰でキリストにとどまっていこう。