本日のアドベント第三主日は、キリスト預言の箇所から「光と闇」について思い巡らしましょう。イザヤ書9章2節はキリストの来臨によって成就しました。「大きな光」また「光」とはイエス・キリストです。新改訳2017の訳は、キリスト預言であることを際立たせる訳になっています。読んでみます。「闇の中を歩んでいた民は大きな光を見る。死の陰に地に住んでいた者たちの上に、光が輝く」。訳の違いに気づかれたでしょうか。新改訳第二版、第三版で「見た」「照った」と訳されている動詞は、ヘブル語本文では「完了形」なので、「見た」「照った」という訳で間違いはありませんが、この完了形は「預言的完了形」です。未来に成就する完了形として受け取れるのです。ですから、光の出現はこれから成就するものとして、未来形に訳すことができます。「見る」「輝く」と。この光の出現の成就は、700年後の未来に、キリストの出現によって成就しました。

私たちは最初に、今の世界は光と闇という二つの異なる霊性の戦いの場であることを覚えたいと思います。光と闇がぶつかり合っています。別の表現を採ると、神と悪魔という対立的な霊性の狭間に人は置かれているということです。ところが、現代の世界観はそうではありません。この世界を光と闇という二つの異なる霊性の戦いの場とは見ません。一つの霊性があるのみです。日本人は古来から、この世界観で歩んできました。神道がそうです。この考えに立つと、すべては神の一部で、すべては神の性質を宿しているとされます。そして人間は神の原石で、死んだら神になると説かれます。罪については、それは裁かれなければならないものはなく、善の欠け、弱さにすぎないとされます。ですから水に流せば済むとなり、贖わなければならない罪などないと主張されます。今、世界を席巻している東洋神秘主義、ニューエイジムーブメントの思想などもそうです。一つの霊性ということにおいて、善と悪という対立観念は無くなるので、絶対的なものはなくなり、すべては相対的となり、すべては許されるとなります。

神道と関係が深く、日本に深く溶け込んでいる世界観に「陰陽道」(おんみょうどう・おんようどう・いんようどう)があります。十二支(じゅうにし)、十干(じっかん)、方角占いなども陰陽道が用いるものです。陰陽道は漢字で、陰(いん・かげ)と陽(よう・ひなた)の道(みち)と書くので、闇と光を対立させた世界観のように見えますが、そうではありません。闇は光によって生かされ、光は闇によって生かされると唱え、陰陽合一を説きます。陰は陽に転じ、陽は陰に転じることができる、陰と陽は表裏一体である、つまり闇と光は一つととらえる世界観です。一つの霊性です。ですから、闇は絶対的な悪ではなくなります。事実、百パーセントの陰もなければ、百パーセントの陽もないと教えています。世界観はきわめて相対的なものであるため、必然的に、絶対悪はなくなり、呪術という呪いさえ、許容されることになります。今年日本で爆発的なヒットを飛ばした、ダークファンタジー映画「鬼滅の刃」(きめつのやいば)も陰陽道の世界観が用いられています。

一つの霊性があるのみという世界観では、人間は霊の進化の途上にあって、神のようになれると教えられます。神道ばかりでなく、新興宗教、ニューエイジムーブメント、モルモン教などもそうです。一つの霊性ということにおいて、悪魔という存在も否定されてしまいます。悪魔は、この一つの霊性という思想に自分を隠し、自らを神、あるいは神々のひとりのようにふるまい、人類を欺いているのです。

一つの霊性しかないという立場に立ってしまうと、イザヤ書9章2節の「やみ」「死の陰」はさほど気に留めるものではないと受け止められてしまいますが、事実はそうではありません「死の陰」という用語の説明をしておきます。「死の陰」は、死と隣り合わせの場所という印象を受けることばでありますが、このことばは別訳すると「暗黒」となります。「死の陰」は「濃い闇、深い暗闇、暗黒」を意味することばです。実際に、「暗黒」と訳されている個所もあります。預言書ではアモス5章8節です。そこには「暗黒を朝に変え」という神の働きが記されていますが、「暗黒」の欄外註別訳が「死の陰」となっています。死の陰イコール暗黒なのです。

この「やみ」「暗黒」というのは、文脈的には1節を見ればアッシリアの支配下に入ったガリラヤ地方のことが言われていることがわかります。しかし、この闇とは政治的なものに限定すべきではなく、神に敵対する霊的暗黒を意識しなければなりません。霊的暗黒は当時のガリラヤ地方だけではなく、イスラエル全土に広がっていました。それを象徴するのが当時の指導者階級の人々です。当時は政教分離ではなく政教一致で、サドカイ人やパリサイ人たちが国を治めていました。彼らは創造主を信じていました。聖書のどれを聖典とするかで立場の違いはありましたが、聖書を教える立場の人々でした。民の指導者たちでした。けれども、彼らはキリストを何度も殺そうとしました。キリストはこれらユダヤ人たちに向かって、こう言われたことがあります。「あなたがたは、あなたがたの父である悪魔から出た者であって、あなたがたの父の欲望を成し遂げたいと願っているのです」(ヨハネ8章44節)。キリスト降誕時、闇は深かったのです。

キリストが降誕されて間もなく、光と闇の戦いは激しくなりました。闇が光に襲いかかりました。ヘロデ王はキリストを殺そうと、ベツレヘム近辺の二歳以下の男の子を殺すように命じたことがありました。公生涯が始まる前、キリストは荒野で悪魔の誘惑を受けました。「神殿から飛び降りてみなさい」という誘惑もありました。実際、飛び降りさせ、死なすことがねらいだったのでしょう。公生涯スタート時、ナザレの住民はキリストを崖から突き落として殺そうとしました。国家の中枢を担うユダヤ人の指導者階級は、キリストを殺す相談を続けていましたが、ユダに悪魔が入ったことにより、彼らの思惑は十字架刑によって実現しました。しかし、ご存じのように、闇は光に打ち勝つことができません。闇の力は敗北を見たのです。キリストは十字架と復活によって、罪と死と悪魔という闇の三位一体に打ち勝ちました。

ある人が、聖書を知らない文化圏で悪魔について説明しようとしたとき、悪魔を「大きな黒い神」と表現して説明しました。なるほど、と思わせる言い換えです。「大きな黒い神」は、その表現が暗示するように、その性質は闇です。人間のことを少しも愛してはいません。これっぽっちも愛していません。人間を罪に引き込み、そのたましいを奪い、神から引き離し、破滅に追いやることしか考えていません。闇なので、人間に何の良いものももたらしてくれません。けれども、人々はこの詐欺師にだまされています。私たちには大きな黒い神を通し、富、権力、欲望への誘惑があります。また神のようになろうという優越、高ぶりへの誘いがあります。いずれをもってもたましいを奪えない場合は、巧妙な思想体系があります。それらは真理と似ていることがあります。しかし「似ている」という一語の中に途方もない違いが隠されているのです。まことに、悪魔の店には人間のたましいを奪うためのあらゆるものがそろっています。ですが、この大きな黒い神は、「大きな光」によって敗北を見ました。そして「大きな光」は私たちを闇から光に救い入れてくださいます。使徒パウロは、ダマスコ途上で、キリストから異邦人の使徒として任命を受けた時に、次のことばをいただいたことを証しています。「彼らの目を開いて、暗闇から光に、サタンの支配から神に立ち返らせ、わたし(キリスト)を信じる信仰によって、彼らに罪の赦しを得させ、聖なる人々の中にあって御国を受け継がせるためである」(使徒26章18節)。キリストを信じ受け入れるなら「光」になれるというのです。闇から光に移されるというのです。真っ暗な部屋から闇を追い出すためにはどうしたらいいでしょうか。簡単なことは窓のカーテンを開けて、光を受け入れることです。ですが、多くの人は光を受け入れたと思って、偽りの光を受け入れてしまうことが良くあります。パウロは「サタンさえ光の御使いに変装するのです」(第二コリント11章14節)と告げています。その光は陰気な光にすぎません。本体は闇です。光と闇の見分けが必要です。本物の光はキリストです。ご存じのように、光を説く教えは無数にありますが、光とはキリストなのです。「あなたがたに光がある間に、光の子どもとなるために、光を信じなさい」(ヨハネ12章36節)。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることがないためです」(ヨハネ12章46節)。

次に、光の性質について自然界から考えてみましょう。私たちは光を慕い求めるのですが、同時に光を恐れることにもなります。パウロはダマスコ途上、天からのまばゆい光で打ち倒されます。その時のことをパウロは、「私はその光の輝きのために目が見えなくなっていたので」と語っています(使徒22章11節)。主の光は太陽にたとえることができます。太陽はすべてのものに対して、惜しみなく暖かさと生命力を与えてくれます。太陽は惜しみなく恵み豊かですが、同時に威厳に満ち、照らされる者たちから距離を保っています。この太陽を直視するならば、目を悪くしてしまいます。パウロは神についてテモテにこう述べています。「ただひとり死のない方であり、近づくこともできない光の中に住まわれ、人間がだれひとり見たことのない、また見ることのできない方です」(第一テモテ6章16節)。神の光は、通常、人間が耐えられるものではありません。神さまはその人をどう取り扱うかに応じて、ご自身の光の光度(光の強さ)を加減されるとも言えるかもしれません。

続いて、光と闇について言及されているイザヤ60章1~3節から、光の性質について考えてみましょう。お開きください。「起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現れる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む」。この個所は、キリストの再臨によって成就します。ここは大いなる光の最終的勝利の描写である。2節で「暗やみ」と訳されていることばは、「無知、罪、悲しみ、破滅」の象徴です。まさしくそうしたものが現在、全地をおおっているでしょう。この闇の性質から、光の性質を考えてみることができます。多くの人は大学を出ても神について無知の暗闇の中にいるわけですが、この光は真理の光と言えるでしょう。またこの光は罪と対峙した聖い光であると言えるでしょう。また悲しみを消し去る喜びの光と言えるでしょう。そして破滅から救ういのちの光と言えるでしょう。この光が来ることによって、闇は完全に消し去られます。この光が間もなく来ます。ゼカリヤは「夕暮れ時に、光がある」(ゼカリヤ14章7節)と、その日のことを預言しています。私たちは、初臨の光と再臨の光の間の時代を生きているわけですが、私たちの使命は、光の子どもとして、キリストの福音を伝えることです。

最後に、光ご自身であられる神との関係について、いくつかのことを付け加えさせていただきたいと思います。神の光を失ったと思う時、どうするかです。神の光を失うのは、単純には罪の問題があります。故意に罪を犯し続けていると、光を失ったという霊的感覚を持つことがあります。人を憎み続ける等、そうしたことで起きます。そして見分けがつきにくい問題があります。それは、うぬぼれ、傲慢です。自分はもっと成長したいと神に願うことがあります。この欠点、このうまくできないところを取り除いてくださいと願いますが、それは神のためというよりも自分のため、それらに煩わされることなく平安でいたいからです。神さまはそれらの欠点を取り除いたら、その人がもっと傲慢で、うぬぼれた者になることをご存じであられます。人はもっと成長したいという願いをもつも、それは自己賛美と紙一重で、心奥深い動機は、神のようになりたという、エバが創世記3章で蛇の誘惑にあった時と同じものかもしれません。被造物としての分をわきまえず、傲慢になるとき、神さまはその人から離れていくでしょう。つまり、光を失うことになります。大きな黒い神がその人を飲み込みかねません。傲慢は光を失います。悪魔がその最大の見本です。悪魔は神のようになろうとして傲慢になって光を失いました。いずれ、罪を犯したと気づいたときは、へりくだって悔い改めるしかありません。

しかし、こうしたことと関係なく、神の臨在が遠ざかったと感じることが起きます。その中には、試練がもたらす闇があります。今年に入って、苦しみにあった献身的クリスチャンの手記を読みました。その方は、お母さん、奥さん、子どもたちを車に乗せて運転していたときに、対向車の暴走によって正面衝突し、お母さんと奥さんと一人の子ども失ってしまいます。残されたのは本人と三人の子どもです。子どもの一人は重傷でした。彼は暗闇のトンネルに入ります。彼は言います。「突然で悲劇的な喪失は、恐ろしい暗闇になる」と。この闇は罪の闇というのではありません。罪と

いうことばを使うなら、それは飲酒運転をしていた相手側にありました。彼は闇という感覚に囚われる日々が長く続き、精神的には鬱になりました。そのような中、知人が教えてくれたというアドバイスに心が留まったようです。知人は、「太陽や日の出に会う一番早い方法は、日没を追って西に走るのではなく、東を目指すことである」と教えてくれました。どういうことか、わかるでしょうか。つまり、暗闇に突進していくと、ついには日の出に出会うということです。これは意味深長な教えです。暗闇を避けることは、あとでさらに大きな暗闇に突き進むだけのことです。暗闇を避け、何かに逃避しようとする人は多いわけです。しかし、それは何の解決にもならないわけです。暗闇と面と向き合うことを選ぶとき、日の出に向かって最初の一歩を踏み出すことになります。この方の場合、暗闇と面と向き合うことを選び取り、何かに逃避したり、依存したりせず、必死に神にすがり生きていきました。光が彼のたましいに入って来ました。そして以前にもまして神をリアルに感じ、神に対して賛美と感謝をささげるようになっていきます。喪失体験をしたときのヒントがここにあります。

また、人生の晩年の闇の話も付け加えましょう。有名な聖徒たちの伝記を読むと、晩年に闇を経験したことがわかります。それはホルモンの問題だとか、そうしたことで片付けられない面があります。たとえば、霊の喜びをいつも表すことを弟子たちに教えていたアッシジのフランチェスコですが、最晩年に、伝記作家たちが「大いなる誘惑」と表現する霊的苦悩に陥ってしまいました。神さまが自分から遠ざかってしまったかのように思え、深刻な危機の闇の中に沈んでしまいました。ある伝記作家曰く、神への信頼を失ってしまったのではないかと思えるぐらいの精神的な苦しみの期間でした。また、19世紀の偉大な説教家であり、聖歌520番等の讃美歌作者としても知られるA.B.シンプソンの話もしましょう。昨年、彼の伝記を読みましたが、彼の伝記にこのような一文がありました。「しばらくの間、彼は霊的にも曇っていた。主の御顔が自分から隠れてしまったと言って、最も貴重なものを失って苦しんでいる人のように悲しみに閉ざされた。・・・彼はこのような事が二、三週間続いたのち、彼は、失っていた最も愛するお方の臨在感を再び感じはじめた。その時の彼の喜びは、まるで子どものように純粋だった」。このような体験を時々、見聞きするわけです。マザー・テレサもそうであったと聞いています。思えば、詩編の作者も「なぜですか?」と、同じような感覚で嘆きを表明し、御顔の光を求めていたと思います。人間は神の恵みで生きているにすぎないのに、そのことにうとくなって、自分の知恵や力に見とれてしまうという過ちを犯したために、神は御顔を隠されるということもあるでしょうけれども、そうではなく、その人の最終的仕上げというか、神さまがすべてのすべてとなるように、あえてそうされることがあるように思います。それまで慣れ親しんでいたものを手放して、そのありがたさがよりわかるということがありますが、それと似ているかもしれません。

秋田県は降雨日数日本一の県として知られていますが、ある意味、日本一晴れない暗い県です。私は関東から秋田に移り、太陽の光のありがたみを痛切に感じました。特に、どんよりとした冬空が続くとそう感じることがあります。今日は晴れてくれたという感動を覚えます。理由は何であろうとも、私たちは霊的曇りの日に、主の御顔の輝きを熱心に求めることを止めてはならないのです。

考えてみれば、あのイエスさまでさえ、御顔の輝きが見えない霊の暗黒を体験されたのです。十字架の上で霊の暗黒を体験し、「なぜ、わたしをお見捨てになったのですか」と叫ばざるをえませんでした。それを象徴するかのように、天空は真っ暗でした。イエスさまが体験された暗黒は、私たちが永遠に暗黒に浸ることのないためでした。またそれは、私たち人間の霊の闇を理解する体験となったことでしょう。イエスさまは闇を体験し、それに勝利された光の君です。このイエスさまが私たちの救い主であるわけですから、このイエスさまを信じているならば、闇の種類がどういうものであるにしろ、闇から抜け出せるという希望を持つことができます。私たちにはいつでも闇から光への希望があります。大いなる光であるイエス・キリストに感謝し、アドベントを過ごし、クリスマスを迎えましょう。キリストは闇に対する勝利者です。