私たちは恐れず福音を宣べ伝えることを実践しているだろうか。キリストは弟子たちを宣教の旅に遣わす前に指示とアドバイスを与える(5~42節)。その語られた内容は弟子道と言ってよいものである。24~42節の区分で強調されているのは、弟子としての献身の姿勢である。キリストは献身というテーマで、教えやたとえで繰り返し語られる。クリスチャン生活は趣味でも遊びでもない。世々の聖徒たちは、キリストの教えに応答して、献身と服従の生活を送っていった。大人であると思わせる発言を二つほど紹介しよう。フローレンス・ナイチンゲールは、日記に書いている。「わたしは、キリストが宣教活動を始めた30歳になった。もはや、子どもじみたことはしない。無益なことはしない」。その後、彼女は歴史に残る働きをする。彼女は働きから身を引くとき、どうしてそのように主のために多くのことを成し遂げることができたのか、その秘訣を尋ねられた。彼女は一つのことは言えると語った。それを砕いて言うならば、「主に全部明け渡して自分のものとしなかった」ということである。
ハワード・A・ケーリーという外科医は、医大を卒業するとき、日記に書いた。「今日、わたしは、わたし自身を、わたしの時間、わたしの能力、わたしの野心、すべてのものを主にささげます。聖なる主よ、あなたが用いるためにわたしを聖別してください。救い主のみそばに導かない世的成功を与えないでください」。私たちも献身を表明したい。
今日は31節までから教えられたい。最初に24~25節を見よう。まずここで弟子の模範は師であるということを見る。使徒ヨハネは言った。「神のうちにとどまっているという者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません」(第一ヨハネ2章6節)。弟子たちはこれまで(9章の時点まで)、キリストの歩みを見てきた。キリストは当時にあって型破りとも思える生き方、人々への愛、信仰の発揮、悪と戦う精神、福音への献身を示してきた。キリストにならう、それが私たちの関心事であらなければならないということである。
キリストにならうということは、キリストのように取り扱われる、ということも想定しなければならない。キリストはそのことを覚悟させている。キリストはすでに悪口雑言を浴びせかけられてきたが、25節で、その悪口の一つを事例に挙げられている。キリストは「ベルゼブル」と呼ばれたらしい。「ベルゼブル」とは、カナンの異教の神「バアルゼブブ」がオリジナルであると思われる。その意味は「ハエの主」。ユダヤ人はこの名前をサタンの別名として用いるようになった。すなわち、キリストはサタンと同一視されたということになる。キリストのようになるとは、愛、親切、正義、聖さといった性質を身に着けることであるから、敵対されることなどあるのかということだが、キリストご自身、最上級の悪口を言われたわけである。であるならば、私たちもキリストに従うゆえの悪口は覚悟しなければならない。キリストはすでに16節で、「わたしがあなたがたを遣わすのは、狼の中に羊を送り出すようなものです」と語っている。
続いて26~31節を見よう。三回、同じ表現が登場する。「恐れてはならない」(26,28,31節) 日本語文では表現は少しずつ違っているが原語のギリシャ語では同じ)。昔「狼なんかこわくない」というタイトルの小説があったが、キリストは「人を恐れるな」というメッセージを繰り返ししている。箴言の著者も語っている。「人を恐れるとわなにかかる。しかし、主に信頼する者は守られる」(29章25節)。
さて、恐れる必要はない理由は何であろうか。キリストは三つのことを語っている。第一番目は、神さまが裁きの日に私たちを弁護してくださるということ(26節)。かの日、隠されていた世の邪悪は明るみに出され、同様に弟子たちの正義も明らかにされる。この世界では看視カメラがたくさん取り付けられるようになった。また科学の発達で証拠を取りやすくなった。しかし、まだ存分に隠し通せるし、悪を善、善を悪という曲がった裁きがまかり通っている。けれども、やがて、神の光のもとで、またみことばによって、すべては明らかにされ、裸にされ、神によって正しい裁きがされ、それぞれにふさわしい報いがもたらされる。私たちは、この裁きを望みとすることができる。たといこの世で、信仰のゆえに重罪の判決をくだされても、天にて逆転判決がくだされる。神はひとつの小さなこともみのがすことはなく、ご自身の正義に基づいて、公平な裁きをされる。
人を恐れる必要がない第二番目の理由は、人はたましいまでは殺せないということである(28節)。人間は裁きと称して「からだを殺す」ことまではできるかもしれない。しかし、それ止まりで、たましいまでは殺せない。たましいはその人の本体で、からだは、その人の衣服のようなものと言えるかもしれない。キリストはここで「たましいもからだもともにゲヘナ(地獄)で滅ぼす」方を恐れて、そうではない人間を恐れないように教えている。
人を恐れる必要がない第三番目の理由は、神さまは愛の関心を神の子たちに向けていてくださるということ(29~31節)。「一アサリオン」(29節)は、当時の流通貨幣の最少単位である。当時の労働者の一日の賃金が一デナリであるが、一アサリオンは、一デナリの16分の1の価値。キリストは雀がお金に換算するといかに安く見積もられていたかを強調している。二羽で一アサリオンの価値にしか見られない雀。そんな雀でも、「あなたがたの父のお許しなしには」、直訳では「父と無関係には」、すなわち、神さまのお許しなしに死んだりしない。神さまは一羽の雀にさえ、愛のまなざしを注ぎ、計画を持ち、導いておられる。驚くべき事実である。キリストは神さまの愛の関心を強調するために、頭髪のことを付け加えておられる(30節)。頭髪は平均すると14万本だが、神さまは、「頭の毛にさえ」と、髪の毛といった取るに足らないと思えることまでにも目を向けてくださっている。神さまが神の子どもたちのからだに対して、これほどの関心を払っておられるのならば、たましいのことはなおさら関心を払っておられる。たましいを見捨てたりはしない。人を恐れる私たち。それで余りにもスマートにふるまいすぎて、自分たちがキリストの弟子であることが見えないようにふるまってしまう弱さ、キリストの福音を語れない弱さがある。だからこそ、キリストのことばに耳を傾けよう。
ここで数人の、初代教会時代の殉教物語をご紹介しよう。最初は、軍隊の新兵募集に際して、キリスト教徒であることを理由に入隊を拒み、斬首の刑に処せられて21歳の若者、マクシミリアヌスの殉教である(295年)。
マクシミリアヌス「私は軍隊につくことはできません。私は人に害を与えることはできません。私はキリスト教徒ですから」。総督ディオン「軍隊につけ。さもないと命を落とすぞ」。マクシミリアヌス「私は軍隊につきません。私はこの世の軍隊には仕えず、神の軍隊に仕えます」。
ディオン「軍務につき、兵士の印を受け取るように」。マクシミリアヌス「私は兵士の印を受け取りません。もしあなたが私に印を与えるのならば、私はそれを打ち壊します。それには何の価値もないからです。私はキリスト教徒です。生ける神の御子なる、わが主イエス・キリストの印を受け取った後で、鉛でできた印を首にかけることは許されません。このお方を、あなたはご存じありませんが、このお方こそ、我々の救いのために苦しんだお方であり、神が我々の罪の赦しのために引き渡したお方なのです。私たちすべてのキリスト教徒はこのお方にお仕えしており、命の君であり、救いの源であるこのお方に、私は従います」。
ディオン「軍務につけ。さもないと、軍務を軽んじた科で、ひどい滅び方をすることになろう」。マクシミリアヌス「私は滅びません。私はたとえこの世を去っても、わたしのたましいは、我が主キリストとともに生きています」。
ディオンは判決文を読み上げた。「マクシミリアヌスは、不敬虔な心によって、兵役の宣誓を拒んだ科により、斬首の刑に処せられることが決定した」。マクシミリアヌスは「神に感謝します」と答え、やがて刑が執行された。
次はキリスト教徒となった古参兵ユリウスが、偶像崇拝を拒んで殉教した記録である(304年)。
総督マクシムス「香を焚いて立ち去ることなど、何でもないだろう」。ユリウス「神の支持を軽んじ、私の信じている神に対して、不誠実になることはできません」。
マクシムス「お前に忠告したい。祖国の法のために苦難を受けるのならば、お前は永遠の賞賛を手に入れるであろうに」。ユリウス「確かに私は法のために苦難を受けています。しかしこの世の法ではなく神の法のために」。
マクシムス「その法をお前たちに与えたのは、死んだ男、しかも十字架にかけられた男であろう。現にいきている皇帝よりも死んだ男を恐れているとは、お前は何と愚か者であろうか」。ユリウス「あのお方は、私たちに永遠のいのちを与えるために、私たちの罪のために死んだのです。誰でもこのお方に信仰を告白するなら、永遠のいのちを受けるでしょう」。
こうした問答の後、神々に犠牲を捧げることを拒んだ彼は、目隠しされ、首を差し出して言った。「主イエス・キリストよ。私はあなたの名のためにこの苦しみを受けています。どうぞ、お願いします。あなたの聖なる殉教者たちとともに、私の霊をお受けください」。
三番目は、皇帝の健康のために神々に犠牲を捧げることを命じられて、それを拒んだ女性クリスピナの殉教物語である(304年)。
クリスピナ「唯一の真実な神とそのひとり子で、この世に生まれて受難した我らの主イエス・キリストに対する他は、これまで犠牲を捧げたことはありませんし、今も捧げるつもりはありません」。総督アヌッツヌス「そんな迷信は捨てて、ローマの神々の祭壇に頭を垂れたらどうだ」。クリスピナ「私は毎日、全能なる私の神を礼拝しています。私はこの神の他には、いかなる神も知りません」。
アヌッツヌス「お前は頑迷で高慢な女だ。しかし、いやでも法の力を感じ始めるだろう」。クリスピナ「どんなことが起こっても、私が抱いている信仰のゆえに、喜んで耐えるつもりです」。
アヌッツヌス「皇帝の支持に従おうとしないならば、私はお前の首を切り落とすように命じる。全アフリカが犠牲を捧げてきたことを、お前も良く知っているであろう」。クリスピナ「皆さん方が私に悪魔に犠牲を捧げさせようとしても、うまくゆかないでしょう。私は天と地と海とその中にあるすべてのものをお造りになった唯一の神にのみ犠牲を捧げます」。こうした問答が続く・・・「もう何度も申し上げましたように、私は、石や人間の手で造られた像に過ぎない偶像によって身を汚されるよりは、あなたが加えようとする拷問に耐える覚悟はできています」。
アヌッツヌス「敬うべき神々を礼拝することをお前が軽んじるなら、お前の首を切り落とさなければならぬ」。クリスピナ「私の神に感謝します。ぜひそうしてください。全く実体がなく、口も利けず、耳も聞こえない偶像に犠牲を捧げる気はありません」。
アヌッツヌス「ではお前はその愚かな考えを捨てる気はないのだな」。クリスピナ「今いまし、永遠にいます神が命じられたので、私は生まれ、この神が洗礼の救いの水を通して、私に救いを与えてくださいました。この神が私とともにいて、私を助けてくださり、神のはしためである私を、あらゆる場合に強めて、神を汚す行為をしないように守ってくださったのです」。彼女は最後に額に十字の印を切って、首を差し出した。
以上が人を恐れなかったキリスト者たちの一例である。あえて、キリスト教初期の事例を紹介させていただいた。
さて、人を恐れるなと教えられるキリストが弟子たちに願っておられることは何か。それは人を恐れないで福音を語るということである。最後に27節に注目しよう。「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい。また、あなたがたが耳もとで聞くことを屋上で言い広めなさい」。新約の時代、ラビたちは生徒を訓練するのに、彼らのそばに立ち、耳もとで教えをささやいた。生徒たちは、聞いたささやきを大声を出して言ったという。キリストのことばには、当時のこうした教育法が背景にある。私たちの場合は、聞いたキリストのことばを、世に向かって、はっきりと大胆に、恥じることなく語らなければならないということになろう。
私たちは聞いたキリストの福音を、いつまでも心のタンスにしまっていてはならない。私たちがこの世の人に語ることは、テレビのニュースの話、健康の話、使いかってのいい品物の宣伝、おいしい食べ物の話、そうしたことで終わっていないだろうか。キリストは「わたしが暗やみであなたがたに話すことを明るみで言いなさい」と言われる。「明るみで」の直訳は「光の中で」であるが、ここで勘違いしてならないのは、語る場所は明るい所でとか、電球をつけてとか、そのようなことが言われているのではないということ。個人的に聞いたことを公けにしなさい、人の前で、みんなの前で言いなさい、ということ。
またキリストは、「あなたがたが耳もとで聞くことを、屋上で言い広めなさい」と言われている。「屋上で」の直訳は「屋根の上で」となるが、古代ユダヤの民家の屋根はフラットで、誰でも上ることができた。そこは使い道のある場所であった。古代ユダヤでは屋上からトランペットを吹いて、大切なことを人々に宣言したと言う。通りそのもので伝えるよりも、通りに面した民家の屋根の上からの方が、良く声が届いたという。日本では屋根の上に上って、そこから語るという習慣がないので、あれっと思ってしまかもしれないが、それは文化の違い。私たちはこれをしないだろう。しかし、キリストが言わんとしたいことは受け止めなければならない。福音はグッドニュースなので、声を大にして伝えなければならないということ。福音には罪と罪の裁きに関する宣告が入る。ではバッド・ニュースなのか。いや、違う。罪を赦す神の愛と永遠のいのちの宣言が入る。人を本当の意味で救えるのはこの福音しかない(ヨハネ3章16節)。この福音をまだ信じていない方は信じてください。
すでに信じて神の子とされた皆さんは、今日のキリストの命令に従う祈りをささげよう。福音を聞かず、多くの人々が滅びに向かっているという現実がある。聞いたことがなくては誰も信じることはできない。私たちはこの福音を声を大にして伝えよう。もし伝えないままに、家族、友人、知人、地域の人が亡くなったら、その責任は誰が問われるのだろうか。福音を伝える足をもとう。福音を伝える口をもとう。確かに私たちは人を恐れやすい。神さまはそれを知って、「恐れるな」と命じておられる。聖書で一番多く与えられている励ましの命令は「恐れるな」であると言われている。「恐れるな。わたしがあなたとともにいる」という約束も繰り返し与えられている。私たちは主に勇気づけられ、大能の力によって強められ、福音のために、出て行く足、伝える口を持とう。

