聖書には、神が人々を危機から救う物語が多い。出エジプト記には、紅海が二つに割れて道が造られ、背後から迫って来るエジプト軍から救われたという奇跡の物語が記されている。けれども、今日の物語には奇跡もなければ、第三者の活躍もない。誰も助けるそぶりは見せない。自分も何もしていない。けれども気づいたら救われていたという不思議なお話である。
ダビデは六百人の部下とその家族を伴い、サウル王の追跡から逃れるために逃亡生活を送っていた。その逃亡生活に疲れ果て、神を見上げて奮起する力は失せてしまい、「私はいつか、今にサウルの手によって滅ぼされるだろう。ペリシテ人の地に逃れるよりほかに道はない」と視野が狭くなり、イスラエルの敵国であるペリシテ人の地に逃げ込んだ(27章1,2節)。精神が消耗すると考え方が消極的になり、「ほかに道はない」と、ほんとうにそれしかないと思い込むようになる。そしてペリシテ人の地に足を踏み入れ、ガデの王アキシュの傭兵となる。イスラエルの敵国に身を投じたことにより、確かにサウルは追ってはこなくなったが、それは最善の選択ではありえず、彼は自分で自分を苦しい立場に追い込んでしまう。イスラエルの敵を演じてどうにか身を保っていたダビデだが、そのようなごまかしをいつまでも続けられるわけはない。
ペリシテ軍とイスラエル軍の大戦が始まろうとしていた(28章1,2節)。これはダビデが恐れていたことだろう。自分の身の振り方をどうしたらいいか。もちろん、彼がイスラエルの地にいたのならば、ペリシテ軍と戦うだろう。けれども、今はペリシテ軍の傭兵の身。
では今日の記事に入ろう(1,2節)。ペリシテでは全軍が招集される。ペリシテには五人の領主がいた。アキシュはその一人。ダビデとその部下は、アキシュに雇われた傭兵として、イスラエル軍との戦いに出陣しなければならなかった。今、ダビデはなんと神の民を攻撃する側に回っている。こんなことになるならと思ったところで後の祭りである。足を止めるわけにはいかないのである。ダビデは、ペリシテとイスラエルの一大決戦が、まさか自分がペリシテに滞在している期間に起こるとは思っていなかったのではないだろうか。しかし、なんというタイミングだろうか。起こってしまったのである。ある意味、最悪のタイミングである。こんなことになるとわかっていたらと思っても、今更どうしようもない。
だが、ダビデに救いが来る。ペリシテの首領たちがダビデに疑いの目を向ける(3節前半)。アキシュはそれに対して、ダビデはこれまで何も問題はなかったと弁護する(3節後半)。だが首領たちは慎重な結論に達する。彼を帰らせるべきだと(4節)。彼らがここで言う「主君」とはサウルのこと。「首を使う」という表現は首を取るということで、ようするに、サウル側に寝返って、我らの首を取るぞ、ということである。最終的にアキシュもダビデを帰らせる判断をする(6,7節)。アキシュの言い回しを見ると、ダビデを完全に信頼し切っていて、ダビデの機嫌を損ねないようにと、ことばを選んで丁重な言い回しとなっている。ほんとうに申し訳ないが、という言い回しである。果たして、ダビデの機嫌は損なわれただろうか(8節)。ダビデは、口では出陣できないことを不服に思っていることを言い表す。だが、これは彼の本心ではない。心の中では「助かった」と安堵感を抱いている。喜びたい心境である。だが、それを顔に見せてはならないし、ことばに表してもならない。名演技で不満を表し、残念な気持ちを表す。そしてアキシュは再び帰るように命じる(9,10節)。アキシュの命令は「明日の朝早く帰りなさい」という命令だが、ダビデはそれに従う(11節)。
今日は、この記事から三つのことを見ていこう。
第一は、神は表には出ないで働いておられる。この物語で神は表に出ていない。神のご性質の恵み、あわれみ、力など、何も言われていない。また著者は、神がこうされた、主がこう言われた、と全く言っていない。ダビデ自身も主のことを何も言わず、沈黙している。ただ、ペリシテ人のアキシュだけが、慣用句的に、二回、「主」「神」ということばを使っているだけである(6,9節)。今日の記事は神に対する明確な言及はないが、神の支配、摂理なしに、この物語はない。ダビデがイスラエルに進軍しなければならないという窮地から救われたのは、単なる偶然ではない。それは主の助けによったわけである。主は誰の目にもわかるかたちで助けに来ることもあれば、注意深く信仰の目を開いてみなければわからないようなかたちで、背後で静かに働かれ、助けをされることもある。まさに今回がそのような助けである。
第二に、神は助けるために敵をも用いる。今回、神がダビデを助けるために用いたのは、ヨナタンのような友でもなければ、アビガイルのような聡明で良識のある女性でもない。懐疑的な目でダビデを見ていたペリシテの領主たち、そしてダビデに欺かれていたアキシュである。ダビデはイスラエルを攻めるわけにはいかない。かといって、ここで立ち止まっているわけにもいかない。このジレンマのなかで、ダビデは部下たちと戦略を練っていただろう。戦場で反旗を翻し、イスラエル側につくというのが順当な線である。ペリシテの領主たちはまさにそうなることを恐れた。だが戦場で裏切りを働くという作戦が、そううまく事が運ぶのか。勝算は見えない。そうすることは一か八かの危険な賭けである。今日の物語の前後の状況を見れば、見通しは明るくない。だからといって、今ここで逃亡するわけにもいかない。そうすれば、ダビデたちは叩き潰されるだろう。こうしたジレンマの中で、神はダビデたちを救うために敵のペリシテ人たちを用いた。ペリシテ人という存在は敵であるので、神の人を救うためには適しているとは言えない。だが神は敵を救いの手段に変えてしまうお方である。そして、実際、ダビデたちは救われる。
皆様は、無神論の人から、また信仰の価値観が全く合わないという人から助けられたということがあるだろうか。そうした人たちの親切心で助けられたということがあるだろう。しかし、ダビデの今回のケースでは、ダビデに対する敵意、懐疑心がダビデを助けることになったという不思議である。眉間に皺を寄せられ、嫌な顔をされ、「帰れ」という拒否の表明がダビデを救ったのである。今で言うと、世の人々の敵意、拒絶が、結果的に救いの手段となったというようなことである。おかげで危険から守られた、というようなことである。未信者の方々は助けるつもりでやったのではない。そのつもりはない。その人に対する好意はない。しかし、それが助けになったというようなことである。このような助けもある。神の救いの手段、助ける方法というのは数千にもわたる。数えきれない。「ああ、神の知恵と知識の富は、なんと深いことでしょう」(ローマ11章33節前半)。
第三に、神のあわれみは尽きない。ダビデは翌朝早く帰ることができた(11節)。もしアキシュが、「あなたの気持ちはよく分かった。他の領主たちにもう少しかけあってみる」とやっていたら、どうなっていただろうか。結局、戦場に出かけて死んでいたか、死なずとも多くの部下たちが死んで痛手を負ってしまったかであろう。28章19節では、サムエルのことばとして、「主はイスラエルの陣営をペリシテ人の手に渡されるのだ」というものがある。そのような戦いに出かけ、何の良い結果を期待できるだろうか。ダビデは生き延びて帰れても、イスラエルからの信頼を著しく損なってしまったかもしれない。主はダビデをギリギリのところで食い止めてくださった。そればかりではない。翌朝ではなく、もう少し帰るのが遅れたらどうなっていただろうか。30章の出来事だが、帰ってみると、ツィクラグはアマレク人たちの襲撃の後で、財産を奪われただけではなく、ダビデとその部下たちの妻も息子も娘も連れ去られた後だった(30章1~3節)。この惨事はダビデの責任だとダビデを殺すことを口にする者たちが多数現れることになる。ダビデたちはアマレク人の追跡を決意し、間一髪、家族を取り戻すことになる。これがもし出陣した後の、戦地から帰って来た後であったらどうだったであろうか。時間がかなり経過してしまっていたために、家族を取り戻すことはできなかっただろう。ダビデは戦地から生きながらえて帰ることができたとしても、この惨状を前に、生き残った部下たちからお前の責任だと不満をぶつけられ、殺されて終わりだったかもしれない。殺されず済んだとしても、自分の判断の過ちから、財産を失い、家族を失い、部下を失い、人の信頼を失いと、濡れ鼠と言おうか、ぼろ鼠になって終わりの人生であったと思う。いずれにしろ人生の破滅となってしまったのではないだろうか。みじめな結末となったはずである。主はそうさせなかった。ダビデが戦地から帰るタイミングまで導いておられた。主のあわれみは尽きない。
神はこれまで、しつようなサウルの追跡から幾度も守ってくださった。そして愚かにもペリシテ人の地に逃げ込んで、にっちもさっちもいかない状態に陥っても、見捨てることはされなかった。ダビデは29章の大ピンチから救われた体験を通して、主のあわれみを強く思ったはずである。彼は敵国で敵国の味方を演じながら悶々とした日々を過ごしていた。このままでいいはずはないと思いつつ、先が見通せない日々を過ごしていたはずである。そして、これまで経験しえなかった大ピンチ到来である。俺は大バカ者だったと思ったところで、後悔先に立たず。どうすることもできない。だが、神はダビデを見捨てなかった。今回の主のあわれみが、二年近く停滞していた信仰に火をつけるきっかけとなったことは間違いないと思う。
私たちは神のあわれみということについて、誤解してならないことがある。ダビデはペリシテ人に雇われる傭兵となるという行動に出てしまったわけだが、私たちは、自分の愚かさを押し通してめちゃくちゃなことをしても、大人げない行動に走っても、神はその愚かな失敗から確実に救ってくださるということが約束されているわけではない。だから、何をやっても大丈夫さと神を試みてはならない。親に尻拭いを期待して羽目を外すお嬢ちゃん、お坊ちゃんでもあるまいし、神に尻拭いを期待して何でもやっていいということではない。周囲にも多大な迷惑を及ぼすことになる。
今日の物語において、ダビデがこの窮地から救われたのはダビデの機知によるのではないことははっきりしている。ダビデが機転を利かせてとかそういうことではない。ダビデは何もできない状況に追い込まれた。だからそれは、ただ神のあわれみによる。ダビデは何もしていない。すべては神のあわれみである。悔い改めを拒み続けたサウルには神のあわれみは残されていなかったわけであるが、ダビデの場合、ダビデの心はまだ神とつながっていた。神を恐れる心が残っていた。神のあわれみはダビデから取り去られることはなく、ダビデは戦地に背を向け、翌朝早く、帰ることが許される。
ダビデの詩篇である詩篇23編6節にはこうある。「まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。」ダビデに対するいつくしみと恵み、主のあわれみはペリシテの地にまで追いかけ、離れることはなかった。「私のいのちの日の限り」とは、「私の生涯のすべての日々」が直訳となる。主のあわれみは一生涯、ダビデから離れることはなかったのである。私たちからも離れないことを願おう。その秘訣は主を恐れる心を持つことである。ダビデのことばを読んで終わろう。「父がその子をあわれむように 主は ご自分を恐れる者をあわれまれる」(詩篇103編13節)。

