今日の記事は、主の導きを求めるダビデの姿が際立っている。ダビデとその部下たちは23章の冒頭の時点で、どこにいたのかを確認しよう。ダビデとその部下たちはユダの「ハレテ森」にいた(22章5節)。ハレテの森にいた時、そこから西へ約10キロの所にある「ケイラ」という地がペリシテ人によって襲われているというニュースが入る(1節)。ケイラは穀物の産地であったので、そこに目がつけられたわけである。同胞の危難に目をつぶっていられないのがダビデである。ダビデは主に伺いをたてる(2節)。「行け。ペリシテ人を打ち、ケイラを救え」という答えがある。だがダビデの部下たちの不安は消えない(3節)。追っ手を恐れて逃亡生活をしているような者たちにすぎない。それなのに、完全武装のペリシテ兵の集団の中に飛び込んで行って大丈夫なのかと。ごもっともである。ダビデはもう一度、主に伺う(4節)。主は再びGOサインを出す。4節の主の答えで注意していただきたいのが、「わたしがペリシテ人をあなたの手に渡すから」という「わたしが」がということばである。ダビデを勇気づけることばである。このことばは部下たちにも、神の救いの約束の確かさを確信させたであろう。こうしてダビデとその部下は突進し、勝利を治め、家畜までも奪い返し、ケイラの住民を救うことになる(5節)。ダビデはりっぱに主の導きに従い勝利を得た。だが、これで簡単にめでたし、めでたしとはならなかった。

このような事件がサウルの耳に入らないわけはない。ケイラは町であるので、荒野と違って壁でおおわれている。サウルに袋の鼠だと思わせた(7節)。ケイラの住民は、ダビデとその部下たちだけに攻撃の手が伸ばされるなどとは思っていない。以前、ダビデに味方をしたと思われた祭司の町ノブは、サウルによって全滅という災害を被った(22章18,19節)。ノブの町は、男も女も子どもも、家畜に至るまで殺された。ケイラの住民は、二の舞になるのは避けたいと当然思う。実際、サウルがケイラの町を破壊しようとしているという情報が入ったようである。10節がそれを暗示している。「…サウルがケイラに来て、この町を破壊しようとしている…」。ダビデはこの場面でも導きを求める。ケイラから出て行ったらよいかどうか(9節)。導きを求める役を買ったのは、ノブの町の生き残りの祭司エブヤタルである。彼はダビデのもとに逃げて来ていた。神はダビデが今後、神のみこころを明確につかんでいくために、祭司エブヤタルをダビデのもとに送ったと言えるだろう。しかし反対にサウルは、みこころを伝達する祭司を失ってしまっている。主の祭司を敵に回したサウルは、祭司を得たダビデより、ますます不利な状況に自分を追い込むことになる。

サウルの霊的な鈍さは7節の発言に良く表されている。それはダビデが扉とかんぬきのある町に入ったことを聞いての発言で、「神は彼を私の手に渡された」がそれである。神の祭司を皆殺しにした者がする発言ではない。それにダビデを殺すことが神の計画のはずはない。サウル王が神に逆らったので、ダビデは神の命で油注ぎを受けて、次期の王に選ばれた者である。ダビデが殺されていいはずはない。サウルは自分に都合のいいときは神の名を持ち出して、そうでないときは口にしないのである。自分に好都合のときは「神の導き」「神は私にこうされた」といった発言で行動に移してしまうのである。サウルのように自分の行動を正当化しようとして、神の名を口にし、「道が開かれた、環境が開かれた」と言って、自分勝手な行動に出て、結果、神のみこころを損なってしまうことがある。私たちも、自分勝手なふるまいを肯定するために神の名を利用してはいないだろうか。現代にあっても、無用に神の名が口にされているのではないだろうか。神の名はみだりに唱えられているのではないだろうか。皆さんも心当たりはないだろうか。

ダビデはこのとき、10~12節にあるように入念に主に伺い、それこそ神の導きに従って、ケイラを出る(13節)。サウルは「神は彼を私の手に渡された」と世迷言を言ってしまったが、14節後半を見ていただくと、「サウルは、毎日ダビデを追い続けたが、神はダビデをサウルの手に渡さなかった」とあり、これこそが神のみこころであったと知る。ダビデをサウルの手に渡さないことが神のみこころである。こうして神はダビデに守りを与えた。

ダビデはジフの荒野のホレシュに逃れる(15節)。ジフはユダの領地の奥地である。15~18節は、ダビデの友ヨナタンが神によって力づけに来る場面である。サウルにとって仲間と言えるのは殺人鬼のドエグくらいであるが、ダビデにはヨナタンがいた。ヨナタンはサウルの息子で、ダビデを自分自身のように愛していた。14節では、毎日ダビデを追い続けながらダビデに追いつけないサウルのことが記されていたが、ヨナタンの場合、不思議とダビデに難なく会えてしまう。神の計らいであろう。神は苦しんでいるときに励まし手を送ってくださる方である。ヨナタンのしたことは、自分の愛情を示し、心配していることを伝え、「きっとあなたなら大丈夫。がんばって」といった人間的励ましで終わることではない。16節に「神によって力づけた」とある。ヨナタンはダビデに対する神の約束に基づいて励ました。「あなたのいのちは神が守ってくださる。あなたは次期イスラエルの王として神が選んだのだから」と。私たちも誰かを励ますという場合、みことばに記されている数々の神の約束に基づいて励ますことができたなら幸いである。18節で「二人は契約を結んだ」とあるが、これはかつて二人の間で結ばれた契約の更新である(18章3節,20章16節)。契約の内容はダビデを次期の王として認めることが中心としてある。ヨナタンは自分が王となる権利を放棄し、ダビデが次期の王であることを確約している。ダビデは親友のヨナタンに会えて、心の休息をいただいたと思う。この後も厳しい追跡の場面が待っていたが、ダビデは一時の休息をいただいた。

19~29節は危機一髪の救いの場面である。22,23節を見ていただくと、サウルのことばとして、「さあ行って、さらに確かめてくれ」「よく調べてくれ」「よく調べて、確かな知らせを持って、ここに戻って来てくれ」としらみつぶしの調査を命じていたことがわかる。だが神はダビデをサウルの手に引き渡しはしない。神がダビデの盾となり、これまで守ってきてくださったように、これからもそれは変わらない。サウルはダビデの位置情報を入手し、ジフへ行く(24節前半)。ダビデたちはその頃、ジフのホレシュから移動し、マオンの荒野にいた(24節後半)。ジフとマオンの間は距離にして約10キロ。山間部での追走劇が繰り広げられる。こうなったのは、ジフの町の住民が、ダビデたちがジフにあるホレシュにいることを知って、サウルに通報したからである(19節)。ジフの住民はダビデが憎くて通報したわけではないだろう。やはりケイラの住民のように、サウルの残虐さを思っての保身のためであろう。ダビデのためにとばっちりを被るのは御免こうむりたいというところだろう。ダビデたちの周辺には味方はいない状況である。そしてサウルの追跡は執拗だった。

山を挟んで追跡軍と逃亡軍のレースが始まった(26節)。そして、その距離が縮まって、もう絶体絶命かと思われたとき、奇跡が起きた。「一人の使者がサウルのもとに来て、『急いで来てください。ペリシテ人がこの国に襲いかかって来ました』と言った」(27節)。なんと、神はサウルたちが撤退するように、ペリシテ人を動かした。しかも、そのタイミングは絶妙であった。間一髪の救いであった。ダビデたちは急にサウルたちが追って来なくなったことを知り、アレッ?と思っただろう。ダビデはこうなることを想像できていただろうか。人間の思いを超えた摂理の御手、守りの御手が働いたのである。間一髪の救出劇であったことは、ダビデがその場所を「仕切りの岩山」(28節)と名付けたことからもわかる。今回のことは、ダビデにとって肝を冷やす体験であったことがわかる。同時に、そこに確かな神の御手を見る体験であった。ダビデは神の守りに感謝したことであろう。詩篇を見ると、一巻、二巻に、ダビデの敵からの守りを題材にした詩篇が数多く記されている。サムエル記と併せて詩篇を読むことは、ダビデの心境と信仰を知る助けになる。彼は、いつも死の危険を身に帯びていたお尋ね者であったが、彼の信仰姿勢の良いところを見倣うべきである。彼は自分の弱さ、愚かさ、罪を告白しつつ、敵からの救いを神に呼び求めている。

今日の記事からダビデが主に導かれたこと、主に守られたことを見ることができたが、ダビデは、主が導いてくださるさ、主が守ってくださるさ、と何もしなかったわけではない。導きを求めて真剣に主に伺うことをした。この逃亡生活にあって、根底にあったのは主に拠り頼む姿勢である。

対比されるのはサウルである。彼は神の民の王である。だが彼に神の導きを求める姿勢などない。神は彼から離れてしまっており、悪魔の道具に成り果てている。ダビデはイスラエルを救う者で、神の導きによってケイラの住民を助けたが、サウルはイスラエルを滅ぼす者で、ノブの町を滅ぼし、ケイラの町も滅ぼそうとする。彼は恐怖政治で人を支配しようとした。それは神によるものではなかった。7節で「神は彼を私の手に渡された」とか、21節ではジフの住民に「主の祝福があなたがたにあるように」と神の名を口にしているが、自分に好都合と思えば神の名を口にし、自分の行いを正当化しようとする。彼には、主の御思いはどこにあるのか?とへりくだって尋ね求める精神は全くない。あるのは我欲だけである。彼は暴走して自ら破滅の道を突き進んで行く。

私たちはダビデとサウル、どちらに倣えば良いのかは明らかである。神の名を口にするのはどちらも同じ。だがサウルと神との関係は終わっていた。彼は形式的に主の儀式や祭りに与りながら、主のみこころに反することに時とエネルギーを費やす生き方しかできない。自分のメンツを保つことに躍起になり、自分を欺いて生きていた。ダビデもダビデで完全な者ではない。だがダビデは神の名を唇だけにではなく心に持っていた。今日の箇所では、ダビデの主に伺う姿勢が際立っている。私たちは、ダビデと同じく主に伺い、みこころを尋ね求め、みこころを行うことに心を砕いていきたいと思う。また、主に拠り頼む者として、主の守りをダビデと同じく体験していきたいと思う。主が私たちの盾、私たちの砦、避け所、私たちの岩、救い、やぐらである。