ヨハネの手紙第一は、神を信じている、神との交わりがある、神を知っていると言いながら、そうではない偽りの信仰者たちが意識されている。4節では「神を知っていると言いながら」という表現があるが、神を知っていると言いながら、平気で罪を犯す者たちがいた。その者たちの真実は、神を知っているのではなくて、神を知らないということである。神の秘儀を知っている、神秘的体験をした、神の声を聞いた、その他、何を主張しようとも、罪に対する態度が間違っているなら、その人は神を知っていない。

ヨハネは1章において、自分には罪がないと言っている者たちは偽りであることを教えていた(1章8節)。神を知っているとする彼らは、罪を犯したことがないと告白していた(1章10節)。だが実際は1章6節にあるように、闇の中を歩んでいた。「闇の中を歩む」とは、平然と罪を犯し続けていることである。罪を罪とも思わず、罪を恥じることもなく、厚顔無恥なまま習慣的に罪を犯し続けていることである。ヨハネの私たちに対する願いは、これとは正反対の歩みである。「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」(1節前半)。信仰者といえども、この地上で罪の性質が根絶されてしまうことはない。罪を犯す可能性がゼロになってしまうことはない。信仰者といえども、油断して罪を犯すことがある。偶発的に罪を犯すことがある。気づかないで罪を犯すこともある。神に信頼することを忘れたり、傲慢になってしまうことがある。だから、罪との戦いは生涯続くわけだが、真のキリスト者は、罪から離れる生活を志す。

罪の性質だが、罪とは神と人間の間を引き離すものである。罪は神を遠ざけてしまうものである。神を現実的な方ではなくしてしまう。言い方を変えると、イエス・キリストを現実的な方ではなくしてしまう。私たちと神との関係、私たちとイエス・キリストとの関係は生きたものでなければならないが、それをダメにするのが罪である。だから私たちはこの罪を忌み嫌う。そして、その罪に対処しようとする。

ある人が自分の体験を次のように語っている。「私とイエスの関係は、あなたかも死んでいる人に対するかのようなものでした。そしてイエスは私にとって、何か数学の公式のような存在になりかけていました。確かに私は、贖いの代価を払ってくださり、それによって私が自由なものとされ、義とされたことを信じていました。しかし、いつの間にかこの信仰は、空虚な公式と化してしまったのです」。この人は、生けるキリストの現実を自分の人生のうちに見つけるのは困難になってしまったと言うのである。この人は、そうなってしまった原因に気づいた。それは、罪に対して泣く心がいつしか失せ、罪を軽く見るようになってしまったということである。それゆえに、キリストの十字架の救いを当たり前のように思い、安っぽい、それほど価値のないもののように受け止めてしまっていた。彼は自分の罪を軽く見てしまっていることに気づいて悔い改めが起こった時、新たな思いで十字架を見上げ、イエス・キリストの現実を取り戻したのである。

では、本日の2章1~6節の教えを順番に見ていこう。ヨハネは、「私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです」(1節前半)と言っているように、罪を大目に見ること、罪に慣れ親しむことを願ってはいない。だがヨハネはこの後すぐに、私たち罪人の現実に配慮することばを付け加えている。私たちは罪を犯さないように注意を払いつつも、個々の罪を犯してしまうことがある。また先ほどのキリスト者のように、いつしか罪を軽く見るようになってしまい、あとでその重大さに気づいたというケースも起きてくる。そして「ああ、なんて愚か者なんだ」と嘆くことになる。ヨハネはそのような人々に希望のことばを送る。「しかし、もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の前でとりなしてくださる方、義なるイエス・キリストがおられます」(1節後半)。父なる神は、罪を犯してしまう私たちの弁護人として、義なるイエス・キリストを置いてくださった。「御父の前でとりなしてくださる方」の「とりなしてくださる方」を以前の新改訳第三版では「弁護してくださる方」と訳していた。また協会共同訳では「弁護者」と訳している。私たち被告人の弁護士である。この1節後半は、有罪人が法廷に出廷して裁判を受ける時の絵を想像させる。有罪人は法廷で、法廷から任命を受けた弁護人を必要とする。裁判官である神は、被告人である罪人のとりなし役として、御ひとり子を弁護人として任命した。私たちの弁護人は義なるイエス・キリストということになる。最上の弁護人である。

「とりなしてくださる方」<パラクレートス>は、実はヨハネの福音書14章16節では「助け主」と訳されている。<パラクレートス>ということばはもともと、「助けるためにそばに呼ばれた者」といった意味がある。弁護人がまさしくそうである。被告人を助けるために被告人の側について、裁判官と被告人の間をとりなしてくれる。今日の文脈では、キリストは私たちを弁護するためにそばに呼ばれた助け主である。キリストは私たち罪人の弁護人となってくださる。しかしまちがってならないのは、キリストは罪の自覚のない者、罪を認めない者の弁護人にはならないということである。この世の弁護士であれば、自分の罪を素直に認めることをしようとしない被告人の側にも立って、無罪を勝ち取ったり、減刑に持って行こうとするが、そういう役目は引き受けない。正直に自分の罪を素直に認め、罪に泣く心を持っている人に対して、キリストは弁護人の役を務めてくださる。これがこの世の弁護人と違うところである。そして、「わたしはこの人の罪の負債を、我が身をもって償いました」ととりなしてくださる。このような弁護人もこの世にはいない。

ヨハネはキリストが弁護人であるという視点から、キリストの十字架を説明する。「この方こそ、私たちの罪のための、いや、私たちの罪だけでなく、世全体のための宥めのささげ物です」(2節)。「この方こそ」と言われる義なるキリストは、神でありながらまことの人となられたお方。人として完全に罪のない生活を送られた方。律法の要求をすべて満たされたお方。そして私たちの罪のための、世全体の罪のための「宥めのささげ物」となってくださった。それは、「わたしはこの人の罪の負債を、我が身をもって償いました」ととりなすためにである。「宥めのささげ物」ということばは、罪に対する神の御怒りが前提となっている。神は罪に対して厳しい態度を取るお方である。神は罪を憎んでおられる。そして断固とした態度を取る。罪に対する同情はない。キリストはこのことを知っておられる。だからキリストは、私たちを弁護して救うためには、私たちの身代わりとなって厳しい断罪を受けること以外に手段はないことを知っておられた。そして、それを実行に移された。

私たちは2節のみことばから十字架に、もう一つの事実を見なければならない。「ささげ物」という場合、人間が信仰対象である神に供えるものである。しかし、ここで宥めのささげ物は誰が供えたのだろうか。私たち人間ではない。御子なる主イエスが自発的に宥めのささげ物となってくださったことは事実であるが、それは御父のみこころであったわけで、すなわちこれは共同作業ということである。端的に言ってしまうと、宥めのささげ物を供えたのは裁判官である父なる神ご自身である。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された」(ヨハネ3章16節)とある通りである。第一ヨハネ4章10節も読もう。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」。父なる神は自分の心臓を取り出し与えるような思いで、御子を宥めのささげ物としてくださった。そして御子は十字架の上で血を流して宥めのささげ物となり、私たちを弁護してくださったである。今も弁護してくださるのである。

私たちはキリストの十字架を仰ぎ、その犠牲を思うときに、私たちの罪に対する態度は決まる。もはや罪を大目に見ていることはできないと。罪を忌み嫌い、罪に立ち向かう。そしてもし罪を犯したら光のもとにさらけ出して告白する。神と一つになって、神と同じことを言う(1章9節)。これをせずに、罪を甘やかしていたらどうなるのだろうか。罪に対する同情は罪を増長させ、罪の根はますます深く張り巡らされて行く。罪を育んでいると、神から遠く離れ、神は数学の公式のような存在になっていく。

「もし私たちが神の命令を守っているなら、それによって、自分が神を知っていることが分かります。神を知っていると言いながら、その命令を守っていない人は偽り者であり、その人のうちに真理はありません」(3,4節)。「罪を犯さないように」と話していたヨハネは、今度は「神の命令を守る」という積極的表現をしている。神の命令を守ることを、5節では「神のことばを守る」と言い替えられているが、このようにして神に服従している人にとって神は数学の公式のような存在ではない。その人は体験的に神を知っているのである。「自分が神を知っていることが分かります」の「知る」と訳されていることばは、情報として知るということばではなく、体験として知るということばである。艱難辛苦の中、神におすがりし、神に従って生活しておられる先輩の信仰者の方々を見ていると、神を良く知っている人たちだなと思うことがある。

ヨハネは私たちが神について正しい知識を身に着けることを願っているが、ヨハネは正しい知識を身に着けてそれで終わりとも言っていない。正しい知識を身に着けたからといって、それで神を良く知っているとはならないわけである。神は唯一、神は三位一体、イエスはキリスト、聖霊はもうひとりの助け主。こうした知識はなくてはならないが、それで終わりではない。神を良く知っている人は神の命令を守るのである。机の上のペーパー試験が合格で、「はい、あなたは神を知っていますね」とはならず、生活において神に従うことによって神を知っていることを証明する。

「しかし、だれでも神のことばを守っているなら、その人のうちには神の愛が確かに全うされているのです。それによって、自分が神のうちにいることがわかります」(5節)。ヨハネは何を言いたいのだろうか。ここに来て初めて「神の愛」という表現が登場する。ヨハネが有名にした表現である。では、この文脈では「神の愛」をどのように理解したら良いのだろうか。ここでの「神の愛」の理解を巡っては、いくつかの解釈がある。信仰者への神の愛(神から信仰者へ)。次に、信仰者の神への愛(信仰者から神へ。神への愛)。こうした愛の方向性にこだわることをせず、神に帰属する愛、神固有の愛とも受け取れる。人の愛ではなく神の愛。どれが正解なのか。信仰者の神への愛がこの節で言われている神の愛であると言われることがよくある。なぜなら、神のことばを守ること、すなわち神への服従が神を愛することであるからである。従うことは愛すること。神への愛は神に従うことによって証明され、全うされる。これは事実である。人の世界でも、「あなたを愛しています。でも、あなたと一緒になりたくありません。あなたに従いたくもありません」と言うのなら、その愛は口先だけだとわかるだろう。私たちと神との関係も同じである。今お話したように、「神の愛」は「神への愛」と受け取れるのだが、「神の愛」は神に帰属する愛、神固有の愛と受け取れる。神が愛の源である。そして愛の与え主である。愛は神から発する。「神のことばを守っているなら」の「神のことばを守る」というのは、3節の「神の命令を守る」の言い換えだが、ヨハネがこの手紙において強調している神の命令とは、主にある兄弟姉妹を愛することである(10節)。主にある兄弟姉妹への愛は、本質的には人の愛ではなく、神の愛である。神に源がある愛である。神固有の愛である。そのような愛がみられるというのは、その人が神のうちにいることの証明である。ヨハネは、愛の実践によって、5節後半で言われているように、「それによって、自分が神のうちにいることが分かります」と断言する。「自分が神のうちにいることが分かります」ということは、神がその人にとって生きた現実となっているということである。

「神のうちにとどまっていると言う人は、自分もイエスが歩まれたように歩まなければなりません」(6節)。神のうちにとどまっていると言いながら、そうでない人たちがいたのだろう。やはり、偽りの信仰者が意識されているのだろうか。神のうちにとどまっていると言うのなら、主イエスが歩まれたように歩まなければならないというわけである。ヨハネは主イエスをモデルとして提示する。私は神から幻を見せられたとか、天界を旅してきたとか、一般の人は知らない神の秘儀を知っているとか、奇跡を行えるとか、そのような話はいくらでもあるが、ヨハネはシンプルに、その人が本物かどうかは、主イエスの生き様に倣っているかどうかなのだと判定基準を提示している。ヨハネは主イエスから直々に、わたしを模範とするように、わたしに倣うようにと指導を受けて来た。それは秘術を使うとか、難行苦行の修行をするとか、そういうことではない。愛の教え、愛の実践である。主イエスが弟子たちの足を洗った時、主イエスはこう言われた。「主であり、師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのであれば、あなたがたもまた、互いに足を洗い合わなければなりません。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、あなたがたに模範を示したのです」(ヨハネ13章15節)。ヨハネはこうしたことを念頭に、主イエスにならうように教えているのだろう。キリストは目に見えない神が目に見える神となってくださったお方であり、私たちのいのちであり、真理であり、生ける教科書である。そのキリストに私たちの心を定め、他のものに散らされないように生きていくということは、大きな戦いかもしれない。そうした戦いの中で、私たちはキリストにならうことを求めていくのである。キリストにならう信仰生活の中で、キリストが生活の現実となっていく、すなわち神が生きた現実となっていくのである。罪から離れること、神のことばを守ること、特に愛の命令を実践すること、主イエスを模範とすること、そのようにして私たちは、神を私の現実としていこう。