前回はこの手紙の執筆目的である「イエス・キリストを正しく知る」ということを、1,2節からお話した。この手紙の執筆背景には異端の存在がある。異端は一応に、私たちは神を信じている、神を知っていると話す。3節には交わりということばが登場するが、当時の異端は、神と交わりを持っているとも話していたようである。だがヨハネは、神と交わりを持っていると話していたとしても、イエス・キリストを正しく知り、信じ、キリストとの交わりがなければ、その人は神と交わりを持ってはいないと暗に伝えたい。ヨハネは手紙の形式としては異例で、あいさつから始めないで、いきなりキリストを紹介することから始めている。キリストが信仰の要であり、その人の信仰が本物かどうかの試金石になるからである。

前回の復習をしておくと、1,2節で繰り返し登場した表現は「いのち」である。「いのちのことば」「いのち」「永遠のいのち」という表現で、ヨハネはキリストを紹介している。このように紹介できる理由は、キリストご自身がご自分のことを「いのち」と自己紹介していたからである。ヨハネは、福音書において、そのことを伝えている。「この水を飲む人はみな、また渇きます。わたしが与える水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます」(ヨハネ4章13,14節)。「わたしがいのちのパンです。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません」(ヨハネ6章35節)。「わたしはよみがえりです。いのちです」(ヨハネ11章25節)。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14章6節)。「永遠のいのちとは、唯一のまことの神であるあなたと、あなたが遣わされたイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17章3節)。「いのちの水」「いのちのパン」という表現で、それは人間にとって必須なものであることを伝えている。また、そのいのちとは永遠のいのちであることを教えている。永遠のいのちとはいつまでも長く続くいのちという理解はお粗末である。それは本来神のみが持ついのちである。その神のみが持ついのちをイエス・キリストが持っていると言う。イエス・キリストはまことの人となられたまことの神である。イエス・キリストは神の実体であり、永遠のいのち、はじめにあったことばである。だから、このお方を信じ受け入れ、このお方との交わりを持つことなくして、自分は永遠のいのちを持っているとか、神との交わりがあるとかは絶対に言えないのである。

ところが異端の人々は、神と交わりがあると言っていた。だが実際はそうではなかった。彼らのキリスト観がそれを証明していた。彼らのキリスト観はまちがっていて、イエスというのはただの人間で、そこにキリストの霊がのりうつってカリスマ的存在になっただけだとか、神は肉体をとるはずはなく、肉体を持っているように見えただけであるとか主張していた。さらには、イエスの十字架はただの悲劇的死にすぎないとか、ようするに、イエス・キリストをまことの神とは信ぜず、十字架というキリストの救いのみわざに対しても泥を塗るようなことを主張していた。そうでありながら、自分たちは神との交わりがあると信心深い顔をしていた。また彼らは、イエス・キリストの使徒であるヨハネたちとの交わりを避けていながら、自分たちこそが神と交わりがある正統派であると主張していた。

ではこれから3,4節を学んで行こう。キーワードは「交わり」である。「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです」(3節)。「交わり」<コイノーニア>ということばは、一般では、分かち合いの中に生きる親密な関係を表すのに用いられていた。一例を挙げると、二人の男女が、すべてのものを分かち合って、ともに親密な結婚生活に入るのに、「人生のコイノーニア」と言ったりしていた。これは単に同居するということではなく、すべてを分かち合う親密な関係である。私たちは、イエス・キリストを信じ受け入れることによって、真の意味で、最高の意味で、「人生のコイノーニア」に入る。それがイエス・キリストとの交わりである。キリストを心に受け入れる、内に宿す。キリストと一つとされ、キリストに従い、人生のすべてを分かち合う。これはワクワクするような「人生のコイノーニア」である。しばし、キリストを信じる者がキリストの花嫁と呼ばれるのはそういうことである。結婚は一心同体になることであると聖書は教えているが、キリストと私たちの関係も同じである。

ところで、キリストと交わり一つになるといっても、それを妨げるものがあるわけである。それは私たちの罪である。キリストはそのために十字架にかかり、罪からきよめるための尊い血潮を流してくださった。このようにして、私たちはキリストとの交わりを持つことが許された。キリストとの交わりに入ったということは、神との交わりが回復したということである。神という実体はいのち、永遠のいのちである。だから、私たちは神のもとに立ち返らない限り、いのちを持っていることにはならない。霊的に死んでいる。また私たちは本来、神と交わり生きるように造られた存在であるので、神のもとに立ち返らない限り、空しさから解放はされない。真の喜びは生まれない。だが人々は倒錯したかたちで、この交わりの思いを満たそうとしている。この欲求を満たそうとしている。自分のうちに神にしか満たし得ない空間があるのに、それを別のものによって満たそうとしている。けれども、それではたましいの飢え渇きは止まない。だから、神の御子は肉体をとって人となり、神を現す神となってくださった。1節で言われているように目に見える神となり、神の教えを説き、そして神と人との間の障害となる罪を取り除くために十字架にまでついてくださった。このようにして神はご自身との交わりに招いてくださっている。ヨハネは4節で、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです」と述べて、この手紙の積極的な執筆目的を表明しているが、イエス・キリストをまことの神、永遠のいのちと信じ、また私の罪からの救い主と信じて、キリストとの交わりに入るときに、この喜びが与えられる。

ヨハネが教える交わりは、今お話した神との交わり、キリストとの交わりがタテの交わりであるとするならば、もう一つある。それはヨコの交わりである。キリスト者との交わりがヨコの交わりである。3節を良くご覧ください。「私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです」。「私たちと交わりを持つようになるためです」という交わりは、タテの交わりとヨコの交わりが交錯していると気づく。<コイノーニア>ということばは、元来、財産を共有する者同志に用いられたことばである。「共通する持ち物を共有する」という意味で使われたことばである。では、私たちが共有するものとは何だろうか。それはキリストであり、キリストのうちに含まれる一切のものである。私たちはキリストを共有しており、キリストを分かち合い、キリストを行き合わし合う交わりに召されている。キリストは最後の晩餐の席で、一つのパンを裂き、「これはわたしのからだです」と言われ、それを共有する一つの交わりの中に聖徒は置かれていることを示された。「交わり」という表現は使徒ヨハネたちが使用したことによってクリスチャン用語になっているが、それはただ、お茶っこするとか、おしゃべりするとかのレベルではなく、互いにキリストを行きかわし合う交わりであるということである。これがこの世の交わりと全く違う点である。キリストにある交わりである。この交わりを幾つかに分けて説明することもできるだろう。

第一に、神の家族としての交わり。私たちはキリストにありて一つの家族にされた。「あなたがたは・・・神の家族なのです」(エペソ2章19節)。だから兄弟姉妹と呼び合う。社会的な地位や身分や実力に左右される交わりではない。そして、家族として、喜びや悲しみも分かち合うような真実な交わりがそこにはあるはずである。事務的なことを話し合って終わりとか、そういうことではないはずである。心を開いた交わりがそこにあるはずである。何よりも愛し合う交わりがそこにあるはずである。ヨハネは2章以降で、兄弟愛を強調することになる。

第二に、生命共同体としての交わり。聖書の教えにおいて、教会はキリストのからだなのだと教えられている。「大勢いる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、一人ひとりは互いに器官なのです」(ローマ12章5節)。私たちはキリストのからだという一つのからだに属している。私たちはキリストにありて一つのからだとなるために結び合わされた者たちである。からだにはどこも同じ血液が流れている。この血液に相当するのがキリストのいのちである。私たちは同じキリストのいのちを宿している。そしてキリストのからだを構成している。互いに依存しあい、助け合う関係に置かれている。人間のからだを考えれば、それは良くわかるだろう。孤立している器官や臓器はない。現代、孤立しているキリスト者が増えていると言われるが、孤立しているキリスト者は全然聖書的ではない。真のキリスト者は互いに交わりを保ち、助け合い、互いにかしらなるキリストに仕えていくだろう。

第三に、徳を高め合う交わり。当然それは、噂話や陰口の井戸端会議とは違う。舌を制した交わりとなるだろう。また、それは道徳的に乱れた交わりではなく、聖い交わりとなるだろう。その交わりは、キリストの教えに基づいて、相手をいさめたり、励ましたり、教えたり、時には赦し合ったり、建徳的なものとなるはずである。

第四に、祈りとみことばの交わり。これは、キリスト者の交わりの目に見える特徴だろう。キリストはこのように話された。「まことに、もう一度あなたがたに言います。あなたがたのうちの二人が、どんなことでも地上で心を一つにして祈るなら、天におられる私たちの父はそれをかなえてくださいます。二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」(マタイ18章19,20節)。私たちはキリストの御名によって祈るよう教えられている。そして、「二人か三人がわたしの名において集まっているところには、わたしもその中にいるのです」とは何とすばらしい宣言ではないだろうか。まさしくキリスト者の交わりとは、キリストを中心とした交わりであり、キリストを行きかわし合う交わりであると知る。キリストのいのち、真理、愛と恵み、そうしたものを行きかわし合いながら交わるのである。

以上、キリストにあるヨコの交わりを見てきたが、タテの交わりとヨコの交わりは十字のように交錯していると知る。この交わりにヨハネは招いている。この交わりのキーパーソンはイエス・キリストである。イエス・キリストは、まことの人となられたまことの神。初めからおられたいのちのことば。永遠のいのち。私たちの罪のために十字架にかかりよみがえられ、今も生きておられるお方。もし私たちが信仰の迷子になってこのお方を見失うときに、交わりも損なわれ、失われてくる。私たちの交わりからこのお方を抜き去ったならば、建物を支えている柱を失った建物のように崩れ去る。私たちのキリスト信仰は確かだろうか。私たちは使徒ヨハネが告げているようにイエス・キリストを正しく信じ、このお方の臨在を慕い求め、このお方との交わりを喜びとするところから始めたいと思う。そして、互いにイエス・キリストと、イエス・キリストのうちにある一切のものを行き交わし合う交わりを喜びとしていきたいと思う。