今日の箇所は「金持ちとラザロ」で知られる有名な講話である。16章全体が富に対する心のあり方について教えられていて、それを締めくくるようなたとえ話的なお話となっている。今日のお話は前回同様、14節の「金銭を好むパリサイ人」が意識されてのものである。今日のお話には、王侯貴族のような生活をしていた金持ちと、超貧乏人のラザロが登場する。二人の立場は死んでから逆転してしまう。前回お話したように、大抵のユダヤ人は、お金がたくさんあることが神の祝福のしるしの一つで、貧乏は祝福のないしるしであるかのようにとらえていた。だがそうではないことを主イエスは教える。結局は心の在り方の問題である。では、「金持ちとラザロ」を学んでいこう。
「ある金持ちがいた。紫の衣や柔らかい亜麻布を着て、毎日、ぜいたくに遊び暮らしていた」(19節)。「紫の衣」はきわめて高価で、ほんとうの金持ちしか買えなかったと言われる。「柔らかい亜麻布」は最上の下着を意味する。おめしものは最高級品。そして毎日贅沢三昧の生活で宴会に興じていたのではないだろうか。彼は持てるお金を神と人のために使うというのではなく、自分の楽しみのために浪費するような生活を送っていた。
「その金持ちの門前には、ラザロという、できものだらけの貧しい人が寝ていた」(20節)。注意していただきたいのは、金持ちには名前が付けられていないが、貧しい人には名前が付けられているということである。創世記15章2節に、アブラハムのしもべで「エリエゼル」の言及があるが、この「エリエゼル」を略したのが「ラザロ」である。その名前の意味は「神に助けられる人」である。ラザロは来る日も来る日も金持ちの門前で身を横たえている。たまには何か食べ物を恵んでもられることがあったかもしれないが、彼は常にお腹を空かしてようである。物乞いの身である。しかも「寝ていた」とあるが、彼は病人か障がい者であったと思われる。そうした人たちが取る手段が物乞いである。彼はほんとうに「神に助けられる人」なのだろうか。「神が助けてくれない人」のほうがピッタリ来ないだろうか。彼は今、どん底状態にあるのである。
「寝ていた」が原文では受身形であるところから、ラザロは歩けないため、共同体の成員たちが毎日彼を金持ちの門前まで運び、夜ごと、彼をその住まいまで戻してあげていたことが考えられるとも言われている。実際、こうした慣習があったようである。金持ちは私有地に入るための門を持っていたが、知人たちがラザロをそこに運ぶボランティアをしていた可能性がある。あるいは、自分で何とかそこまで歩いて行って身をうずめる毎日であったかもしれない。ラザロの体は衰弱していて、働くことはおろか、上半身を起こしていることすらできなかったようである。身を横たえているほかはなかった。
「彼は金持ちの食卓から落ちる物で、腹を満たしたいと思っていた」(21節前半)。食卓から落ちるパンくずといった残飯は犬の餌に回されたりする。彼はそのようなものでいいから食べたいと願っていた。彼はパンの一かけら程度のものは与えられたかもしれないが、腹を満たすほどの十分な量ではなかった。金持ちは門前にこのラザロがいることは知っていただろう。24節で「ラザロ」と呼んでいるわけだから。しかし、知っていながら見て見ぬふりを続けたようである。あり余るほどのお金も持っていたはずなのに、ラザロには何もしなかった感がある。ラザロの衰弱は進む一方である。ラザロには神の助けはないのだろうか。
「犬たちもやって来ては、彼のできものをなめていた」(21節後半)。これをどう受けとめたらよいか悩むところである。犬をラザロをいじめる側に入れているのだろうか。犬さえもラザロをばかにしていると。なめまくっていると。野犬は不浄のものというイメージが旧約時代からあった。実際、この時代も、犬は豚なみに汚れた動物としてみなされていた。ミシュナーにはこうある。「何人もいずこにおいても犬を飼ってはならない。鎖につないで飼うのでなければ、犬を育ててはならない」。ラザロをなめた犬たちは野犬であった可能性が高いが、野犬になめられるラザロも野犬同様不浄とみなされる存在にまで堕ちたということを描いているという人もいる。だが、この場面において、犬はラザロを慰めてくれる存在として描かれていると取ることも可能である。「犬はみずからの傷を舐める習性がある。また犬は愛情のサインとして人間を舐める。だがそれだけではない。最近の科学的知見は、唾液が治癒を促進する『体内で造られるペプチド抗生物質』を含有していることを明らかにした。つまり犬の唾液はこのようなペプチド抗生物質を含んでいるのであり、古代人は経験上犬が傷を舐めると、傷はより早く癒されることを発見したようだ」(ケネス・E・ベイリー)。「わたしの理解するところでは、体中のできものを犬たちに舐めてもらってラザロはほっとし、苦痛も和らげられた。これでわたくしたちは思い出す。静かで物言わぬこれらの動物たちがラザロに同情し、人間以上に彼を助け、彼の面倒を見ていたということを。彼は犬から受けたもの以外の医療的配慮を受けることなしに、裸でいた。このことは、富める人が彼の存在に気づかなかった、あるいはまったく注意を払わなかったということを証明している」(イブン・アルータッイブ)。ラザロに優しいのは犬たちという受けとめである。ラザロのできものをなめた犬たちは、もしかすると野犬ではなく、金持ちが飼っていた護衛用の犬の可能性もある。その犬たちは残飯で養われていて、ラザロもそのおこぼれに与りたいと思っていたのかもしれない。いずれにしろ、犬たちをラザロの味方ととらえるにしても、それでしかないラザロはまことにあわれな存在ということになる。
「しばらくして、この貧しい人は死に、御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた。金持ちもまた、死んで葬られた」(22節)。ラザロも金持ちも死んだ。死は平等にやってくる。注意して見ると、金持ちは「死んで葬られた」と言われているが、ラザロの場合、葬りの記述はない。金持ちは金持ちらしく、たくさんの人が集まり、盛大な葬式が執り行われただろう。28節を見ると、兄弟が五人いたことがわかるが、彼らによって葬式が盛大に執り行われ、りっぱな墓に丁重に葬られたはずである。それに対してラザロは、わずかな人たちの手で、ひっそりとどこかに葬られたはずである。あまりにも対照的。これで地上の生涯は終わり。彼は神に助けられない人のモデルのようである。
だが、地上の生涯がその人のすべてではない。その先がある。ラザロの場合、「御使いたちによってアブラハムの懐に連れて行かれた」とある。「アブラハムの懐」というと、ユダヤ人にとって最高に祝福された場所という印象を持つ。ヨハネ13章には主イエスの懐にいる弟子の記述がある。「弟子の一人がイエスの胸のところで横になっていた。イエスが愛しておられた弟子である」(ヨハネ13章23節)。主イエスの懐も最高の場所であるが、ユダヤ人が「アブラハムの懐」と聞くと、これ以上ない祝福の場所という印象を抱くはずである。この物語において「アブラハムの懐」とは、永遠の慰めと祝福のあるところである。その「アブラハムの懐」に御使いたちが連れて行った。ユダヤ人たちは、御使いたちは死んだ人のたましいを神のもとへエスコートする役目を持つと信じていた。へブル1章14節では、御使いは救いを受け継ぐ人々に仕える霊であると言及されている。私たちも死んだら、御使いたちがエスコートしてくれるのだろうか。
では盛大な葬式で送り出された金持ちはどうなっただろうか。「金持ちが、よみ(ハデス)で苦しみながら目を上げると、遠くにアブラハムと、その懐にいるラザロが見えた」(23節)。あっ、あの門前にいたラザロだと。問題は自分の居場所である。「よみ」(ハデス)は、単に死者の行く所を意味しうるが、ここで「苦しみながら」とあるので、神の祝福から切り離された裁きの場所であることはまちがいない。また、ハデスは最後の審判を迎える前の場所であり、金持ちはここハデスで最終的裁きの前味を先取りして味わっていることになる。また「苦しみながら目を上げると、遠くに」とあるので、金持ちのいた世界は、アブラハムとラザロのいる世界より、はるか下の世界のようである。24節後半を見れば、「私はこの炎の中で苦しくてたまりません」とあるので、炎熱で焼ける世界である。主イエスはこの金持ちの話を「金銭を好むパリサイ人たち」を意識して語っているわけだが、パリサイ人たちは主イエスが取税人、罪人、貧しい人、病人に福音を提供しているのを見て軽蔑していた。金好きのパリサイ人たちも悔い改めないなら、この金持ちと同じ運命をたどることになる。そう自覚して聞いていただろうか。
「金持ちは叫んで言った。『父アブラハムよ、私をあわれんでラザロをお送りください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすようにしてください。私はこの炎の中で苦しくてたまりません』」(24節)。この金持ちは死後も自己中心である。生前、ラザロを無視し、ラザロの苦しみを見て見ぬふりをしてきたにもかかわらず、今ここに来て、謝罪のことばを口にするどころか、ラザロを召使のように使おうとしている。このことばを聞いて、ラザロは次のように怒っても良かった。「自分を何様と思っているんだ。あなたはわたしが門前にいるのを見ながら、わたしの苦痛を和らげることは何もせず、犬同様に扱った。犬たちはわたしの傷口をなめてくれた。だがあなたは何をしてくれたと言うのだ。何も助けてくれなかった。あなたはわたしを冷遇した。それなのに今になって、わたしを使い走りさせたいのか。どこまで根性が曲がっているんだ。アブラハム様、この男を徹底的に焼いてください」。だが、ラザロは怒りを爆発させたとは書いていない。それどころか、何もことばを発していない。積年の恨みを晴らさずにはおくべきかという様子はない。ただアブラハムの懐で穏やかにしているという印象である。自分と金持ちの逆転現象を目の当たりにして、小躍りして喜ぶ様子もない。ただ、ただ、アブラハムの懐で安らかにしているという印象である。これがまたいい。
さて、アブラハムは金持ちの願いに、どのように応答しただろうか。「するとアブラハムは言った。『子よ、思い出しなさい。おまえは生きている間、良いものを受け、ラザロは生きている間、悪いものを受けた。しかし今は、彼はここで慰められ、おまえは苦しみもだえている。そればかりか、私たちとおまえたちの間には大きな淵がある。ここからおまえたちのところへ渡ろうとしても渡れず、そこから私たちのところへ越えて来ることもできない。』」(25,26節)。前半の印象として、アブラハムは金持ちに対して、あなたは今、当然の報いを受けていると告げているようだ。だから、今更何を言うのかというところだろう。ラザロに関して「彼は今、ここで慰められ」とあるが、ある方は金持ちの生前のふるまいに絡めて、次のように指摘している。「『今は慰められている』という重要なフレーズは、ラザロが耐えていたもっとも苦痛に満ちた災いの原因が、富める者から受けた冷遇であったことを強調している」(ケネス・E・ベイリー)。ラザロを冷遇しておきながら、ラザロをこちらに送って、「指先に水を浸して私の舌を冷やすようにしてください」と願うのは虫が良すぎる。
アブラハムはもう一つの問題を指摘している。それは越えられない「大きな淵」があるということである。この地上は、島流しといっても、そこは渡れない世界ではない。今は舟だけでなく飛行機でも渡れる。長いつり橋でも架けることができる。だが、死後は渡れない世界となっている。つまり、ラザロと金持ちは、永遠的に決定的に分かれたということである。死後にも救いのチャンスがあるなどと思ってはならない。また、天国にいる人に来てもらって、冷やしてもらったりマッサージしてもらったりといったサービスをお願いすることなどできない。
ラザロに来てもらって舌を冷やしてもらうのをあきらめた金持ちは、今度は何を願っただろうか。「金持ちは言った。『父よ。それではお願いですから、ラザロを私の家族に送ってください。私には兄弟が五人いますが、彼らまでこんなに苦しい場所に来ることがないように、彼らに警告して下さい』」(27,28節)。ラザロがこちらに渡れないなら、今度は地上に遣わして、わたしの兄弟の家へ送ってください、というわけである。死んだ人が直接現れて警告を与えたら効果があると判断したわけである。夢枕に立つとか、幻のうちに現れるとか、実際生き返って語り出すとか。これは相当効くだろうと。
だがこの願いもアブラハムははねつける。それは大きな淵を渡るのと同じで、できないということではなく、できるかもしれないが、そんなことをして驚きはしても、悔い改めはしないということである(29~31節)。アブラハムの主張は「モーセと預言者」に聞くべきだということである。「彼らにはモーセと預言者がいる。その言うことを聞くがよい」(29節)。「モーセと預言者」とは16節にある「律法と預言者」と同じことで、いわば聖書の御教えのことである。神さまは聖書を通して神の教えを知り、悔い改めるように図っておられる。死に対する備えは聖書を聞くだけで十分なのである。もし、聖書に聞こうとしないのなら、何をやっても無駄ということである。
29節で、「読む」ではなくて「聞く」とあるが、当時、旧約聖書は印刷物で読む時代ではない。当時は、会堂に出かけ、羊皮紙に記されている神のことばを聞く時代である。一世紀、読み書きできる人は人口の3パーセントから10パーセントしかいなかった。聞くことが中心だった。しかも聞くことは従うことということが大切にされていた時代である。彼らの文化圏において「聞く」ことは「聞き従う」を意味していた。
「金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ。もし、死んだ者たちの中から、だれかが彼らのところに行けば、彼らは悔い改めるでしょう』」(30節)と、なお食い下がる。考えてみよう。悔い改めを口にした金持ちは悔い改めたのだろうか。よくよく考えて見ると、今、金持ちのはるか上に、アブラハムの懐にいるラザロがいて、それを見ている。金持ちに対して死んだラザロが現れたのである。いや父祖のアブラハムさえ現れたのである。けれども、この金持ちが悔い改めたという暗示はない。ただ、こんなところに来てしまってと後悔するだけで、悔い改めはせず、使い走りのサービスを要求するばかりである。モーセと預言者に聞こうとしないのなら、確かに何をしても無駄である。金持ちがその見本である。「アブラハムは彼に言った。『モーセと預言者たちに耳を傾けないのなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」(31節)。
こうして、この金持ちの要求は何も応えられず、ハデスで苦しみにあえぐほかはなかった。考えて見れば、この金持ちは生前、聖書に聞く機会はいくらでもあっただろう。だが彼は聖書に耳を傾けようとはせず、神さまそっちのけで、富を追求することに熱心で、ぜいたくに遊び暮らしていた。16章で主イエスが教えたのは富の正しい用い方、財産の管理の仕方であったが、彼はゆだねられた財産を正しく管理して神に忠実な管理人であることができず、無為に出費を重ね、神と人とのために用いることができなかった。その象徴がラザロに対する冷遇である。
この金持ちは神の存在を承認していただろう。神の存在を知ってはいた。しかし、知っていたというだけではアブラハムの懐には行けなかった。彼は30節で悔い改めを口にしているが、彼は生前、悔い改める機会を逃した。もう後はどうにもならない。立派な葬式を出してもらっても、それは茶番劇となってしまった。その頃、すでに、炎の中で苦しみもだえるばかりであった。葬式で「あなた様はアブラハムの懐でお休みでしょう」などと慰めのことばを述べられても、哀れな現実は揺るがない。アブラハムとは決定的に違う場所にいた。
ということで、私たちはこの地上の人生において、悔い改めとキリストに聞き従うことに真剣に向き合う必要がある。死んだ後に後悔しても、すでに遅し、なのである。今日の講話の登場人物は、金持ちと貧乏人ラザロで、境遇としては余りに対照的な二人であった。私たちは、どちらかの生涯を選ばねばならないという場合、ラザロを選ぶ決断をしたいと思う。ラザロは物乞いをせざるをえない貧乏人で、何らかの病気、障がいを抱えていたことは事実である。けれども、彼がアブラハムの懐に招かれたということは、彼にはいつからか純粋な信仰が宿っていたということである。そしてアブラハムの懐に招かれた、そこに連れて行かれたということにおいて、彼は正真正銘、「神に助けられた人」であったことがわかる。何か、ちょっとした挫折体験があると、神は助けてくれないと愚痴りたくなる私たちだが、せっかちに判断しないようにしよう。神は助けてくださるお方なのである。ラザロは「神に助けられた人」なのである。彼は永遠の祝福に与ったのである。最高の祝福に与ったのである。
最後に、バッハの有名なヨハネ受難曲の最終曲であるコラール(讃美歌)の歌詞を紹介して終わろう。「アブラハムの懐に連れて行ってください」という、キリストへの祈りのことばである。
ああ、主よ。どうかあなたの愛する御使いに命じ、最期の時に私のたましいを
アブラハムの懐に運ばせてください。
このからだをその臥所で、苦しみも痛みもなく安らかに、
最後の審判の日まで休ませてください!
その日に、私を死の眠りから覚ましてください。
私の目は喜びに満たされ、あなたの御姿を仰ぎ見て、
喜びに満たされますように。
おお、神の子よ、私の救い主、恵みの御座よ!
主イエス・キリストよ、私の願いを聞いてください。
私はとこしえにあなたをほめたたえます!

