本日の箇所は、主イエスに敵対していたパリサイ人たちの過ちが集中して取り上げられている。主イエスのメッセージの対象にパリサイ人たちが置かれているというのは、15章からである。15章2節では、「すると、パリサイ人たち、律法学者たちが、『この人は罪人たちを受け入れて、一緒に食事をしている』と文句を言った」とあり、それを意識して、主イエスは15章において、パリサイ人たちが嫌っていた罪人たちは神の目にはどんなに大切な存在であるのかを語っていかれた。後半の「放蕩息子のたとえ」は有名である。16章に入ると、今度は主に弟子たちを対象に「不正な管理人のたとえ」を話し始められた。主イエスはそこで、富への姿勢、富の管理の仕方を教えられた。この時、パリサイ人たちも聞いていた。最後の締めのことばは、「どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません」(13節)。パリサイ人たちは、このことばに反応することになる。

「金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、あざ笑っていた」(14節)。「金銭を好む」とあるが、金銭が嫌いという人はいるだろうか。目の前に害虫と金銭を並べられて、害虫のほうが好き、という人はまれだろう。「金銭を好む」を理解するために、参照となるのが第一テモテ6章10節である。「金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです」。実は「金銭を好む」と同じことばが、こちらでは「金銭を愛する」と訳されている。このことばは金銭欲に関係することばで、「お金に執着する」という意味のことばである。お金に執着するということは悪いということである。お金そのものが良いか悪いかではなく、執着するその態度が悪いということである。

これからパリサイ人の過ちを三つ見ていきたいと思うが、パリサイ人の過ちの第一は、今触れたように、お金に対する執着ということである。お金に対する執着は、しばし、マモン崇拝と呼ばれる。「マモン」とは13節の「富」の原語である。パリサイ人たちはマモン崇拝をしていたということになる。大抵のユダヤ人は、お金がたくさんあることが神の祝福のしるしの一つで、貧乏は祝福のないしるしであるかのように思っていた。しかし、実際はそうではないことは、19節以下の「金持ちと貧乏人のたとえ」で明らかにされることになる。神さまは、お金があるかないかではなく、心の態度で推し量られる方である。パリサイ人たちは、そうした心の態度については無頓着であった。驚くのは、彼らには反省する気持ちはなく、「イエスをあざ笑っていた」という記述である。「あざ笑う」の直訳は「鼻を上に向ける」となり、鼻先でせせら笑うという態度である。「ふん、何言ってんだい」とあざける態度である。このような態度が取れてしまうというのは、マモン崇拝にどっぷり浸かっていたことの証拠である。

パリサイ人の過ちの第二は、偽善である。「イエスは彼らに言われた。『あなたがたは、人々の前で自分を正しいとするが、神はあなたがたの心をご存じです。人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです』」(15節)。彼らは「人々の前では自分を正しいとする」、つまり、人前で義人を装う、うわべを繕う。「しかし、神はあなたがたの心をご存じです」と、そこにあるのは、金銭欲であったり、神ではなく自分の栄えを願う心だったり、傲慢さであったり。神は彼らのうわべの下にある中身、すなわち彼らの腐った心をご存じであられた。神が彼らを評価してないことは、「人々の間で尊ばれるものは、神の前では忌み嫌われるものなのです」の「忌み嫌われる」ということばからわかる。このことばは害虫を嫌うような強いことばが使われている。パリサイ人たちの心はどす黒く病んでいた。しかし、自分でそれを認めようともせず、うわべを繕っていた。自分は正しいと。りっぱであると。一見美味しそうに見えて、中身は腐っている虫食いりんごのようなものである。

パリサイ人の過ちの第三は、律法解釈の間違いである(16~18節)。神の律法自体に誤りはない。彼らの律法の解釈が誤っている。彼らは「口伝律法」を持っていた。口伝律法とは、口伝えに伝わった律法ということだが、口伝律法とはいわゆる神の啓示によって書かれた律法の解説である。口伝律法とは、書かれた律法を実際に守るということはこういうことである、という解説である。書かれた律法を生活にどう適用するかを教えるものである。ユダヤ教の考え方として、書かれた律法は口伝律法によって完成され、成就されるということがあるので、口伝律法が非常に重んじられ、口伝律法は神のことば同様のものとされた。ところが所詮、口伝律法は人間の解釈なので、愚かしい戒めが生み出されてしまった。例えば、13,14章にあったように、安息日に人をいやすのは仕事とみなされるから禁止というもの。こうしたことにより、律法の精神である「神を愛し隣人を愛する」ということが、廃棄されることになってしまった。彼らは具体的に口伝律法の613の戒めを守ることに神経を注いでいた。それらの先祖たち作った規則を守ることで、自分たちは正しい者、神に対して忠実な者と思い込んでいた。それはただの形式主義であった。中身のないかぶのようなものである。

主イエスはまず、次のことばで始める。「律法と預言者はヨハネまでです。それ以来、神の国の福音が宣べ伝えられ、だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています」(16節)。「ヨハネ」とは主イエスより半年早く生まれたバプテスマのヨハネのことである。彼は旧約時代の最後の預言者となった。キリストが公に登場した新約時代の初めに、地上から姿を消した。それは旧約時代の終わりを意味した。「律法と預言者」で旧約時代の教えを意味しているが、そこには神の戒め、指示、キリスト預言が含まれている。「律法と預言者はヨハネまでです」というのは、それらは廃棄処分でいいということではない。それらはキリストによって成就したということである。律法と預言者のゴールはキリストであるということである。「律法」は、旧約聖書では創世記から申命記までのモーセ五書を指すが、律法の役目の一つとして罪を指し示すということがある。それがキリストを罪からの救い主として受け入れさせる働きをする。また律法はキリストの姿を映し出している。律法は道徳律法、祭儀律法という分け方もされるが、道徳律法を完全に守られたお方がキリストである。そして祭儀律法である犠牲をささげる規定、祭りの規定といったものは、キリストを表す影となっている。そして今、本体であるキリストが出現した。「預言者」とは、旧約聖書ではヨシュア記から旧約聖書最後の書であるマラキ書までのことを指す。実は、預言者の書だけではなく律法の書にもキリスト預言が散りばめられている。キリストは預言通りに出現し、その働きを進められた。律法も預言者も「神の国の福音」、すなわちキリストの福音の備えとなっている。

主イエスが16節で強調したいことは、律法の専門家ぶって、律法のことが何もわからず、律法のゴールであるメシアを目の前にしているにもかかわらず、あざ笑っているだけのパリサイ人たちに対して、「新しい時代が幕開けしたのだ。わたしが律法と預言者のゴールであるメシアであり、神の国の王であり、わたしを信じる者に救いがある。それが実現している」ということである。「だれもが力ずくで、そこに入ろうとしています」を説明しておこう。旧約時代が終わって以来、新約時代になって、キリストによって神の国の福音が宣べ伝えられ始めた。旧約時代と違って、今は「だれもが」、だれもかれも、激しく攻め入るようにして、神の国に入ろうとしている時代となった。イスラエル民族だけがと言わず、民族、人種問わず、はたまた、どんな職業だとか、富んでいるとか貧しいとか、律法を守ってきたとか、そういうことは関係なく、ただ悔い改めとキリストを信じる信仰によって救われる時代がやってきた。だれにでも神の国の扉は開かれている。罪人、取税人と言われる人たちにも、遊女にさえも神の国の扉は開かれている。実際、そういう人たちが入りたいという熱意をもって押しかけて来た。キリストはやがて十字架上において、一人の強盗にさえ、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」と、救いを約束することになる。

パリサイ人たちは、彼らから見れば、律法を守っていない不埒なやつらとしか見えない者たちを主イエスが受け入れているのを見て、イエスという男は律法をこけにしている、無視している、またイエス自体が律法を守っていない、と腹立だしい思いで見ていただろう。だが、実際はそうではない。主イエスは律法のゴールであり完成者として、律法を完全に守っていた。彼らこそが律法を守らない者たちだった。彼らは先祖たちが作った規則、口伝律法にこだわっていただけの者たちだった。彼らがしていたマモン崇拝は、モーセの十戒で禁じられていた偶像崇拝の一種にすぎない。

主イエスは続いて、ご自身が律法を尊んでいることを話される。律法はもう必要ないとか思っていないと。律法の価値を認めていると。「しかし、律法の一画が落ちるよりも、天地が滅びるほうが易しいです」(17節)。主イエスは聖書に絶対的価値を認めている。律法の字の一画という細部まで永遠の神のことばとして大切に思っておられる。このような表明を聞くと、私たちの聖書に対する態度は正される。私たちは聖書に対して、天地にあるすべてのものにまさる価値を与えているかどうか問い直してみなければならない。聖書に神の権威を本当に認めているのかと自省してみなければならない。また聖書解釈においては、どんな解釈も有りではなく、神を恐れる心から細心の注意を払わなければならないと知る。

主イエスは18節で、当時の律法解釈の誤りに踏み込んでいる。18節はその代表例である。内容は、離婚、再婚に関する律法である。「だれでも妻を離縁して別の女と結婚する者は、姦淫を犯すことになり、夫から離縁された女と結婚する者も、姦淫を犯すことになります」。当時の男性は簡単に女性をポイして、また他の女性をポンと自分のものにすることができた。それを可能にしていたのが、律法ではなく、律法解釈の誤りである。離婚の律法は申命記24章1節にある。「人が妻をめとり夫となった後で、もし、妻に何か恥ずべきことを見つけたために気に入らなくなり、離縁状を書いてその女の手に渡し、彼女を家から去らせ」。離婚が許されるのは「恥ずべきこと」を見つけた場合。この「恥ずべきこと」の解釈を巡り、結局は男の身勝手を許し、どんな理由でも離婚可能にしてしまった。口の利き方が悪い、料理をこがした、気が利かない。ユダヤ教のある学派は、好まなくなったならばいつでも離縁できるかのように教えた。こうして結婚の意義を骨抜きにしてしまっていた。あとで見るが、結婚とは「一体となる」ということで、強力接着剤で一つとなってしまうような関係なのだが、くっついたり離れたりということがいとも簡単にできる、着脱可能な関係にしてしまった。こうして泣きを見る女性が続出した。女性の側の言い分、権利などは認められない世界だった。参照箇所のマタイ5章32節を見ると、主イエスは離婚が許される「恥ずべきこと」を、「淫らな行い」と定義していることがわかる。主イエスは離婚が許されるのは「淫らな行いだけだよ」と言って、女性を守ろうとしている。男の身勝手を許さない。日本では法律において、男女を対等の立場において、いわゆる「淫らな行い」に該当する「不貞行為」をはじめ、離婚できる理由を様々に定めている。生活費を入れない、看病しないなどの「悪意の遺棄」、「三年以上の生死不明」、「強度の精神病」、その他。こうした理由に該当すると判断されれば、離婚手続きができる。しかしながら、これ以外に、当事者同士の合意があれば離婚できると定めたので、事実上、どんな理由でも離婚可能というのが今の法律である。

こうした離婚の問題を考えるにあたり、そもそも結婚とは何であるのかと、結婚の制定に目を向けることが最も大切なことである。それは律法の最初の書、創世記に記されている。「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである」(創世記2章24節)。結婚を制定されたのは神である。そして、「一体となる」ということが神の制定なのである。一心同体という言い換えもできよう。それは本当に接着して一つになる関係を意味する。接着して一つになったものを剥がすというのは不自然であり、当然、痛みが伴う。それはすべきことではない。離婚は完全に剥がしてしまう行為だが、これが許されるのは、このままでは男女のどちらかに相当の害が及ぶことになるという場合であろう。多大な心理的害、暴力などの肉体的害、多大な家庭問題が引き起こされて、もうどうにもならないという場合であろう。性格の不一致程度で許されることではない。離婚というのは、創世のはじめに神が定められたことではなく、あくまで罪が世界に入った後の暫定処置である。それは、あくまでも人の世界に罪が入った後の処置であって、結婚の制定時に神が定めたことではないことを知っておく必要がある。聖書の結婚の教えを知れば、これから結婚する人も、既婚者も、結婚を安易に考えられなくなる。

18節で目を引くのは、再婚に関して「姦淫」ということばが使われていることである。姦淫の罪というのは、すでに結婚している男女のいずれかが、別の男女と関係を持つことを意味するわけだが、離縁した後の再婚なのに、それが姦淫の罪に問われてしまうというのである。なぜそうなるのかと言うと、自分の身勝手で妻を家から出してしまっても、神の前には結婚関係は継続している、夫婦とみなされている、ということである。離縁状を渡した、協議離婚で離婚届に判を押したと言っても、神の前には結婚関係は継続している。結婚を制定された神の前で再婚が認められるというのは、元の配偶者が死去した時である。再婚は元の配偶者の存命中は認められない。私たちは、社会的に認められることをした、今の時代において認められる行為だったうんぬん以前に、神の前に一人ひとりが立って、自分の行動と決断の判断を仰がなければならない。

主イエスは、律法の本質をいつも大事にして解釈しようとしていたことがわかる。パリサイ人たちは律法を字面で読んで、形だけ守ろうとしていた。定規で測って、その線からはみ出さなければいいというような機械的な守り方をしようとした。また、律法を与えた神のお心はどこにあるのか、どういう意図でこの律法を与えられたのかということに対して思慮が足りなかった。だから、離婚の律法の解釈のように、誤った人間中心の解釈もたくさん生まれていった。

結局は、基本は私たちの神にお仕えする心の姿勢の問題である。先週は、二心ではなく真心から神にお仕えすることを学んだが、本日の箇所の15節においては、「神はあなたがたの心をご存じです」と言われている。ズシッと来ることばである。私たちのほうでは、私たちの心をご存じの神に、自分の心をオープンにする姿勢が求められる。わたしの心はこうですと、風呂敷包みを広げるようにしてオープンにする。何の隠し立てもしない。まずいところも包み隠さずの姿勢である。神の前で自分を作らない。そうして、真実な神との対話をするわけである。フェィス・トゥー・フェイスで。それは自分を裸にするような勇気がいることかもしれないが、真正面から神と相対していきたい。パリサイ人たちは、こうしたことにおいて余計なプライドが邪魔をしていたように思う。そして自分たちの罪も正当化して行った。私たちは祈りとみことばにうちに絶えず神と向き合い、気づきを与えられ、悔い改めるべきところは悔い改め、真心からお仕えすることを心がけていきたいと思う。