前回は、ツァラアトに冒された人に対する主イエスの深いあわれみを見た。今回の物語の特徴は、主イエスの罪を赦す権威にある。今日は、主イエスは罪を赦す権威を持つということを、しっかりと教えられたいと思っている。
物語としては、中風を患っている人を主イエスがいやす場面である。マタイ、マルコの福音書にも記されている物語である。主イエスはこの時、ただ単に中風をいやすということだけではなく、もっと深いいやしをされる。中風という病だが神経麻痺の症状がある病で、この男の場合、完全に歩行不能の状態であった。当時、重い病は、本人の罪の結果、また両親の罪の結果と思われていた。因果応報のようなものである。主イエスはこうした決めつけを受入れてはいない。ヨハネ9章1~3節を見よ。生まれつき全盲の人に対して、弟子たちは、これは本人の罪ですか、両親の罪ですか、と問うた。主イエスはそれを否定した。しかし、また主イエスは、他の箇所を見ると、罪の結果引き起こされる病があることも認めている(ヨハネ5章1~14節「べテスダの池での病人のいやし」)。では、今日の中風の人のいやしをどう受けとめたら良いのか、ということになる。彼の病は、彼の罪が直接もたらしたものという証拠はない。ただ、はっきり言えることは、今日の場面のいやしは、病は罪の結果として引き起こされるとみなし、病のいやしはその人の罪が赦された証拠であるとみなしていたユダヤ教徒たちを意識してのものであるということである。3世紀の文献において、律法学者はこう言っている。「病はその人のすべての罪を神が赦してくださるまではいやされない」。主イエスは、今日の場面で、このことを意識していやしのみわざを行う。
この物語には、主イエスと繰り返し対立することになるパリサイ人と律法学者が登場する(17節)。パリサイ人とはユダヤ教の一派である。彼らは律法の権威ある後継者として知られていた。歴史家ヨセフスは、一世紀頃のパリサイ人は6千人であると証言しているが、数はそれほど多くなくても、民衆への影響力は大きかった。律法学者はほとんどがパリサイ派に属する。律法を厳格に解釈し、教師としてそれを教えた。主イエスは律法学者が律法を形式的に守ることに拘泥し、律法の本質を見失っていることを厳しく非難することになる。パリサイ人と律法学者は、17節後半で、「彼らはガリラヤとユダヤのすべての村々やエルサレムから来ていた」とあるように、主イエスのうわさを聞きつけた彼らは、調査と監視が目的で、イスラエル全土からカペナウムに結集したことがわかる。物々しい雰囲気である。「エルサレムから」ともあるが、「エルサレム」はパリサイ人、律法学者の牙城であったが、本部からも来たというところである。彼らは、主イエスの揚げ足を取る機会を狙っていた。そういう場面設定である。
18節を見ると、主イエスは一軒の家の中にいる。平行箇所を見ると、家の中は人でいっぱいで、戸外にまであふれていたようである。都会の満員電車を思い起こすような光景である。押し屋が必要ではないかと思うくらい、人で溢れかえっていた。主イエスのもとに中風を患っている人を連れて行きたいと思う人たちがいた。18節で「男たち」とあるが、平行箇所を見ると四人の男性である(マルコ2章3節)。前回のツァラアトに冒された人は孤独で絶望的な人物であったが、それでも自分の足で主イエスのみもとに来ることができた(12節)。中風を患っている人の場合は足が立たない。しかし、彼に同情を寄せて助けようとしてくれる人たちがいた。それは幸いだった。
「一念天に通ず」ということわざがある。物事を成し遂げようとする強い信念があれば、それは天に通じ、成し遂げられるというもの。彼らは病人を担架に載せてやってきた。だが、超満員電車のようであった。家の中に運び込むことは無理だった。彼らは溢れかえる大勢の人たちを見て、完全に気後れして、あきらめてしまうこともできたが、そうでなかった。非常手段を取った。屋根の上、すなわち屋上に上って屋根に穴を開けて、担架をつり下ろすという手段である(19節)。
当時の典型的なパレスチナの家は、屋根に上る梯子あるいは梯子段がついていた。屋根はフラットである。そこに上って、洗濯物を乾かしたり、食べたりした。使徒の働き10章9節を見ると、ここが祈りの場になっていることもわかる。屋根ははがしやすかった。屋根はたくさんの木ではりを重ねて、そこに泥を塗って造ったというもの。そこに穴を開けた。細かいことを言うと、マルコ2章4節では、「屋根をはがし、穴を開けて」となっているが、ルカ5章19節では「屋上に上って瓦をはがし」となっている。瓦が登場している。この問題を解決するために、ルカの福音書はギリシア人のテオフィロに宛てて執筆されたことから、読者の文化に調和するギリシア風の建物の表現をとったのではとも言われるが、いずれ、私たちが想像するような瓦ではないことは確かである。穴はバリバリと開けやすかったのである。イエスさまの頭上には土埃が舞ったのではないだろうか。天井に穴を開けられたこの家の主人がどう反応したかは書いていない。こぶし一個大の穴ではない。かなり大きかったはずである。もうそれは、穴というよりも天井が抜けた感じである。家の主人はどう思ったのだろうか。イエスさまの働きのためなら、病人のためならと、心の広い人であったのではないかと想像する。もちろん、この事件のあと、補修をしたはずである。この物語の場所は、平行箇所のマルコ2章1節を見れば、ペテロの地元のカペナウムであることがわかる。この家はペテロの家であった可能性もゼロではない。同じく平行箇所のマタイ9章1節を見れば、主イエスにとってこの町が「自分の町」と表現されているので、屋根に穴を開けられたこのカペナウムの家に、主イエスは長らく滞在していたのかもしれない。
「イエスは彼らの信仰を見て、『友よ、あなたの罪は赦された』と言われた」(20節)。色々な意味で、実に不思議な宣言である。病のいやしを願って吊り下ろしたのに、主イエスが真っ先にしたのは、罪の赦しの宣言である。次に、その赦しの宣言は、「彼らの信仰を見て」と、四人の男たちの信仰ゆえであるということである。この四人の男性がどのような人たちで、主イエスをどこまでどう理解していたかはわからない。しかし、主イエスが「信仰」とおっしゃっているので、主イエスに対する完全な知識はなくとも、主イエスを全く信頼していたことはまちがいない。「彼らの信仰」に中風の人は入っていたのかどうかと論じられることがある。判断は難しい。しかしながら、中風の人は、担架に載せられて連れていかれたくないと抵抗したとか、俺はイエスにいやされたくないんだと主張していたとか、そういうことではなかっただろう。同意あってのことであると思う。そうでなければ、罪が赦されるという祝福が本人に及ぶことはないはずである。
彼は「友よ、あなたの罪は赦された」と宣言されなければならないほどに、罪の問題を抱え、本人もそれを強く意識していたと思う。「神さま、罪人の私をあわれんでください」と。現代では、罪から来るストレス(憎しみその他の否定的な感情)が病を引き起こすことがわかっている。自堕落な生活から来る不摂生も病の原因となる。彼の病のメカニズムがどういうものであったのか正確にはわからないが、主イエスは彼の罪の問題を重大視していたことはまちがいない。
さて、しあわせな流れだけで終わると思いきや、主イエスを敵視していた律法学者、パリサイ人たちが心の中でいちゃもんをつけるという設定になっている。「ところが、律法学者たち、パリサイ人たちはあれこれ考え始めた。『神への冒瀆を口にするこの人は、いったい何者だ。神おひとりのほかに、誰が罪を赦すことができるだろうか。』」(21節)。彼らは間違ったことを考えてはいなかった。「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができるだろうか」というのは正論である。罪を赦す権威は神のみが持つ。これは正しい。この点を、今の現代人は忘れている。20世紀に入ってから、自分で自分を許しましょう、というメッセージを、よく見聞きするようになった。ある意味、正しいことではある。「今はダイエットに励んでいるけれども、今日は私の誕生日だから、今日ぐらい甘いものを食べるのは許そう」、そういったことならかわいい。また、「神さまが赦してくださったのだから、自分を赦さなければならない」、そうしたことであったらいい。そういうことではなく、現代の心理学は、人は生まれながら善という性善説に立ち、さばかれなければならない罪という概念さえはく奪し、自分で自分を許すことを奨励している。そのような書物がたくさん出回っている。先日も、某待合室に置いてあった幸せを提供する本を手にしてめくってみると、「自分を許してあげましょう」と書いてあった。その人間観は、人は生まれながら善人で裁かれなければならない罪はない、である。罪悪感がある時、自分で自分を許すというのは、一種の気休めになるかもしれないが、それ以上ではない。私たち人間は誰しもが、神からの罪の赦しの宣言を必要としている。何が善で何が罪であるのかを定める権威があるのは神であり、その罪を赦す権威を持っておられるお方も神である。私たちは、この神さまに罪を赦されて、はじめて平安と救いが訪れる。
この場合、律法学者とパリサイ人たちがいちゃもんをつけているというのは、「イエス、おまえは神ではないだろう。神ではないくせに、罪の赦しの宣言をするな」ということである。それを受けての23節の主イエスのことばに注目しよう。「『あなたの罪は赦された』と言うのと、『起きて歩け』と言うのと、どちらが易しいか」。どちらがやさしいだろうか。どちらもやさしくはない気がする。あえて、どちらがやさしいかと言えば、言うことがやさしいほうを選ぶわけだから、「あなたの罪が赦された」と言うことのほうがやさしい。「起きて歩け」のほうは、目に見える結果が伴わなければならないわけだから、これを言うことはやさしくない。主イエスはやさしくないほうの「起きて歩け」をこれから命じて言われることになる。しかし、心に留めておきたいことは、罪の赦しというのは、起きて歩くという目に見える結果によって証明されるものであるから、「あなたの罪は赦された」も、容易に言えることではない。
主イエスはご自分が罪を赦す権威をもっていることを知らせるために、口にすることがよりやさしくない命令を下される。「あなたに言う。起きなさい。寝床を担いで、家に帰りなさい」(24節)。すると、その通りになる。25節の「すると彼はすぐに人々の前で立ち上がり」という記述から、これが奇跡的みわざであったとわかる。体が麻痺して寝たきりの人がすぐに立ち上がった。こうして、主イエスが罪の赦しの権威を持つ神であることが証明された。25,26節を見れば、いやされた本人は神をあがめ、周囲の人々も神をあがめた。当の律法学者たちは反論する術を失い、苦々しい顔をしながら立ち去っただろう。この物語ではっきりしたのは、「神おひとりのほかに、だれが罪を赦すことができようか」の神とは、イエス・キリストであるということである。
今日のポイントは、主イエス・キリストは、罪を赦す権威を持つ神であるということである。20節に改めて注目してください。「友よ。あなたの罪は赦された」。主イエスは、「わたしは神の名であなたを赦す」とは言っていない。また、「あなたはわたしを怒らせたけれども、あなたを赦す」という対人関係のことで言っているのでもない。主イエスはこれまで全くかかわりもなかった一人の罪人に対して、神としての権威をもって、「あなたの罪は赦された」と赦しを宣言されたのである。罪を赦す権威を持つのは神だけであると信じていた文化にあって、これは度肝を抜く宣言だったのである。
「赦し」は負債を免除するという意味があることばである。主イエスは罪の負債の免除を実行力のあるものとするために、十字架に向かわれることになる。私たちの罪の負債を帳消しにするためのみわざである。主イエスは十字架の上で、ご自身のいのちと引き換えにして、私たちの罪の負債をすべてを支払ってくださった。それは完全な赦しのみわざである。イエスさまの側からすれば、もうこれ以上わたしに何をしろというのかと言いたくなる完全なみわざだったのである。私たち人間は誰しも、罪の赦しを求めて、主イエス・キリストのもとに行かなければならない。そして、「友よ。あなたの罪は赦された」という宣言を聞くことができる。
クリスチャンになってからも、罪の赦しの確信がなくて、過去犯した何十年も前のあの罪この罪に呪縛されて、もんもんと過ごしてしまうことがある。その人は、「あなたの罪は赦された」と、主イエスの権威ある宣言を聞きなおしていただきたい。ある場合は、意識の下深くに自分の罪を閉じ込め、それを認めようとしてこなかったために、そのつけで心が苦しくなって、夢でもうなされるということがある。その罪は罪として認めて、正直に主の前に告白するのである。ある場合は、急ぎ足で、駆け足で、前のめりで、つんのめって告白したために、赦しの確信が持てないということがある。そういう場合は、落ち着いて、一つひとつを主の前に差し出すことによって、赦された平安をいただくことができる。この罪の赦しが、健康や生活の安定以前に、人間の幸せのためにもっとも必要なものである。私たちも、そう思っているだろうか。ならば、その時々、罪の赦しを求めて、主の前に出て行こう。
今日の物語の特徴は、四人の仲間の活躍ということも挙げられる。主イエスの赦しの恵みに他の人たちが与っていただくために、私たちも四人の仲間のようになれるよう努めたい。彼らは家の中も外も人でいっぱいで近づけない中、あきらめないで、方法を見出した。19節で「運び込む方法が見つからなかったので」とある。彼らは、最初は、太郎は神経麻痺で動けないのだから、我々が家に運んであげようという第一段階を踏んだ。そして、運んだのはいいけれど、近づけないとなった。運び込む方法が見つからない。この難問をどう解決するかということで、彼らは許されるだろう限界の範囲のギリギリの方法を見出した。ドラマはその後に生まれた。「一念天に通ず」だった。私たちも、この主のドラマに参与していきたいと思う。

