「返しなさい」と聞くと、貸していたお金がまだ返っていないとか、貸していた本がまだ返っていないとか、思い出した方もおられるかもしれない。またある方は、人に借りたままで、返すのを忘れて家にまだあるものがあるとか、思い出した方もおられるかもしれない。自分には返すものは何もないという方もおられるかもしれないが、今日の箇所で、イエスさまは、すべての人が返さなければならないものについて語っておられる。意外性のある教えである。

今日の教えを背景であるが、イエスさまは、イスラエルの指導者たちが殺害計画を練っていたエルサレムに都入りされた。案の定、敵意を向けられることに(21章23節)。イエスさまはその後、立て続けに三つのたとえ話を語られる。「二人の息子のたとえ」「悪い農夫のたとえ」「結婚披露宴のたとえ」。イエスさまはこれらすべてのたとえの中で、彼らを悪者に仕立て上げてしまう。前回は「結婚披露宴のたとえ」(22章1~14節)からご一緒に見たが、その中で彼らは王に滅ぼされる悪い客になぞらえられてしまっている。悪者にされたと気づいた彼らは、ますますおもしろくなくなってしまった。そこで、キリストを非難する口実を作るために、策を練り、罠を仕掛けてきた(15,16節前半)。

イエスさまに面と向かって敵対してきた中心的存在は「パリサイ人たち」だが、彼らは「ヘロデ党」の者たちにも手伝わせて、ことばの罠を仕掛けてきた。「パリサイ人」と「ヘロデ党」は犬猿の仲のはずなのに、キリストを殺害したいということにおいては一致していた。当時の派閥について説明しておこう。「ヘロデ党」はユダヤの大王ヘロデに由来する。彼は幼子イエスを殺害しようとしたことで有名。先祖はエドム人でユダヤ人ではない。だがユダヤ人の関心を得るため、表面上はユダヤ教に改宗していた。しかし異教的なものを国内に持ち込み、強権政治でユダヤ人たちを苦しめ、ユダヤ人たちにはきわめて評判の悪い王様であった。彼の子どもたちは、ローマ皇帝によって、王から領主に格下げされてしまった。たとえば息子のヘロデ・アンティパスはガリラヤの領主という風に。ヘロデ大王が住んでいたユダヤ地方は、ローマ皇帝直属のローマ総督が治めることになってしまった。「ヘロデ党」は、ヘロデ家の権限を回復し、王を誕生させ、ヘロデ大王時代の政治権力に戻そうとしていた人たち。異邦人ローマの手から独立して、ヘロデ王家のものに!ヘロデ家が王の称号をもらうためには、ローマ帝国に忠義を尽くし、ローマ皇帝、すなわちカイザルに税金をしっかり納め、カイザルに良い印象をもってもらう必要があった。彼らは表面的にはローマ帝国寄りだった。

もっとローマ帝国寄りの存在は、23節に登場する「サドカイ人」。祭司階級がこのサドカイ派であったが、彼らはローマ帝国の権力の庇護のもとで自分たちの地位を保とうとした祭司的貴族階級。ヘロデ党とサドカイ派は、ローマ側から見れば、見た目は「与党」に入るという立場。

半ローマ勢力の一つは「熱心党」(10章4節)。相手がローマ帝国であれ、ヘロデ家であれ、神に反逆するような異分子をことごとく排除しようとした。彼らはローマ帝国に税金を納めることには反対だった。ローマ帝国からの独立を勝ち取るためには手段も選ばずというようなところがある危険分子であった。今で言うテロリスト的存在。

熱心党ほどではないが、ローマ帝国に反感を抱き、ローマ帝国やヘロデ領主に税金を納めることを潔しとしない人たちがいた。15節の「パリサイ人」である。彼らはローマ帝国からの独立を願っていた。パリサイ派も過去においてローマの反逆分子として、多くの人が処刑されたことがある。このパリサイ派と熱心党が「野党」ということになろう。

この場面で手を組んでいるのがパリサイ派とヘロデ党。性質が違う両者で、普段は仲が悪い。ローマ帝国に対する態度が反対だった。野党と与党という関係。でも、この時は、敵は同じイエスということで手を組んだ。ということは、イエスさまは、どの党派からも嫌われていたということである。パリサイ人たちは、自分たちの聖書解釈と生活態度を否定するイエスが許せない。イエスをメシヤだと認めたくもない。ヘロデ党においては、ヘロデ家から王が輩出されることを望んでいたので、イエスさまが王になってしまったら大変困るわけである。

この時、パリサイ人たちが、イエスさまを罠にはめるのに、わざわざヘロデ党に話を持ちかけ、ヘロデ党に話をさせたのはわかる気がする(16節前半)。ヘロデ党はカイザルに税金を納めるのを賛成する立場。おそらく彼らは、キリストは納税に反対する可能性が高いと考えていたに違いない。納税反対を意思表示すると、ローマへの反逆罪で訴えることができる。それがイエスさまを地上から消し去る近道である。ヘロデ党にとっては、イエスさまに王になってもらっては困るので、この役回りを断る理由はない。イエスさまはローマの手からイスラエルを奪回し、王になるとうわさされていた人物である。

しかし、イエスさまがローマに税金を納める選択をする可能性も否定できない。パリサイ人たちは、イエスさまがローマに税金を納める意思表示をしたとしても、それはそれで非難できることを知って策略を仕組んだ。

では罠にはめる質問について詳しく見てみよう。「税金をカイザルに納めることは律法にかなっていることでしょうか。かなっていないことでしょうか」(17節)。イエスさまが「税金をカイザルに納めることは律法にかなっていない」と答えたら、「ローマ帝国の法に逆らう犯罪人、皇帝に反逆する者だ」とローマ側に訴えることができる。うまく行けば裁判にかけてもらって、投獄か死刑に処してもらうことができる。反対に、「税金をカイザルに納めることは律法にかなっている」と答えてしまえば、パリサイ人ばかりではなく、ローマの手からイスラエルを救ってくれることを願っている民衆から大ブーイングが起きて、イエスさまの人気はガタ落ちになる。「ローマ皇帝にかしずくなんて神への忠誠を捨てる者だ。イエスはローマを擁護している。我らの味方ではない。神が遣わした者ではない。除き去れ」。こうして落選させることができる。

イエスさまは、この悪意に満ちた質問には引っかからない。そして、逆に、彼らを困惑させるものを使って、正当な答えを出す。彼らを困惑させるものとは「デナリ銀貨」である(18節~21節前半)。「デナリを一枚」(19節)とあるが、それは一日分の労賃に相当した(20章2節)。一日一デナリということで、つまり、ワンコインで支払が済む。一日の終わりに主人は一枚をパッと渡せばそれで済んだ。非常に便利。だからこの銀貨はたくさん流通した。多くの人の財布に、この銀貨が入っていた。

当時の銀貨には、表にも裏にも「肖像と銘」が刻んであった(20節)。表にはカイザルの横顔の肖像、そして「神とされたアウグストの子、うんぬん」の銘が顔の周囲に刻んであった。裏にはカイザルの母親の肖像があり、彼女は女神パクスの化身とされていた。そして「大祭司」の銘が刻まれていた。ローマ帝国ではカイザルもカイザルの母親も神とされていた。イスラエル人の中には、ローマ皇帝の肖像をエルサレムに持ち込むぐらいなら、死を選んだほうがましだと考えていた人たちがいたが、硬貨というかたちで、しかも大量に入り込んでしまっていた。この硬貨を憎み、捨てたいと思っていた人たちがいた。気持ちはわかるような気がする。

イエスさまはそこに刻んであるカイザルの肖像と銘を見せて誰のものかと確認させたわけだが、その後のことばが大事である。まずひとつは、「カイザルのものはカイザルに返しなさい」(21節後半)。税金ばかりむしり取っていく国家権力に腹立つ国民は多い。「税金を取りすぎ。取り方も公平じゃない。それに税金の無駄使いばかりして、税金で権力者たちは私腹を肥やしている」。この実態は、この時代に実際にあったわけだが、そして国民の不満は大きかったわけではあるが、それはそれとして、私たちは、イエスさまのことばに注意深くありたい。イエスさまはここで「返しなさい」ということばを使っている。税金とは返す種類のものなのであろうか。ヘロデ党の者たちの質問は「税金をカイザルに納めることは」(17節)であった。実は「納める」と訳されていることばの元の意味は「与える、施す」である。しかしイエスさまは「与える」ではなく「返す」ということばをあえて使っている。国に与えるお金なんてないという国民たち。しかしイエスさまは、それは与えるものではなくて返すものだ、と言われている。「返す」ということにおいて、それは「義務である」ということを意味している。「与える」は義務ではない。しかし「返す」とは義務行為である。納税は返済金であって、それはすべての国民の義務である。税金で国民の安全や安寧秩序が保たれる。たとい国家の支配者が憎き敵であり、自分を神とするような人物であっても、税金は義務として返さなければならない。私たちクリスチャンは天を目指し、地上では旅人であっても、地上の政治的秩序、経済的秩序の中で生活させていただいている。発行されている通貨によって具体生活を営んでいる。政府に文句だけ言って、利益だけ受けて、納めたくないなどとやっていたら、神さまは悲しむだけである。税金はすべての国民、市民、町民が支払うべきもの。カエサルの肖像やその銘を見たくなくとも、納めるものは納めなければならない。返さなければならない。国家のアラを探すことは誰にでもできるが、国家への義務を怠る精神をもつことを戒めなければならない。本当に地の塩になりたいなら、社会不参加はだめであるし、社会の義務を怠るのもだめである。もちろん、罪に妥協することはいけない。だが納税は罪ではなく義務である。それは神にある良心をもって納めなければならないものである。「カイザルのものはカイザルに返しなさい」とは、税金の他に、その他の社会的義務に適用できるだろう。社会的義務を果たさない、社会に通用しないクリスチャンは証とならない。「カイザルのものはカイザルに返す」ということも、神の栄光のためである。

イエスさまが言われたもう一つのことは、「そして神のものは神に返しなさい」(21節後半)。私たちは献金をするときに「いただいた一部をお返ししました」と祈ることが良くある。それは今日の箇所からもわかるように、聖書的である。マラキ3章8節では「人は神のものを盗むことができようか。ところがあなたがたは、わたしのものを盗んでいる」という主のことばがある。そして、その神から盗んでいるものとは、「十分の一と奉納物によってである」と言われている。私たちが与えられていると思っているものは、実は神に管理を任され預けられているものにすぎない。私たちは神の財産の管理人。預けられているものであって、自分のものではない。それを捧げ物、献金というかたちでお返しする。お返ししないことは盗みとなる。イエスさまも、神にお返ししなければならないものがある、それを返しなさい、と言われる。ところで、イエスさまのことばは、献金のことだけが言われているのだろうか。神への奉仕のすべてが入ると言っていいかもしれない。神さまへの返し方は色々あるだろう。その際、返すとは義務であるので、「私たちはするべきことをしただけです」というしもべの姿勢がふさわしい。それを誇ったり、自分の功績にしたり、手柄とはしないわけである。

私たちのお返しする動機ということについても考えてみたい。私たちはイエスさまが私たちのためにいのちを献げてくださり、罪と滅びより救っていただいたこと、そしてこれまで神の子どもとして養われ、豊かな恵みをいただいたことなどを覚えて、献金や奉仕でお返しするわけである。神さまが私たちを子どもとして養ってくださっていることについては、マタイ6章31~33節で言われている。私たちは救われただけではなく、確かに神さまによって生かされ、養われている。私たちは何をもってお返ししようかと当然そうなるべきである。

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。神のものは神に返しなさい」を曲解する人たちがいる。物質的なものを地上の王に返し、霊的なもの、精神的なものは神に返すといった二元論的な解釈をすることはまちがっている。かつて、世俗にまみれて物質主義的な生き方をしながら、心は神にあるから大丈夫とうそぶいていた異端的グループがあった。また「カイザルのものはカイザルに返しなさい。神のものは神に返しなさい」とは、次のことでもない。平日は皇帝礼拝をして、日曜の礼拝の時間だけ神を礼拝すればよいのだ。こういう二心の生活のことが言われているわけではない。硬貨に誰の肖像、銘が記されていようと、礼拝の対象はただひとり、生ける唯一の神であって、皇帝、その他の神々ではない。私たちの心もからだも物質も神に献げて、神の国の律法であるみことばに従って歩んで行く。その上で、地上の国民の一員としての社会的義務も果たしていくのである。

「カイザルのものはカイザルに返しなさい。神のものは神に返しなさい」の実例として、最後に、西暦180年にローマで殉教した聖徒たちの証を紹介して終わりたいと思う。幾人かのキリスト教徒たちが、皇帝礼拝をしない、ローマの神々に犠牲を捧げない、そうしたかどで捕えられた。その時、ひとりの者はこう弁明した。「私はこの目で見ることのできない神にのみ仕えています。私は盗みを働いたことはありません。税金も納めています。私は皇帝には皇帝にふさわしい栄誉を捧げておりますが、私が恐れているのは神のみです」。裁判官のローマ総督は、三十日の猶予を与えるから考え直すように進言した。けれども捕えられたキリスト教徒たちは立場を変えなかった。そこで総督はこう判決を下した。「これこれの者たちは、キリスト教徒の習慣に従って生活している旨を告白した。彼らはローマ人の風習に立ち戻る機会が与えられたにもかかわらず、頑迷にその立場を変えなかったので、斬首刑に処す」。その時、刑を宣告されたキリスト教徒たちは、御国を思い、全員が「感謝します」と言ったとのこと。それが彼らの最後のことばだった。彼らは、カイザルのものはカイザルに、神のものは神に返した模範的存在である。

今の時代、自己実現がもてはやされ、自分のものは自分の考えで、自分の好きなように使ってかまわないとか、自分の人生、自分の好きなように生きる、となりがちである。確かに私たちには自由意志が与えられている。しかし、その自由意志は、神のみこころを生き、神に栄光を帰すためにある。今日教えられているみこころは、「カイザルのものはカイザルに返しなさい。神のものは神に返しなさい」である。これは命令である。実践しよう。