今日のテーマは、神を、キリストを絶えず意識することにある。私たち人間は創世記1章26節において、神のかたちに造られた存在であると知る。「神のかたち」という時に、それは「神と人格的に交わる存在」として造られたという意味を読み取ることができる。だから人間は神を忘れ、神と離れて生きる時に、たましいは病み、疲れて来る。

私たち人間は神のかたちに造られた存在として、本能的に神を求めるのだが、長年、神から離れて生きてきたために、神と交わることに慣れていないというところがある。だから、意図的に訓練を課さなければならない。意図的に、神と交わる時間を作らなければならない。

キリスト者の生活にとって欠かせないものにデボーションがある。祈りとみことばの時である。一日の初めに聖書を開いてデボーションをもつことが推奨される。私は、このデボーションはしばらくの間、気の進まない苦手な勉強と一緒にしているところがあった。聖書を読まなければならない、祈らなければならない。何か義務的に感じていた。ところがある本を読んで考え方が変わった。その本から、デボーションは苦手な勉強やスポーツをすることと同じなのではなく、愛の神との交わりなのだと教えられた。神は愛、キリストは愛。エペソ3章18~19節では、キリストの愛は人知を越えていることが言われている。愛の神との交わりが苦痛なことがあるだろうか。それが分かってから、デボーションは喜びの時と変わって行った。デボーションで、聖書のみことばから、愛の神の御声を聞く。それで心を満たしていく。そしてみことばに基づいて応答の祈りをささげるわけである。この人格的交わりを通して、神の愛、キリストの愛を体感し、その愛の広さ、長さ、高さ、深さを味わい知り、さらにキリストを知る者へと変えられ、成長していく。夜は休む前に、一日を振り返って感謝をささげ、また気づいた罪は悔い改め、そして明日のことをゆだねる祈りをして床に就く。以上のことが基本としてあるわけだが、それで十分というわけではない。今朝は神の臨在を絶えず求めること、キリストを絶えず意識すること、キリストを絶えず見つめていくことを、共に考えたい。

私たちは現在、煩雑なことが多い地上に生きている。罪の誘惑もある。心はあちらこちらに分散されそうになる。不完全なからだが心にも影響して、心は浮き沈みもする。神との交わりをうとんじてしまうことも起きてくる。そしてなぜだかわからないが、神が遠くに感じてしまうことも起きて来る。

有名な聖徒たちの祈りに関する文章を読むと、祈っても何も暖かい感情を感じない、無味乾燥と暗やみそこにある、といった告白を目にすることがある。たましいの不毛の季節が自分にやってきたのか。神が近くに感じられない。詩編を読むと、ダビデも同じような体験をしたことがわかる。自分の罪をうやむやにしていたことに原因があったこともあったが、理由がわからない場合もあった。

ある人は、書物を作るために何千人もの聖徒を研究してきたそうである。彼らのほとんどが、より困難が増していく坂を上ったという。時には見捨てられたという感覚をもち、臨在感が色あせることがあった。ある人はこの体験を次のように語る。「私は、子どもじみた信仰から、自分も他の人々を助けることができると感じる地点へと霊的に成長を遂げつつあったとき、ちょうどこの見捨てられたような感覚を味わった。突然、暗やみが下りたのである。丸一年間、私の祈りは行先がないように思えた。神が聞いておられるという確信が全くなかった」。しかし、彼は言う。「今振り返ると、その不在の時期は重要な成長の時だったと思う。ある面で、以前にもまして真剣に神を求めたからである」。私も、高名な信仰者たちが神が遠くに感じて苦しむ話を読んで、最初は、なぜこんなことが起きるのか、と思ったことがあったが、今は、必要な訓練の一つであると思っている。同じ体験をしたあるキリスト者は、自分の現在の霊性、力、それらが自分のものであるかのように勘違いすることがないように、高ぶることがないように、神は身を隠していると思わせることがあることを述べておられた。その状態において、人は神を真剣に求めることになる。たましいの荒野の状態において私たちにできることは、根をさらに深く張るということである。ちょうど、砂漠に植えられている木が水を求めて、下へ下へと根を張っていくように。

神は、その信仰段階にふさわしい訓練を私たちに課せられる。皆さんが信じたばかりの頃と、現在を比較されたいい。信じたばかりの頃は喜びに満ちていたという話を良く聞くが、その喜びは多くの場合、神の優しさに起因するだろう。J.I.パッカーは述べる。「神は、非常に若いクリスチャンに対しては、あたかも母親が生まれたばかりの乳飲み子に対するように、極めてやさしくされることは事実です。目覚ましい摂理の働きと、驚くべき祈りの答えと、彼らの最初のわざに対する直接的な結果が見られます。このようにして、神は彼らを励まし、彼らのいのちを確立させてくださるのです。しかし、彼らが成長してより強くなり、もっと耐えることができるようになると、神はもっと厳しい学校で訓練されます」。自分の過去の信仰生活を振り返っても、そうだなぁと思わせられる。祈りがあざやかに聞かれた、すてきな信仰の冒険だ。だが、だんだん越える山は高くなり、沼地の中でもがき、今度は密林に入ってしまってなかなか前に進めないといったことが起きて来たかと思えば、どこまで行ってもグレーのような荒野で足取りが重くなるというようなことが起きて来る。イスラエルの民は、エジプトで数々の奇跡を間の当たりにし、紅海が真っ二つに分かれ、救出されるという驚くべき神のみわざを体験する。けれども、その後、荒野での訓練が待っていたわけである。

新約聖書を注意深く読むと、その訓練はキリストご自身にもあった。キリストは私たちの模範としてバプテスマを受けられた時、天から御父の声があった。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」。その後のキリストの生活が安楽なものであっただろうか。いや、御父はキリストを荒野に追いやられた。そこで悪魔の試みにも会われた。荒野は、公生涯をスタートする前に、必要な訓練の期間であった。

荒野というのは、これまで以上に自覚的に祈らなければならない環境である。また祈りに向かう環境である。私たちは今、実際の荒野にはいないが、心の荒野性と言おうか、心に無味乾燥を覚えてしまうことがある。だが神に向かう努力をあきらめてはならない。根を深く張るのである。荒野の環境、心の荒野性というのは、神の愛の訓練のしるしである。そこで私たちは、神を求め、神のかけがえのなさをあらためて知り、よりはっきりと神を知るようになる。

目に見えるところの神の訓練の形態は、一人一人、驚くほど異なる。他人と比較してもどうにもならない世界である。どうして自分にはこうなのかと言っても、始まらない世界である。ただ、神の愛を疑わないことが肝要であるし、神を慕い求め続けなければならない。

私たちを神に向かわなくしてしまう要因として、私たちはこの地上で条件付きの愛にならされてしまっているがために、神の無条件の愛を受けとめていないことが挙げられる。神が自分にとって、ただの冷徹な父のように感じ取ってしまっている。だから神に向かうことも、近づくことも、おっくうになってしまう。その人は自分から神に対して、ある一定の距離を無意識のうちに保ってしまう。だが、神が私たち一人一人をどのように見ておられるのか、愛しておられるのかを知ったならば変わってくるはずである。

ある女性の次の体験と気づきはすばらしいものがある。「この前の春の朝、空港の出発ゲートで、赤ちゃんを連れた若い夫婦に気がついた。赤ちゃんは一生懸命人々を見つめていたが、誰であろうと、人の顔を見ると大きな喜びを表した。若者にもお年寄りにも、きれいな人にもみにくい人にも、退屈そうな人、幸せそうな人、心配そうな人にも。それは素敵なながめだった。このつまらない出発ゲートが天国のゲートになっていた。そしてその赤ちゃんが誰彼なく、相手をしてくれる大人と遊んでいる様子を見ているうちに、私はヤコブと同じく畏怖の念に打たれたように感じたのである。神もこんなふうに私たちを見ておられることに気づいたからだ。・・・こんなふうに見ることができるのは、十分に愛されている赤ちゃんと、神だけではないだろうか」。

無条件の愛をもつ神の御顔は、すべての人に向けられる。その愛のまなざしは、収税人、罪人に注がれたキリストの愛のまなざしを思い浮かべると良い。私たちは誰しもが、神の愛に憩い、キリストとのフレンドシップに生きることが許されている。そのために、まず欠かせないのが朝のデボーションとなる。祈りとみことばを通して、神は愛ですと言われている、神との交わりを喜び、神の臨在に浸り、その日を主とともに過ごす心備えができる。

今朝、強調したいことは、その後のことである。デボーションが終わって、立ち上がった後のことである。デボーションが終わり、目を開け、立ち上がり、その後も、神に、主キリストに心を向け、意識していくということである。バプテスト派の牧師で有名な人にチャールズ・スポルジョンがいるが、彼は、目を覚ましている時間、ほんの15分でも主の臨在を明確に意識せずに過ごしたことはないと主張した。目を覚ましている時間は起床6時台で計算すると、約16時間ということになるだろうか。一人で仕事ならばまだしも、人と会話して過ごさなければならない時間もある。しかし、スポルジョンの書いたものを読んでいると、彼は、人と会話しながらも主に心を向けていたことが想像にかたくない。私たちの場合、目を覚ましている時間のうち、トータルしてどのくらいの時間、主を意識しているだろうか。

こうした臨在信仰については、ブラザー・ローレンスのことばも良く引用される。「神は決して私たちに大きなことを望んでおられるのではなく、私たちがすべての時の瞬間瞬間を、わずかでも神を覚え、神をあがめ、神の恵みを求めて祈り、私たちの苦しみを打ち明けて語り、神がすでに与えてくださった恵みや、今、試みの中に与えてくださっている恵みを覚えて感謝することが大切なことだと思います。神が求めておられるのは、できるだけ多くの時に、神を自分の慰めとすることなのです。時としては、仕事の途中であるかもしれません。また、人と会話しているような時にも、あなたの心を神にだけ向けてください。あなたが神をあがめることを、神は喜び受け入れてくださるのです。あなたは特別に大きな声で叫ぶ必要はありません。神は私たちが考えるより、ずっと近くにいらっしゃるのです」。このように言うフローレンスは、地面からわらを一本広い上げる時さえ、神の臨在を覚えていたという。

私が今朝、強調したいことは、臨在を感じる感じないの話ではない。そうではなく、いつどんな時でも、神を意識すること、主キリストに心を向けること。それを訓練として自分に課すということである。

そのために、次にご紹介するローバックという人の努力を参考にしたい。ローバックは神を意識するという努力を次のように始めた。まず、ベッドから起き上がる前に、他の思いを振り払い、神にのみ心を集中させるようにした。「それは意志の行為である。私は自分の心を力ずくで神に向かってまっすぐ開かせる。・・・注意をそこに固定させるが、その心の状態を確保するのに長い時間を要することもある」。これ自体、たいへんな努力を要したようである。それから後、彼は次のようなことを試みだした。分刻みで自分の心を神に向ける訓練をした。「約15分、あるいは30分ごとに、神の意志と自分の行動を並べてみる・・・目ざめている時間のすべてを、絶えず、『父よ。どんなことばが語られることがお望みなのですか。父よ、この瞬間、何がなされることをお望みなのですか』と問うて、内なる声に耳を傾けて過ごそうとし始めた」。彼は少なくとも一分に一度は神に意識を向けることに成功し、徐々にその割合を高めていった。「神を意識していたのは50パーセント、意図的に拒んだのは少し」。そういう段階から、75パーセントまで達成したことがあれば、90パーセントまで達したこともあった。気が散ることがあって、神が心の中から追いやられてしまったように感じたことも多くあったという。だがこの訓練のおかげで彼は変えられていった。人と会うたびに、心の中で相手のために祈るようになった。電話に出るときは、「神の子どもが今、私に話しかけようとしている」と一人ささやいた。通りを歩いていたり、バス停で並んでいたりするときも、黙ったまま周りの人のために祈った。神にいつも意識を向ける生活をしていたので、不思議と絶えず祈る生活になっていった。絶えず神に祈り、周囲の人のためにも祈る。ローバックは暇な人なのかと思われた方もおられるかもしれないが、彼は暇な人ではなく、忙しい社会人だった。仕事をたくさんもっていた。だが自分にこの訓練を課した。彼は霊的に成長していくだけでなく、社会にも貢献する身となっていく。

こうした訓練は自分と他者のために有益である。私たちは頭ではわかっていても心でできないという問題も抱えているが、そうした頭と心の分裂もいやされていく。みこころを行いやすくなる。内なる人が強められ、キリストと似た者と変えられていく。周囲の祝福となっていく。

ローバックは、「父よ」と、父なる神を意識する祈りをささげたが、意識する対象、求める対象は、主キリストであることもあろうし、御霊であることもあるだろう。

参考として、もう一人の人物をあげよう。紀元466年頃に世を去ったシュヌーテというコプト人がいる。彼はエジプトの村人たちに、生活のあらゆる場面で聖なる御名を呼び、それによって生活と祈りが共存するように助言している。

 

家に入るとき、言うのです、神よ!そして出るとき言うのです、イエスさま!

休んでいるとき、言うのです、神よ!そして起きるとき、言うのです、イエスさま!

もし喜びに満ちて祝うときには、言うのです、イエスさま!

もし、娘、息子たちが笑ったら、イエスさま!

水にふれる人は、イエスさま!

野蛮なやつらから逃れる人は、イエスさま!

怪獣や恐ろしいものをみかけた人は、イエスさま!

痛みや病のある人は、イエスさま!捕まった人は、イエスさま!

不正な裁きで不義に苦しむ人は、イエスさま!

イエスの御名のみが唇にあり、それのみが救いであり生活なのである。

イエスと御父の御名のみが。

 

シュヌーテは、こうした祈りが、信徒の心を力で満たすと教えている。人それぞれのスタイルでいいので、神を絶えず意識すること、キリストを絶えず意識することにチャレンジしたい。それは絶えず祈るという、生活と祈りの共存を招く。

ただし、こうした生活の土台は、みことばであるということを付言しておきたい。そうでないと、内なる光に従うのだと言って、逸脱した行動に走る神秘主義者になってしまう恐れもある。また、主の導き、御霊の導きと言いつつ、自分の感情をベースに行動したり、思いつきで行動したりすることになりかねない。そして、みことばに反する行動に陥ってしまうのである。こうした誤りは歴史の中で繰り返されてきた。みことばと祈りのバランスが大切である。それを踏まえた上で、スポルジョンやブラザー・ローレンスやローバックやシュネーテのように、神を意識する、キリストを意識する臨在信仰に各々がチャレンジしよう。神を遠くに感じてしまっている人も、そうでない人も、とにかく神に心を向ける、主に心を向ける、その習慣を確かなものとしていきたい。“たまに”、“時々”、でなく、“絶えず”の世界に入っていこう(Ⅰテサロニケ5章16~18節)。