今日はズバリ、2節の「神の恵みによる私の務め」に心を向けたいと思っている。これは著者のパウロにしか関係ないことではなく、私たちそれぞれに「神の恵みによる務め」がある。本日はそのことを知りたいと思っている。

2節で「務め」と日本語で訳されていることばの原語は<オイコノミア>である。「経済」という日本語は英語で「エコノミー」と呼ぶ。エコノミーはギリシャ語の<オイコノミア>から誕生した。オイコノミア→オエコノミア→エコノミーに変化。現代は「エコノミー」を短縮して、「エコ」ということばが日常用語にもなっている。省エネ、節約に関して使われる。エコノミーの語源は、以外にも、2節の「務め」<オイコノミア>である。皆さんが、オイコノミアの聖書の用法を知れば、著名な経済学者より賢い人物になることができる。

オイコノミアは「家」を意味する<オイコス>から誕生した。家と関係している用語である。家の実務、会計を管理する人を<オイコノモス>と呼ぶ。<オイコノモス>とは「家の実務、会計を管理する管理人」である。そのことばがイエスさまのたとえ話で使われている。ルカ12章41~48節を参考に開こう。42節の「忠実で賢い管理人」の「管理人」が<オイコノモス>である。この語は一昔前の口語訳では「家令」と訳されていた。家令はクリスチャン全員である。家令は家(大家)を任されている人物。主君の財産や仕事を任されている管理人。管理人は主君に対して責任がある。その主君とは、私たちの場合、主イエス・キリスト。私たちはキリストに対して、忠実で賢い管理人にならなければならない。たとえでは、不忠実で無責任な管理人が反面教師として描かれている。

さて、キリストは、私たちに何の管理を任せられたのだろうか。クリスチャンにとって主から管理を任されているものは幾つもある。主要なものを四つあげてみよう。第一に、時間の管理。余り聖書的ではないことばに「余生」がある。クリスチャンにとって余りの時間はない。時間も主からゆだねられているものである。主を第一とすることは日常生活の時間管理に表されてくる。週の初めの日を礼拝の日として取り分けることは言うまでもないことだが、ルカのたとえでは、主の再臨が意識されているが、主が再び来られるという時認識の中で、むだに時を過ごさないようにすることが教えられている。「しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰ってきます」(46節)は主の再臨の描写である。たとえのしもべは、主人はまだ帰って来ないと思って、だらけていた。

第二に、財の管理。財は主からの預かり物。利己主義的なお金の使い方は戒められなければならない。主のために財をどのように活用するかということで、献金や人への施しも尊ばなければならない。冒頭で、<オイコノミア>から「エコノミー」ということばが生まれたことをお話した。本当の意味で経済的とはどういうことなのかということを教えられる。それは神に任された手の中にあるものをうまく管理するということなのである。ただ単に節約とかそういうことではない。誰のために、どういう意図で節約するのかということを考えなければならないし、神の国のために投資するときは投資する勇断も尊ばなければならない。高価なナルドの香油を注いだマリヤは弟子たちに非難されたが、イエスさまは高く評価された。私たちは拝金主義者になるのではなくて、お金を貯め、使う目的は、主のためである必要がある。

皆さんは「スチュワードシップ」ということばを聞いたことがあるだろうか。エペソ3章2節の「私の務め」の「務め」の英語訳である。スチュワードシップの用語は、日本において、信託銀行や生命保険会社や年金の団体等において用いられる。「財産管理の職務」と訳されたりするが、日本の金融界においては、スチュワードシップは、「他人から預かった資産を、責任をもって管理運用すること」として理解されている。私は銀行員でもなければ、生命保険会社に勤めてもいないと言われるかもしれない。他人から資産を預かって運用してはいないと言われるかもしれない。しかし、お気づきになられたように、私たちは他人からではなく、主から財を預かっている。それを管理し、用いる責任がある。自分の好きなようにしていいということではない。そうであるならば、あのたとえのように不忠実な管理人になってしまう。「管理人」は英語で「スチュワード」である。スチュワードの女性形が「スチュワーデス」である。昭和の時代、女性に人気の職業の三本指に入っていたのがスチュワーデス。実は女性である方は誰でも、キリストにあってスチュワーデス。たとい飛行機に乗っていなくとも。私たちは聖書を通して、本当のスチュワードシップとは何かを知ることができる。本当のスチュワードシップとは、主から預かった財を、責任をもって管理運用することである。

第三に、賜物の管理。第一ペテロ4章10節を開こう。「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい」。この「管理者」が<オイコノモス>。ここで賜物の管理が言われている。「賜物」の原語は<カリスマ>で、それは「恵み」<カリス>に由来している。賜物自体が神の恵みである。その管理が求められている。神の家のために、自分の賜物を積極的に用いることが求められている。誰にでも賜物が与えられている。自分の好きなこと、苦にならないこと、他人から評価されていること、それらが自分の賜物であることが多い。自分の賜物を知り、それを積極的に活用していただきたい。それを活用する責任が私たちにある。それを用いないのは怠惰ということであり、また偽りの謙遜でしかない。皆さんは、ご自分の賜物を主のために、教会のために活用してください。

第四に、福音の奥義の管理。パウロが今日の箇所で強調していることがこれ。パウロは「奥義」ということばをエペソ書全体では6回使用し(今日の箇所では4回)、パウロ書簡全体では21回使用している。パウロが重視している用語の一つである。英語では「ミステリー」と訳されている。原語は<ミステリィオン>。ミステリーと言われると、何か理解しがたい神秘的なものと思ってしまう。しかし、セム人であるユダヤ人において、ミステリィオンというのは、「かつては隠されていたが、今や神の啓示によって明らかにされた真理」という意味である(5,9節参照)。エペソ人への手紙の文脈で、この奥義とは何かをご説明しよう。3節で「先に簡単に書いたとおり、この奥義は・・・」とあり、パウロは「先に簡単に奥義について説明したでしょ」と言っている。先に簡単に書いたものとはエペソ2章11~22節。そこに書かれていることは、キリストを信じるなら救われるということプラス、キリストを信じることによってすべての人が、人種、民族関係なく一つ神の民にされるという真理である。今日の箇所では3章6節で繰り返されている。「キリスト・イエスにあって」(<エン>~の中に、~のうちに)と、キリストを信じ、キリストのうちにある者となるならば、同じく神の国の相続人となり、ともにキリストのからだの一員とされ、ともに約束の子どもとなる。そこに何の差別もない。民族の間を分断する垣根もない。パウロは他の箇所で奥義とはキリストであり救いであることを述べているが、その救いとは自分が天国に行けるといった個人の救い止まりではなく、キリストを信じるならば誰でも救われ、キリストにあって一つとされるという広がりをもつものなのである。パウロがこの真理が教会において体現されることを強く願っている。また、教会がこの福音の奥義を力強く宣べ伝えてくれることを願っている。全世界の民族に、全世界の人種に。パウロはすべての人々をキリストのふところに招きたい。キリストは天に昇られる前に、「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」と命じられた(マルコ16章15節)。私たちも、ひとりでも多くの人をキリストのもとへという精神で、福音に仕え、福音を伝えていきたい。私たちには福音が任されている。

今日は、クリスチャンスは「管理人」であり「家令」であるということを見ているが、最後に、パウロがこの「家令職」を恵みとして受け止めていることに注目したい。<オイコノミア>は、今日の箇所の2節で「務め」と訳されているが、これを「管理者としての職務」と訳す聖書もあるが、「家令職」と訳すこともできるだろう。いずれ、それは、「キリストにある務め」のことを指す。パウロはこの務めを「神の恵み」と言っている。私たちは日常生活の中で、やりたくない、めんどうくさい、つらい、苦労が多いと色々な感情に捕らわれ、不平も言いたくなってくる。パウロは、キリストを伝えようとしたために艱難辛苦を味わい、今、捕えられて牢獄にいるにもかかわらず、これまでしてきた務めを恵みだと言い切っている。パウロがここで言っている恵みとは救いの恵みではなく、現在のキリストにある務めのことを言っている。私たちはどうだろうか。キリストにある証人として家族に仕える、地域の人々とおつきあいする、社会で仕事をする、出て行って福音を伝える、奉仕をする、そうしたすべてを恵みだと言える信仰があるだろうか。今、置かれている場所も、地域も、家庭も、そこで託されている責任も神から来ていると思う時、それを恵みと言えるだろうか。そして恵みを恵みとする生き方ができているだろうか。パウロは2章5節で「あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです」と、先ず救いの恵みについて言っているが、恵みを救いに限定していない。ここが彼のすばらしいところ。キリストに仕えるという務めも恵みだと言っている。そして、それを生活において表わした。パウロの人生はどこを切っても恵みしか出て来ない。金太郎あめを地で行った人物である。

かつてのプロテスタント教会の歴史において、恵みを汚してきた事実があった。救いは行いによらず恵みによると謳うのが、聖書信仰に立ち返ったプロテスタントの主張であるが、そこで止まってしまい、神に仕えるのを忘れ、世に妥協して生きて行くクリスチャンがあふれていった。ドイツにデードリッヒ・ボンフェファーというナチスドイツに抵抗した牧師がいるが、彼は戦争国家に妥協した当時の教会の姿を憂いながら、「安っぽい恵み」ということばを語ったことで有名である。恵みによって救われたと言いつつ、この世に妥協し、神に犠牲をもって仕えようとしない人たち、その人たちは恵みがわかっていないと彼は訴えた。神の恵みを安っぽいものにしてしまったと批判した。アメリカの神学校で教鞭を取ったエマーソンは「知っていることだけを生きる」と言った人物である。名言だと思う。恵みを知っていると言いながら、神に仕えることをしなかったり、感謝を口にできなかったり、自分の功績ばかりを主張する人たちは恵みを知っていないということになろう。恵みは人間のエゴを排除するものである。神と人とに仕える道に進ませる。そしてすべてを神に帰する。

7節から、パウロが神の恵みを恵みとしている姿を見よう。彼は福音に仕えることができるのは恵みだ、「神の恵みの賜物」だと言っている。私たちもパウロのように恵みを捕えないと、日常生活の場で神に仕えることも、教会で何かの奉仕をすることも、職場での仕事も、福音を伝えることも、ただのつらい義務になってくる。不平ため息の世界になってくる。かつて、ある著名な牧師が、信徒の方の奉仕に関して、ちょっと笑えてしまった話を紹介してくださった。ある信徒の方が教会の庭かどこかの草むしりの奉仕をしていたそう。その方は、コンチキショー、コンチキショーと言わんばかりに、形相も険しく草をむしっていたとのことだった。また、ある著名な先生の証だが、高名な大学を出て、大きな教会で働いた後、団体を移った。そこで最初の頃にさせられた奉仕は、自分より経験も浅く、年も若い訓練生たちの靴磨き。「何で自分はこんなことをやらなくちゃならないんだ」。その時、その方の心に、弟子たちの足を洗ったキリストの御声が響いてきたそうである。その先生は、心の高ぶりを悔い改めさせられ、仕えるということはどういうことなのかを教えられたそうである。

続く8節でもパウロは恵みを口にしている。パウロが自分に与えられた福音の奥義の管理者としての務めを恵みだと口にできる一つのヒントを見ることができる。彼は自分のことを「すべての聖徒たちのうちで一番小さい私」と言っている。「一番小さい私」を新共同訳は「最もつまらない者」と訳している。新改訳2017は「最も小さい者」と訳している。パウロが使用していることばは特殊なことばで、「最も小さい」という最上級の語尾に「より小さい」という比較級を付け足している。「最も小さい者よりも、さらに小さい者」が直訳となる。つまり、「私という存在はゴミみたいなもので、これ以上、下の存在はない、卑小な者」ということを伝えたい。彼は先輩クリスチャンたちを迫害し、神に逆らって生きてきた。地獄に落ちて当然の人物だった。彼は、自分は何の資格もないと思っている。「こんな者をも神さまは救ってくださったばかりか、キリストの福音までゆだねてくださった」と、今の務めを有り難く恵みとして受け止めている。

パウロがキリストにある務めを恵みとして受け止めていることは、13節からも伝わってくる。パウロはこの時、牢獄にいた。私たちは毎日が平穏無事であれば、恵みということばを口に出しやすい。でもパウロは苦難の中にあっても恵みを口にしていた。パウロが苦難を受けているのは身から出たサビではない。神から託された務めに忠実であったことの結果だった。パウロに託された務めとは、異邦人に対して神の豊かな知恵であり永遠のご計画であるところの福音の奥義を伝え、異邦人を救いに導くことにあった。パウロは異邦人のための使徒である。パウロは実際に異邦人を救いに導いていた。エペソ人の救いもそうである。パウロは自分の務めを果たせて嬉しいわけである。福音のための苦難をマイナスイメージで捕らえる必要はない。レスキュー隊員が傷を追いながらもガレキに埋まっている人を救助して、使命を全うするようなものである。レスキュー隊員は務めにつきまとう危険も承知の上で救助に向かう。苦難も覚悟である。そして自分の務めを誇りにしている。パウロも同じである。加えてパウロは、キリスト者として、自分の務めは神の恵みだという受け止め方ができていた。だから、パウロは異邦人たちに対して、「私があなたがたのために受けている苦難のゆえに落胆することのないように」と言うことができた。「恵みだと思ってやっているのだから、苦難も承知の上なのだから、そんなにしょんぼりしないように」。ある訳は「落胆」を「萎縮」と訳している。別訳としていいと思う。パウロはエペソの聖徒たちに、萎縮するのではなくて、例えるならば、金メダルを首にかけてもらったような選手の気持ちになって欲しい。「私の受けている苦しみは、そのまま、あなたがたの光栄なのです」という訳は、新改訳2017では「私が受けている苦難は、あなたがたの栄光です」となっている。

今日のテーマはクリスチャンの務め、スチュワードシップということだが、私は、ただ単に、自分の務めに忠実でありましょう、と言いたくはない。ただ単に、自分に任せられたものを正しく管理し、自分の分を果たしましょう、と言いたくはない。パウロの恵み理解に私たちも達したい。今あるは主の恵み、主に仕えるのは恵み、私たちに任せられているものはすべて恵み、福音に仕えるのは恵み、主にある労苦も恵み、私の務めは恵みの務め、すべては主の恵み。私たちもそのようにして、キリストの家令として、忠実で賢い管理人として歩んでいきたい。神の恵みを恵みとしていることを生活で証していきたい。