私たちはすべてのことにおいて、「主がそうしてくださった」と言える者でありたい。これまでの流れだが、イスラエル軍とペリシテ軍の大戦が勃発した。お芝居をしてペリシテ人の雇われ兵となっていたダビデは窮地に立たせられることになる。イスラエルに攻め入るわけにはいかない。一応出陣することにして、どこかの段階で反旗を翻し、イスラエル側につくといった策を、頭の中で思い巡らしていただろう。しかし、主はペリシテ人たちの心を動かし、ダビデたちは出陣をまぬがれ、居住地のツィクラグに帰ることができる(1節)。ところが、ダビデたちが留守の間、ツィクラグは大変なことになっていた。アマレク人の襲撃によって町は焼き払われ、家族の者たちは捕虜として連れ去られていた(1~3節)。廃墟となった町、家族はゼロ。最大の悲劇が訪れてしまった。6節では「兵がみな」と、「ダビデを殺せ」と声を上げ始めた。ダビデの信仰はここに来て覚醒する。ダビデは主によって奮い立ち、主に伺いを立てる(8節)。主は、「追え、必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」と命令と約束を与えられた。ダビデと部下六百人は、主の約束を信じてツィクラグを飛び出す。

追撃隊はペソル川という地点まで進む(9,10節)。ペソル川はツィクラグから南へ約80キロの地点である。そこまで来ると、3分の1の二百人は疲れ切ってしまい、そこにとどまり、残りの四百人で追跡することになる。

そして今日の場面である。追撃隊は野原に一人の男が倒れているのを発見した。それは一人のエジプト人であった(11節)。どのような身分であったかと言えば、奴隷である(13節)。倒れていた彼は脱水症と飢えとで動けなくなっていたが、三日前に病気になって置き去りにされたということであった。奴隷というのは主人の所有物で、らくだよりも軽視されていたと言われる。彼はアマレク人にとっては使い捨ての廃棄物。どうでもいい存在であった。だがこのエジプト人がアマレク人発見の鍵を握る存在となるのである。アマレク人は遊牧民で、広いフィールドを放浪する。彼らを見つけるのは困難である。そうした中、アマレク人の奴隷を発見できたというのはラッキーだった。主は8節の「追え。必ず追いつくことができる。必ず救い出すことができる」という約束を成就するために、彼を備えておられたのである。捨てられたエジプト人を発見できたというのは、偶然ではなく主の摂理である。これが大きな結果を生むことになる。アマレク人にとって奴隷を捨てるというのは、生活の小さな一コマにすぎない。大ゴミの日に不燃物を捨てるのと一緒。しかし、そこにも主の摂理の御手が働いていた。

私が福島県の実家で療養生活を送っていた頃の話だが、ようやく生きる気力を取り戻し、神の召しを感じ始めていたある夜のことである。長男の私がこの家を出て神学校に入学してもいいんですかと御旨を求めて祈っていたら、一匹の蛾が窓の隙間から部屋に飛び込んで来て、祈りが妨げられた。その蛾を捕まえるために無造作に机の上から紙をつかんだ時に、紙に印刷されているみことばが目と心に飛び込んで来た。創世記12章1節であった。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい」。これと同じみことばが翌週の教会学校でも語られた。もうそれで疑う余地はなくなった。私はこの体験を通して、蛾一匹さえも神の御手の中にあることを学んだ。神が何を用いてくださるか分からない。それは、人か物か、動物か虫か。今日の物語の場合は、捨てられた病人の奴隷である。

ダビデは彼に略奪隊のところに案内してくれるように依頼する(15節)。そして家族も奪われた物もすべて取り戻すことになる(19節)。これは奇跡的。プラスアルファで、戦勝品として羊や牛も手にする(20節)。

この後のダビデの行動が賞賛に値するのである。ダビデの部下たちは、体力のある者とそうでない者に分かれていた。体力のない二百人はペソル川のほとりにとどまっていた(21節)。戦いを終えて戻って来て、彼らをどう扱うかということになる(22節)。戦ってきた四百人は体力がある部下たちであった。この四百人すべてがすぐれた信仰者たちであったかと言うと、決してそうではなく、すぐれた信仰者たちばかりで構成されていたわけではなかった。中には意地の悪い者たちもいた。「一緒に行かなかった者たちの分け前はゼロだ。ただ家族だけを連れて行け」。秋田県方言で「せやみこき」(怠け者)があるが、そんな感覚で見てしまったのかもしれない。「俺たちは頑張った。お前たちはただの留守番役の怠け者。何もしていない。何にもやらないぞ」。彼らの主張には、彼らの貪欲さ、自己中心、愛のない悪意が背後にある。ダビデは、こうした部下たちとも向き合わなければならなかった。

「ダビデは言った。『兄弟たちよ。主が私たちに下さった物を、そのようにしてはならない。主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ。』」(23節)。ダビデはまず、「兄弟たちよ」と温かく呼びかける。意地が悪くても「兄弟」という視点をもって呼びかけている。続いてダビデは、「私たちが取ってきた物を」と語り出していないことに注意を払いたい。「主が私たちに下さった物を」と語り出す。その後も、「主が私たちを守り、私たちを襲った略奪隊を私たちの手に渡されたのだ」と、あくまで、主がそうしてくださったと、すべては主の恩恵であると語っている。ダビデは、私たちがやったことなのだと、「私たち」に強調を置くのではなく、主がそうしてくださったのだと、「主」に強調を置いている。私たちではなく主という強調である。ある人たちは、いつも自分の貢献を印象づけようとして、「私が、私は」と話すだろう。私がやったのだと。けれども、私たち信仰者は常に、それは主からの賜物だ、主がそうしてくださったのだと、主の恵みを恵みとしたいのである。仕事も、愛する家族も、健康も、食べる物も着る物も、何かの成功も、すべては主が私に賜ったものだと、主がくださったものだと応答したい。こうしてダビデは、意地の悪い者たちに対して、主の恵みに気づかせようとした。私たちは、当たり前であると思っていること、また自分ががんばったからだと思っていること、それらを改めて、「主がそうしてくださった」と受け止めるときに、ライフスタイルは自分中心ではありえなくなるはずである。

そしてダビデは分かち合いの原則を重んじた。ダビデは、能力主義、成果主義で部下を見る上司のように、二百人に対して、お前らは何もしなかったし、できなかったと、すげない目で見ることはしなかった。彼らの安否を問い、平等に扱おうとしたのである。戦いに下って行った者もそうでない者も分け前は同じだと(24節)。ダビデは、分け前はみな同じで、ともに同じく分け合わなければならないと説いている。これは教会も同じである。教会は分かち合う共同体である。パウロはコリントの教会に対して、この分かち合いの原則を教えている。「今あなたがたのゆとりが彼らの不足を補うことは、いずれ彼らのゆとりがあなたがたの不足を補うことになり、そのようにして平等になるのです。『たくさん集めた人にも余ることなく、少しだけ集めた人にも足りないことはなかった』と書いてあるとおりです」(第二コリント8章14,15節)。後半の引用は、エジプトを出たイスラエルの民が荒野で、天からのパンであるマナを集めることに関しての言及である(出16章18節)。民たちはマナを皆で分かち合った。初代教会の記録もこうある。「さて、信じた大勢の人々は心と思いを一つにして、だれ一人自分が所有しているものを自分のものと言わず、共有していた」(使徒4章32節)。

ダビデは分かち合いの原則を内輪だけに適用するつもりはなかった(26~31節)。ダビデは戦勝品を内輪だけで分かち合って終わりにしたのではない。意地の悪い者たちは内輪で分かち合うことさえ嫌ったのに、ダビデは内輪で分かち合ったばかりか、外部にも分かち合おうとした。戦勝品をプレゼントとして送った。26節で「ダビデはツィクラグに帰って来て」とあるわけだが、焼け跡に帰って幾分でも自分たちの生活を良くしたいはず。また蓄えたいはず。しかしダビデは、主からの恵みを外部にも分かち合おうとした。今で言えば外部献金また寄付金のようなものである。また物資の寄付のようなものである。送り先を見ると、ユダ部族、シメオン部族への割り当て地だが、これまでの放浪生活でお世話になり、関係をもった地域である。また、自分たちと同じように被害を受けた地域も入っているようである(14節参照)。だからダビデの行為には、お見舞いやら、恩返しやら、そういう意味合いも含まれている。こうしてダビデは主の恵みを外部にも還元した。これも私たちが見倣う点である。

ダビデたちは、主の恵みとあわれみなくば、これまでの記事からわかるように、当に死んでいた者たちである。生きていたとしても、家族を連れ戻すことはできなかっただろう。ところが、奪われた物資を含めてすべて取返し、プラスアルファで戦勝品まで得た。これらのものもすべて恵みでしかない。ダビデは、主が下さった、主がそうしてくださったと恵みを恵みとすることができた。恵みに対する感謝が分かち合いを生んだ。ダビデは喜んでこのことをしただろう。

分かち合いは自分の功績としてするものではないし、義務や律法となったらおしまいであろう。この分かち合いの出発点は、やはり主の恵みを恵みとすることにある。ダビデは昨今、単に命拾いしたということではない。単にスリルを味わったということではない。自分の弱さと愚かさに反比例する、主の恵みとあわれみの大きさに心の目が開かれたのである。「主よ、ありがとうございます。あなたの恵みとあわれみに感謝します!」。頭のてっぺんから足先まで、ああ主の恵みだ~という感動が走ったのではないだろうか。今日のタイトルは「主がそうしてくださった」であるが、私たちも、いつも「主」を主語にして、「主がそうしてくださった」と心から言える者たちでありたい。

最後に詩篇103編2節を読んで終わる。ダビデのことばである。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」