炎天下の酷暑の夏は外を歩いていると、日陰を探してそこに身を置こうとする。では、私たちのたましいはどうだろうか。日向を求めるだろうか。日陰を求めるだろうか。今学び始めたヨハネの手紙は、異端反駁の書という性質がある。異端の霊性は一言で言うと闇である。手紙を読んでいくと明らかなように、ヨハネは異端を意識しながら、キリスト者の正しい信仰、正しい生き方を教えようとしている。今日の箇所のキーワードは「光」である。ヨハネは私たちが光の中を歩むように教え諭す。

「私たちがキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇が全くないということです」(5節)。ヨハネは「私たちがキリストから聞き」と言っているように、キリストからことばを直接聞いた証人である。ヨハネは、キリストの息遣いがわかるような近距離から、キリストのことばを聞いた。キリストから聞いたことばは非常に多かったわけだが、彼は、ここで、キリストから直接聞いた教えを一つ書き記す。それが、「神は光であり、神には闇が全くない」ということである。神は光であり、光そのもの。7節では「神が光の中におられる」とある。そして神には闇が全くない。「闇が全くない」は、原文では強い打消しの表現となっている。神には闇がこれっぽっちもない。ヨハネは神の名を口にする異端のグループに闇を見ていた。神と闇は同居するはずがない。「神には闇が全くない」などというのは当たり前かもしれないが、例えばギリシャ神話や日本神話に登場する神々はどうだろうか。力強さはあってもわがままであり、罪の性質を帯びている。陰陽道はどうだろうか。陰と陽のバランスで世界は成り立っているとし、陰の中に陽があり、陽の中に陰があり、陰は陽に転じ、陽は陰に転じ、陰と陽は一つであるという世界観である。実はこの世界観は現代にも浸透している。この世界観は闇の存在というものを肯定してしまう。現代の諸宗教やニューエイジムーブメントが示す神はどうなのだろうか。神は光であると言うには言うが、愛ということばも多用するが、罪を許容する彼らの教えに闇の性質は全く認められないだろうか。ヤコブは父なる神の性質について次のように言っている。「父には、移り変わりや、天体の運行によって生じる影のようなものはありません」(ヤコブ1章17節)。神は全き光なのである。影のようなものもない。パウロは、「近づくこともできない光の中に住まわれ」(第一テモテ6章16節)と、その光のまばゆさを強調している。

では、ヨハネ文書から光について見ていこう。新約聖書において「光」は72回用いられている。そのうちの半数近い33回がヨハネ文書で用いられている。「光」はヨハネ文書の特徴である。ヨハネ文書では、光で神のどのような性質を表しているのだろうか。三つ挙げることができる。1)神のいのち。ヨハネの福音書1章4節では、キリストがいのちと言われ、「このいのちは人の光であった」と言われている。光であるこのいのちは永遠のいのちである(2節)。いのちに反するものが死である。2)神の善。ヨハネの福音書3章20節では「悪を行う者はみな、光を憎み」とあるが、光とは善だからである。善に反するものが悪である。3)神の真実または真理。ヨハネの福音書1章9節では、「すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた」とある。第一ヨハネ2章8節では、「まことの光がすでに輝いている」とあり、キリストがまことの光と言われている。「まこと」とは「真実、真理」という意味である。真実・真理に反するものは偽りである(6節)。その他に、光で神の聖さや神の純粋性といったものを表していると考えられる。死、罪、偽り、悪は闇に属し、光の性質に反するものである。「神は光であり、神には闇が全くない」ということを受け止めよう。もし、神を説く教えでありながら少しでも闇を容認する教えなら、それはニセモノということになる。「神には闇が全くない」を、ある訳は「彼の中にはいかなる闇も存在しない」と訳している。以前の新改訳第三版では、「神のうちには暗いところが少しもない」と訳していた。異物混入の商品の話が聞いたことがあると思うが、そういうことではない。また、外国産なのに国産と偽るような話でもない。そして、農産物などがそうだが、地方のブランド品の場合、他の地方のものが何割か混じっていても許される場合あり、消費者はそれを知らずに購入してしまうことがあるが、そのような混在ではない。神は純粋に百パーセント光であり、少しも混じりけのないいのちであり、善であり、真理なのである。もし、少しでも悪や偽りが認められるなら、腐臭があるのなら、それは神を騙ったニセモノということになる。

「もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであり、真理を行っていません」(6節)。「神と交わりがあると言いながら」とあるが、当時、神を信じている、神と交わりがあると言いながら、平然と闇のわざを行っていた偽りの信仰者たちがいた。「闇の中を歩んでいる」というのは、平然と罪を犯し続けていることである。罪を罪とも思わず、罪を恥じることもなく、厚顔無恥なまま習慣的に罪を犯し続けていることである。具体的には、神の戒めに従わない不道徳な生活が考えられる。闇の中を歩んでいるもう一つのしるしは、兄弟姉妹を憎むということである。「しかし、自分の兄弟を憎んでいる人は闇の中にいて、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかが分かりません。闇が彼の目を見えなくしたからです」(2章11節)。「自分の兄弟を憎んでいる」というのは、当時では、使徒ヨハネたちが形成するキリスト者グループから距離を置いてしまい、彼らとの交わりを避け、彼らを憎むということである。闇は光と交われないのである。

私たちは闇の中を歩むのか、それとも光の中を歩むのかが問われる。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」(7節)。「もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら」と、「光の中を歩む」ことを選び取りたい私たちである。「光の中を歩む」というときに、まず、キリストが光であることを知っておこう。ヨハネは福音書において、キリストを「人の光」(ヨハネ1章4節)、また「まことの光」(ヨハネ1章9節)と呼んでいる。キリストは光である。ヨハネが伝えたイエス・キリストを信じ、このお方に従う歩みが「光の中を歩む」ということである。キリストはご自身のことを「世の光」と呼ばれた。こう言われた。「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」(ヨハネ8章12節)。キリストは光である。キリストを信じキリストに従うことが光の中を歩むことである。このお方から離れてしまうなら、闇となる。キリストが光だからである。

ヨハネは7節において、キリストに従う者、すなわち光の中を歩む者はどうなると語っているだろうか。光の中を歩む者は、第一に、互いに交わりを持つ。「互いに交わりを持つ」とあるが、これは真のキリスト者の交わりの中にとどまるということである。もしキリスト者との交わりを拒むならば、神の名を口にしていても、偽り者である。第二に、光の中を歩む者は、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」という恩恵に与る。私たちはキリストを信じた後、自分の犯した罪にがっかりし、自己嫌悪に陥ることがある。光の中を歩んでいることイコール、罪のツの字とも無縁になるわけではない。この世にいる限り、油断して罪を犯すことがある。偶発的に罪を犯すことがある。知らないで罪を犯し、あとで気づくこともある。神を信頼することを忘れてしまうことがある。傲慢になることがある。このような罪に気づいた時、「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」という真理を忘れてしまうことがないようにしたい。自分の弱さを嘆き、自分の罪に苦悩している人は、この約束に希望を見出すことができる。キリストの血潮に信頼し、罪を告白し、赦してもらうのである。

光の中を歩んでいるという文脈で、光とは正反対の罪を犯すことについて言われていることを以外に思われるかもしれないが、光の中を歩むというのは、罪の性質を持たない状態となり、罪を犯す可能性がゼロになってしまうということではない。「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分を欺いており、私たちのうちには真理はありません」(8節)。これは当時のグノーシス主義が念頭にある。グノーシス主義の教師たちは、神から光を受けることにより、罪の性質が根絶されると教えていた。いわゆる、地上で罪無き完全に達すると教えていた。一見、真っ当な教えのように思われるが、聖書の教えではない。彼らは、次のようなことも教えていた。彼らは肉体とたましいを切り離して考えていた。そして肉体で過ちを犯してもたましいは害を受けない、肉体で何をしてもたましいは罪に染まらないという理屈から、肉の快楽を積極的に勧める教師たちもいた。肉体が何をやってもたましいは罪とは無縁というわけである。子どもの屁理屈、「僕は知らないよ。手が勝手に動いたんだもん」を思い起こす。たましいは行動の決定機関で意志を働かせるところと思うわけだが、肉体とたましいを切り離してしまう。こうして罪を犯しながらも、罪を罪としないで、自分には罪はないと主張する人々がいた。現実には罪を犯して闇の中を歩んでいた。まさしく自分自身を欺いているだけのことである。同じような教えは、時代を追って繰り返されている。自分には罪はないと主張する、偽りの教えに染まった自称キリスト者たちのことを時おり耳にする。

私たちが罪を犯してしまったとき、神はどのようにして罪からきよめてくださるのだろうか。「もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます」(9節)。罪からのきよめの手段は7節にあるように、「御子イエスの血」である。私たちのすることは「自分の罪を告白する」ということである。ただ、どう告白するかである。「告白する」<ホモロゲオー>の意味は「同じ」「同一」<ホモ>ということばと「言う」<ロゲオー>ということばの合成語である。告白の意味は、「同じことを言う」ということになる。私たちは誰と同じことを言うのだろうか。神とである。だから罪の告白はひとりよがりの告白であってはならないわけである。私はそれを罪とは思わないとか、仕方がなくしたことで許されるとか、これくらい誰でもしているとか、そういう告白ではない。神が罪について言うことと同じことを言う。神の基準によって告白する。神と一つになって言う。神が「それは罪だ、重い罪だ」と言えば、「その通りです。あなたがおっしゃることを認めます。お赦しください」とならなければならないわけである。言い訳がましい告白も、口先だけの告白もアウトである。

ヨハネの罪の告白の教えから、三つの間違った態度のキリスト者を想定できる。第一に、罪を告白しないキリスト者。お祈りは願い事中心で罪の告白はない。自分の罪を知っているか知らないかわからないが、とにかくお祈りは願い事だけ。ヨハネは言う。「もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません」(10節)。一年間で一度も罪の告白をしていないというのなら、その人はよほど聖いかその逆の有様か。暗闇の中を歩んでおり、光に照らされていないので、罪が認められなくなってしまっているのか。日中、太陽の光が部屋に差し込み、床のちりやほこりが目立って見えるのが気になり、拭いたり、掃除機で吸い取ったりということは誰しもが経験することである。もし光の中を歩んでいるなら、より罪に鋭敏になり、罪に対処しようという思いは強くなるはずである。罪を大目に見たり、罪に同情したりはしない。それを告白し、キリストの血潮できよめてもらうことを選択する。罪を光のもとに差し出すことを拒み、自分の罪に対していろいろと弁解を試みるのは私たちがすることではない。「あの状況だから仕方がなかった。あの人が悪い。だから心の中の苦々しい思いは仕方がない」。こうして年を重ねるごとに弁解のテクニックが上手になるというのはいただけない。幼子の心で、神の光の中で自分の罪を見、告白<ホモロゲオー>するのである。

第二に、罪を十把ひとからげにまとめて告白するキリスト者。「今日はいろいろと失敗しました。お赦しください。アーメン」。自分の罪を告白するつらさを思い、そそくさと、うわっすべりの告白で終わらせようとしてしまう。自分が罪人であることを認めるだけの告白で終わってしまう。自分の罪を素直に認めて謝るというのは人に対してもやりにくいことだが、神に対してもそうであるわけである。ぺこっと一瞬謝って、あとは逃げてしまいたい。いたずら小僧みたいなものである。でも、きちんと神と向き合うのである。逃げないで自分の罪に直面し、正直に告白しなければならないわけである。

第三に、自分が罪であると思うものだけを告白するキリスト者。自分が罪であると思うから告白するというのは当たり前なわけだが、キリストにとどまることを願っているのなら、その人は、聖書を学び、神のみこころを知ることにおいて成長し、聖霊によって良心の感覚がより研ぎ澄まされ、神が罪とすることを罪とすることができるようになるだろう。かつては罪として認識していなかったことも、告白の対象となるだろう。道徳的汚れの問題だけではなく、人を裁いていたとか、傲慢だったとか。あとはその人その人に託された神の使命というものがあり、それを怠けてしなかったとか、気づかされることが出て来るわけである。また自分の心を精査する過程で、心の表面下のアンダーグラウンドにある自分の思いを見せられ、悔い改めさせられることも起きてくる。暗い心の地下に神の光が照らされるからである。そこに眠っている黒い感情に気づいたら告白するのである。

私たちは使徒たちの教えに倣って罪を告白することを実践していきたい。そして罪に対するキリストの血潮の力は絶対であることを信じていきたい。キリストの血潮の力に信頼するのである。それができずに、いつまでももんもんとしているキリスト者もいる。私の罪は赦されている確信がないと。あの時の罪は赦されているのかと。二十年前のあの罪はと。そして平安のないまま暗い顔をして日々を送ることになる。これもまた不幸なことである。7節の約束、「御子イエスの血が<すべての罪から>私たちをきよめてくださいます」を信じよう。

ヨハネの願いは、私たちが光の中を歩むことである。自分には罪がないと言うのは嘘つきだが、だからと言って、平然と罪を犯し続けることが光の中を歩むことではない。罪は罪と認め、犯した罪は告白するのである。そうしてきよめられ、キリストとキリストのことばに従う歩みを続けるのである。闇の中を歩む者たちは平然と罪を犯し続ける。だが光の中を歩む者は罪を嫌い、イエス・キリストを慕い求め、主にある兄弟姉妹との交わりにとどまりながら、イエス・キリストに従って行く。その途上で示された罪は告白し、イエスキリストの血潮によって洗いきよめていただくのである。私たちは光の中を歩んで行こう。闇を光とする偽りの教えを遠ざけながら、まことの光である主イエス・キリストに従って行こう。