今日のテーマはトレーニング、訓練である。それは霊的訓練である。前回は1~3節から「人生のランナー」ということで学んだ。どんな競技でもそうだが、出場者は練習を重ねて、トレーニングを積んで出場する。トレーニングの指導をするのがトレーナーである。それは私たちにとっては神さまである。トレーナーである神さまの心にあるものは、人間の罪である。それは自己中心で神に逆らう性質である。この罪は、肉体によって器をなす人間の人格の中に根深く住みついている性質である。霊的訓練はこうした罪を念頭においた聖めの手段である。

私たちは、トレーナーの側に身を置きたくなるが、まずトレーニングを受ける側に身を置こう。「だれもが人類の人間性を変革することを考える。だが、だれも自分自身を変えることを考えていない」(レフ・トルストイ)。私たちはまず自分自身を主の訓練にゆだねなければならない。私たちは人のことは良く見えて批判するが、自分のことは見えていないし、変わることをそんなにも望んでいない。神さまはそうした私たちの性質をご存じで訓練を課す。

手紙の受取人たちは、困難の中に置かれていた(10章32~33節)。著者は彼らの忍耐が切れ、投げやりになってしまうことを恐れていた。そのため、11章以降を見ると、神のすばらしい約束に目を留めるように促し、信仰の先輩たちの模範にならうようにとか、信仰の創始者であり完成者であられる主イエスから目を離さないようにと、忍耐を与えるためのアドバイスを与えてきた。今日はまた別の角度から、彼らの忍耐を持続させ、増し加えることばを与えている。はじめに、忍耐を持続させ、増し加えることば、三つにまとめて表現してみよう。

第一は、大変だといっても、まだそんなに大変でないことを覚えよ(4節)。彼らは迫害されていたことは事実でも、殉教の血を流すところまでは行っていなかった。私たちもそれは同じである。北風は吹いてもまだ穏やか。暴風までは行っていない。だから、これくらいでへこたれてはいけないという気概は必要になる。

第二は、困難の背後には神の愛の心があることを忘れるな(5~6節)。5~6節は、箴言3章11,12節のギリシャ語70人訳からの引用である。注目してほしいのは「主は愛する者を懲らしめ」ということばである。信仰のゆえに体験する不快な事、困難、損失、貧しさ、そうしたことは御父の愛のしるしである。ある信仰者は嫌な体験をしてしまうと、自分は神から毛嫌いされているのではないかとか、裁かれているのではないかとか、容易に考えてしまう。背後には御父の愛の心があり、それは愛のしるしだとは考えない。いや、考えることもあるだろう。けれども、いつもそうではない。私たちは父なる神に愛されているという事実を真摯に受け止めなければならない。それが忍耐につながる。

第三は、子どもとして受ける訓練であるということを忘れるな(7~10節)。父親は子どもをしつけ、訓練しようとする。それは当然である。著者は「私生児」(8節)ということばを使って、私たちの確かな身分を浮き上がらせるはからいをしている。「私生児」は父親が認知していない子どもである。将来は限りなく不確実。当時はなおさらのこと。けれども、私たちは、いわゆる「嫡出」(ちゃくしゅつ)の子ども。親の庇護のもと、将来の幸せに備えて訓練を受ける立場にある。親のもとで訓練を受けて望ましい姿に成長していく。

受ける訓練というのは少しも楽しくないと思うことがしばしばある。あるコーチはなるほどということばを述べている。「コーチは彼らが望んでいないことをするようにさせ、彼らが常に望んでいた者になれるようにする」。望んでいないきついトレーニング、また自分には必要とは思えないトレーニング、そうしたトレーニングがしばし私たちにも課される。著者は父なる神の訓練は完全であることを教え、読者たちを納得させようとしている(10節)。「肉の父親」、すなわち地上の父親は「自分が良いと思うがままに」子どもを訓練する。ということは、それが最善か、完全に正しい方法かどうかはわからず、誤りもあることがしばしば。コーチの話で言えば、オリンピック強化選手が練習中に異変が生じ、亡くなってしまい、裁判沙汰になっている例もある。相撲部屋では、しごきの後の死亡事例もある。高校の部活でも行き過ぎた指導でなかったのかと思わされる事故が発生している。このような例を挙げなくとも、人間の訓練は不完全であることは疑いを得ない。しかし、父なる神の訓練は完全で、その人に一番良い訓練は何かをご存じで、またその人の許容量もご存じである。「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません」(第一コリント10章13節)とある通りである。父なる神の訓練は常に最善である。

次に訓練を受ける側の私たちの取るべき態度を三つに分けてみてみよう。

第一に、愛の訓練には信頼をもって応答する。「主は愛する者を懲らしめ」(6節)ということを先に学んだ。困難も神の愛のしるしと受けとめることができない場合、どうなるかと言うと、40年間荒野を旅したイスラエルの民のようになってしまう。彼らは、神に反抗し、不平とつぶやきをくり返し、不服従に生きた。神は言われた。「この民はいつまでわたしを侮るのか。・・・いつまでわたしを信じないのか」(民数記14章11節)。「いつまでわたしを信じないのか」とは、「いつになったらわたしを信頼してくれるのか」という嘆きである。神に信頼する者は困難な状況でも服従することを選び取る(9節)。服従は信頼の行動である。

第二に、霊的成長を目指し、訓練を受ける。成長という訓練の目的が今日の箇所で幾つかの表現で言われている。「私たちの益のため」(10節)とある。私たちを害するためではない。また「私たちをご自身の聖さにあずからせようとして」(10節)とある。神の聖さにあずかるための訓練である。「聖さ」とは罪と対峙するものと言ってよいだろう。液体でも固体でも、純化する過程で、熱を加えたり、火を通したり、ろ過したりと、様々な行程を通らせられる。私たちも様々な行程を通らせられる。聖さについては、後半でまた見たいと思う。訓練の目的は「平安な義の実を結ばせるため」(11節)とも言われている。義は罪に勝利した姿。

著者はこの後、私たちをレースに引き戻す。(12,13節)。ここで、競技の比喩、レースの比喩に戻っている。「弱った手と衰えた膝とをまっすぐにしなさい」(12節)。「弱った手と衰えた膝」とあるが、加齢により、手足の筋肉は衰え、関節はすり減り、痛みも覚える。リウマチ等の病も手伝う。だがここでは、信仰の手足のことが言われている。困難でよろよろになった信仰の姿の描写であろう。ゼパニヤ3章16節では「気力を失うな」という励ましのことばがある。直訳は「手を垂れるな」「手をだらりと下げるな」である。ここでも疲れて気力を失うことが念頭にあると思われる。私たちは、こんなのではだめだ、シャキッとしなくてはと思うことがある。著者は、主にあってシャキッとしなさいと命じているのである。途中、リタイアしないためである。

「また、あなたがたの足のためには、まっすぐな道を作りなさい。なえた足が関節をはずさないため、むしろ、いやされるためです」(13節)。走ることに疲れて関節を外しそうな者もいる。ではどうしたらいいのかというと、以外にも、道をまっすぐにすることが命じられている。「まっすぐな道を作りなさい」。別に道路工事の命令ではない。これは旧約的な表現である。箴言3章5,6節を読んでみよう。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ。そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる」。「あなたの道をまっすぐにされる」とは、「主のみこころのうちを歩むことができる」「正しく歩むことができる」ということである。そのために、ここでは主に拠り頼む信頼が命じられている。先ほど、愛の訓練には信頼をもって応答する、というお話をしたが、この箇所は徹底した信頼を求めている。「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。あなたの行く所どこにおいても、主を認めよ」というのは、全身全霊を主に預け、どこに行っても一息一息ごとに主に信頼するような信頼である。そうするなら、リタイアしないで、完走に至るわけである。

続いて、警告が記されている(14~17節)。最初のほうで、霊的訓練は罪を念頭においた聖めの手段であることをお話し、また途中、訓練の目的は神の聖さにあずからせるためであることをお話した。この箇所でも聖さが強調され、反面教師としてエサウが挙げられている。エサウはレース失格者の見本でもある。

14,15節が聖さの勧めである。「すべての人と平和を追い求め」(14節前半)と言われているが、おそらく著者は、敵対してくる人たちのことも念頭においているのだろう。著者は手紙の受取人たちが、自分たちからけんかをしたくなる誘惑の中に置かれていたことを知っていた。いじわる、差別、いやがらせ等。こうした場合、ことばで冷静に訴え、話合いし、落ち着きどころを見い出そうとするのと、感情的になってけんかするのとでは全然違う。けんかしたら、益々ストレスのかかる環境になっていく。それはプラスとはならない。「また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません」(14節後半)。「主を見る」の「見る」とは、この場合、主の臨在を知覚するという鋭敏な霊的感覚を意味する。それを可能にするのが聖さであるわけだが、それと正反対のことが15節では「苦い根が芽を出す」という表現で言われている。著者は聖さを失っていることを植物でたとえれば「苦い有害な雑草」をイメージしているようである。日本で言うと苦い有害な雑草で何を思い浮かべるだろうか。ドクゼリなどは普通の山菜のセリと混在して生育しているので、分からずに誤食することが多いと言われている。

著者は有害な植物から不信仰なエサウに話を移す(16,17節)。彼は聖くない人物である。「不品行な者」とあるが、新改訳2017では、これをエサウにかけて「淫らな者」と訳している。エサウはユダヤ人の伝承では不品行な者とされている。彼はここで、「一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売った」と言われているが、このストーリーは創世記25章29~34節に記されている。彼ははらペコになった時、弟のヤコブに対して、長子の権利をお前にやってもいいから、俺に食べさせろとやってしまった。「長子の権利」とは、わかりやすく言い換えると、「神の子となる権利」である。エサウは弟のヤコブと取引して、おわん一杯の食べ物と引き替えに、神の子の権利をヤコブにあげてしまった。それは永遠の祝福の権利である。私たちに言わせれば、それは神の子として天の御国に入る権利であり、永遠の資産を受け継ぐ権利である。エサウはそれよりもおわん一杯の食べ物のほうを選び取ってしまった。それは数時間の満足しか与えないものであった。「おわん一杯、事故のもと」程度は済まされない損失を彼は負った。彼は「俗悪な者」と呼ばれているが、別に、前科何犯とかいうような者ではない。外見は信仰者。「俗悪な者」とは「世俗的な者」と訳せることばで、この世にあっては案外普通の人である。だが、彼は、神の子の権利を低く見る、信仰的でない俗っぽい人間ということになる。ものの見方、考え方が世俗的。信仰の世界に価値を置かない。そうなってはならないということである。

彼の不信仰の度合いは17節からもうかがい知れる。意味がわかりにくいことばは「彼には心を変えてもらう余地はありませんでした」。これをどう解釈するかだが、解釈は二つある。新改訳第三版は、祝福を与える側の父イサクの側で、思い直すことはなかったという意味にとって訳している。この場合の「心」とはエサウの心ではなく父イサクの心であるという解釈。「ヤコブ、お前がどんなに泣き叫んでも、わたしの心は変わらない。長子の権利は弟ヤコブのものだ。思い直すことはない」。もう一つの解釈は、エサウの心が変えてもらう余地のないこと、すなわち、悔い改めという心の変化の余地はもはや残されていなかったこととして解釈する。新改訳2017はこの立場を取り、「彼には悔い改めの機会が残っていませんでした」と訳している。エサウは悔い改めるという恵みも取り除かれるまでに心がかたくなになってしまっていたのだろうか。確かに、ヘブル人への手紙は、背教の後は悔い改めの余地がないことを告げている(ヘブル6章4~6節)(参照;ヘブル10章26~31節)。悔い改めることができること自体、恵みであると知る。

私たちもエサウの邪悪さをくり返していたら、あとは無くなるだろう。私たちの信仰のレースのモデルはエサウではなく、2節で言われている信仰の創始者であり完成者であるイエス・キリストである。私たちは父なる神の訓練を愛のむちと受け止める中で、キリストの心を学び、聖められ、成長し、互いに励まし合いながら、一緒にゴールを目指そう。

最後に、訓練を受ける側の私たちの取るべき態度の三番目についてお話して終わろう。神の訓練の意味はなんとなくわかった。でも、今の状況はあまりにも辛いという方がいるだろう。このような話がある。ある人が苦難の余り自殺したくなった。しかし、その前に教会を訪ね、牧師にこう聞いた。「神が人間を造られたと言いますが、そうだったらなぜこのような苦難を与えられるのでしょう」。すると牧師は、薬局に行って、瓶に入った液体を買ってくるように言った。そしてその人が薬を買って戻ってくると、こう聞いた。「瓶に何と書いてありますか」。「良く振ってお飲みください、となっています」。すると牧師は言った。「そうです。人生に荒波が起こるのは神の摂理です。薬の瓶を良く振って飲むのは、沈んでいる薬効成分を有効にするためではありませんか。しばらく辛抱してみてください。神さまが祝福してくださるでしょう」。「しばらく辛抱してみてください」、すなわち忍耐の勧めである。著者もヘブル人への手紙で一貫して主張していることは忍耐である。12章に入ってからの勧めも、彼らの忍耐を持続させ、増し加えるためのものであった。よって第三のことは、辛抱して訓練を受けるということである。「しばらく辛抱してみてください。神さまが祝福してくださるでしょう」。それは私たちにとっても真実である。