聖書は人生を旅にもたとえているが、今日の箇所のようにレースにもたとえている。皆さんは、学生時代、得意不得意は別として、中距離走、長距離走、マラソンなどを体験されただろう。私は十数キロが最長だった。途中、呼吸が苦しくなって足が上がらなくなってくる。もうこうなると忍耐が勝負というようなところがある。著者が今日の箇所で教えたいことは「忍耐」である。忍耐についてはすでに教えてきた。「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です」(10章36節)。今日の箇所では、忍耐を教えるために、著者は信仰者の人生をレースにたとえている。そのレースは短距離走でないことは明らかである。

長距離走では、先ずマラソンを思い出す。約42キロ走るマラソン競技は19世紀に生まれた競技である。古代の長距離走を調べると、5キロ走るドリコスという競技が一番長い。オリンピックでドリコスは、紀元前720年に開催された15回大会から実施されている。5キロといっても運動靴を履かずに走るので容易ではない。もっと長い距離を走るレースはなかったのかと調べると、古代エジプトでは100キロ走が実施されていたようである。現代、この競技は復活している。いずれ、短距離走でない限り、走るのには忍耐がいる。著者は、忍耐をもって信仰のレースを走り抜く秘訣を3つ教えている。では、忍耐をもって信仰のレースを走り抜く秘訣を順番に見ていこう。

第一は、信仰の先輩たちを見渡すこと(1節)。「こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから」。手紙の受取人たちにとって「雲のような証人たち」とは、旧約時代の聖徒たちということになるだろう。旧約時代の聖徒たちについては11章で取り上げられていた。彼らは、過去の死人ではない。今も生きている。私たちにとって「雲のような証人たち」とは、旧約時代の聖徒たちプラス、さらに1世紀から21世紀までの聖徒たちも入る。その数はどれだけいるかわからない。無数の大群衆である。彼らは私たちよりも先に忍耐をもってレースを走り抜き、神の栄冠を勝ち取った。彼らは「私たちを取り巻いている」。競技場には観客席があって、観客は競技者を取り巻き声援を送っている。古代オリンピックが開催されたアテネの競技場の収容人数は約2~3万人だろうか。起源140年には改修によって5万人収容となっている。ローマの競技場は1万人収容だった。私はサッカースタジアムに行ってJリーグを観戦したことがある。グラウンドでは11人×2のメンバーがプレーをしている。それを取り巻き声援を送る観衆は2~3万人いたと思う。ところが、その何百、何千倍もの信仰の証人たちが、私たちを取り巻いている。そして応援している。ガンバレーと。彼らは皆、信仰のレースの先輩たち。

私は孤独だと言っているのはだれだろうか。確かに自分の生活圏を見れば、クリスチャンは私一人だとか、礼拝に出席しても、せいぜい数十人で、普段は孤独な戦いを強いられていることはまちがいない。けれども、視野を広げれば、世界には大勢の聖徒たちがいるし、天には無数の聖徒たちがいて、私たちを取り囲んでいる。天から応援してくれているのではないだろうか。その人たちは私たちと同じ信仰の戦いを戦った人たちであり、私たちよりもずっと厳しいところを通った人たちも数限りなくいる。これは励ましになる事実である。

第二は、重荷や罪を捨てること。「いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて」。競技者は規定に従い忍耐をもって走り抜くために、自己訓練、自己鍛錬を絶やさない。過重な体重を含め、余分なものは捨てる必要がある。捨てないでいるとペースが落ち、やがては足が止まる。ここでは捨てるものが「重荷」と「罪」とされている。一応この二つには違いがある。

「重荷」と訳されていることばは、それ自体で「障害」を意味することばであるが、罪ではない。罪ではないけれども、捨てたほうがよいもの、手放したほうがよいものである。邪魔なものとして。どういうものであろうか?実は、それは個人によって違う。ある人には重荷とはならず、ある人には重荷となるという風に。たとえば、ともにエジプトで生活したヨセフとモーセを比較してみよう。ヨセフは奴隷の地位から神の導きによってエジプトの総理大臣となった。ヨセフにとってこの高官の地位は、神のみわざのために必要不可欠なものであった。モーセはエジプトの王子であった。けれども、この名誉ある地位は捨てなければならないものであった。同じ信仰者で同じエジプトに生きた二人であったが、重荷となるものは違った。霊的な競技では、ある競技者に妨げにならないことが、ある競技者には妨げになるということが起こりうる。だから、一人ひとりが神のみこころを求めていく中で、何が妨げになるのかを見きわめていかなければならない。この重荷の中には、ある願望、趣味、富、名声、ある生活習慣、やめたほうがいい生活習慣、ある人間関係など、様々考えられるだろう。自分の生活スタイルを振り返っていく中で、潔くやめたほうがいいもの、捨てたほうがいいもの、控えたほうがいいもの、ということが見つかるだろう。未練が残るというものもあるかもしれない。けれども、それは必ずしも必要なものではないはずである。罪ではないけれども、信仰生活を妨げかねない重荷、それが自分にとっては何であるか、考えてみよう。

さて、誰であっても捨てなければならないものは「罪」である。それはここで「まつわりつく」(まとわりつく)ものと言われている。「絡みつく」という訳もある。しつこい、引っ付く、べたべたする。付いて回る、離れないというイメージ。やっかいなものというイメージ。ストーカーとか、酔っ払いとか、べたべた油汚れとか、服にくっつく花の種とか、チューインガム状のとりもちとか、蜘蛛の巣とか、虻とか蠅とか蚊とか、ヤマビルとか、やっかいなものをイメージする。以前、ある冒険家の冒険談を読んだが、体中に大量のヒルが貼り付いているのを知らずに一晩過ごし、血をかなり吸われてしまい、危うく命を落とすところだったという。こうしたまつわりつくものに、罪もその範疇に入れられている。まつわりつくのは、欲が関係しているだろう。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます」(ヤコブ1章15節)。昔、ある少年が、毒蛇の卵だと知らずに、鳥の卵と勘違いして、何個かをお腹にかかえて家に持ち帰ろうとしたら、途中、孵化し、生まれた蛇は少年のお腹を噛んで、この少年は亡くなってしまった。まだ卵のうちに捨てることができれば良かった。欲がはらむと罪を生み、それを放置していると死に至る。

車の事故だが、自宅近くになって起こるケースは高いと言われている。同じように信仰のレースの後半につまずく人は多いと言われる。気の緩みから、気が付いたら罪に絡みつかれてこけるということが起きる。他人事ではないと思わされる。「心の中で思っているだけで行動には出ていない」と変な気の緩みがあると、危険なことになる。また悪い感情をそのまま放置していると、これまた危険である。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません」(エペソ4章26節)。早期に捨てるのに越したことはない。

第三は、イエス・キリストから目を離さないことである。「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」(2節前半)。信仰のレースはいつもどこを見ていたらいいのか、答えは明白である。キリストは人生の旅においては同伴者、そして信仰のレースにおいては先駆者として位置づけることができよう。いずれにしても、キリストから目を離さないことである。レースで後ろを振り返ったり、わき見をしたりする、注意散漫のランナー、うわの空の信仰者であってはならない。でも、わかってはいても気がついたら、というところがある。キリストに対しては意識をいつもONにしておくことである。OFFにはしない。OFFは罪を招く。キリストを見失うだけでなく、自分のことも見失ってしまう。キリストに対して意識をいつもONにしておく。それを習慣づけることである。

「目を離さない」と訳されていることばは、「目を向ける」「見つめる」「目を据える」という意味を持っているので、文字通り、目を離さないということになる。一節と二節は切って訳してあるが、原文ではつながっており、つまり、「信仰の創始者であり完成者であるイエスから目を離さないままで、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。」という構造になっている。キリストから目を離さないということは、忍耐をもって信仰のレースを走る絶対条件となっている。
ここでのキリストのタイトルは二つ。一番目は「信仰の創始者」<アルケーゴス>。このことばの理解を深めるために、他で使用されている箇所を開いてみよう。ヘブル2章10節「救いの創始者」(欄外註別訳:指導者、君)。使徒3章15節「いのちの」(欄外註別訳:源)(新改訳2017欄外註別訳:いのちへの導き手)。以上から、<アルケーゴス>は指導的な役割を果たす創始者という意味が見えてくる。「先導者」とも訳せるだろう。キリストは信仰の道を走り、死に至るまで従順を貫き、勝利を得られた先導者であるということ。いわばパイオニアなのである。ということは、タイトルの二番目、「完成者」でもあられるということ。主は十字架の試練をも忍び、みごと完走し、天に挙げられた。こうして救いの道そのものとなられた。

信仰の創始者であり完成者であられる主は、私たち信仰者の素晴らしい模範になっていることも覚えたい。「イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました」(2節後半)。主はどうやって十字架の試練を忍ばれたのだろうか。十字架は死の苦しみを引き延ばすというえげつない処刑法で、そして当時にあって最も残酷な処刑法の一つであった。それだけでなく、ゴミ人間とみなされた人々に対する公開処刑で、恥さらしもいいところで、ローマ市民権を持つ人々は、この処刑法をまぬがれた。最も人間を辱しめ、最も卑しいこの十字架刑は免除された。ところがキリストはこの十字架刑を忍ばれた。その理由は何か。それは服従の死のあとに来る「ご自分の前に置かれた喜びのゆえに」である。この喜びとは天の栄光のことである。恥と死の苦しみの後には栄光が待っていた。この信仰の創始者であり完成者であるキリストの生涯は私たちの模範となり励ましとなる。

「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」とは、主には、3節にあるように、受難のキリストに思いを潜めることに至る。「あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです」。キリストはなぶりものにされ、痛めつけられ、血だらけになった後、カリバリの丘まで、自分がつけられる十字架を背負って運ばれた。キリストは死に至るまで従順である覚悟であった。そして、キリストは私たちへの愛ゆえに十字架についてくださった。キリストは私たちの代表として、また私たちの代理として十字架につき、その尊い命を捧げてくださった。十字架についたキリストを黙想してみることは有益だろう。フランソワ・ド・サルは言う。「たとえば十字架上のわれわれの主を黙想したいならば、自分が今、カルバリの丘の上にいることを、また、そこでなされ、あるいは十字架の受難の時に主が語られた、すべてのことを見、聞いているかのように想像しなさい」。十字架のドラマを心の中で再現してみるわけである。また、祈りの時、次のように試みる方もいる。「これは私が祈るときの方法である。自分が何をどう祈ってよいかわからないとき、自分のうちにキリストの姿を思い描いてみる。・・・私はこの種の単純なことを試みた。・・・このようにして私のたましいは多くのことを得、成長したと信じている」。

キリストに思いを潜めることにおいて、勝手なイメージをキリストに押しつける人がいる。勝手なキリストイメージを抱かないためには、やはり、聖書を通してキリストを知り続けることを心がけることも忘れてはならない。聖書の中心主題はイエス・キリストであり、イエス・キリストを教えることにある。このヘブル人の手紙はキリストの偉大さを教えることが主眼としてある。手紙の受取人たちはキリストを曇った目で見ていた。結果、信仰の足取りは重くなってしまっていた。私たちはキリストを知り続ける歩みの中におかれている。みことばを土台にキリストを知ることによって信頼をさらに増す。キリストに意識をONにしておくことも当たり前のことになっていく。キリストを愛し、慕う思いが強まっていく。朝に、夕に、日中も、キリストを求め、キリストとともに歩むことを願うようになる。結果それは、道を踏み外したり、元気を失い、疲れ果ててしまい、足が止まってしまうことを防いでくれる。

私たちは主キリストを見るというビジョンを大切にしよう。目まぐるしく忙しいと思われる普段の生活の中で、また自分の弱さや内側の感情ばかりに目を向けがちになる中で、「今、自分は何を見ているのだろうか?心の視野に主はちゃんと入っていたのだろうか。ただ日常の現状に飽き飽きしたり、圧倒されたりで、下だけ向いていないだろうか」。そのようにビジョンの点検をしよう。主を見る訓練を自分に課そう。そして信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さない人生のランナーになろう。