「バラエティ」はお笑い番組という意味ではなく、「多種多様」という意味である。健康のためにバラエティに富んだ食事をすることを心がけている方もおられると思うが、いったい誰が作るんだ、という話にもなるわけである。信仰の姿のバラエティの場合は、神さまが作ると言えるし、私たちの信仰が作るとも言える。信仰によって起こる事がらは様々で、一口に「信仰によって」と言っても、バラエティに富んでいることがわかる。信仰とは一口に述べると、神に信頼することと言えるわけだが、信仰者も様々なタイプがいるし、信仰によって起こる事柄も多種多様である。「信仰によって」と言っても、誰ひとり同じ信仰生涯を送る人はいない。ただし、信仰によって生きるという原則は同じである。

今日の箇所は11章の信仰者列伝の最後である。32節以降は、主に士師の時代と君主制の時代のヒーローの紹介となっているが、詳細は述べておらず、いったい誰のことを言わんとしているのかは、手紙の受取人たちの知識にゆだねられている。では、信仰のヒーローの紹介を見ていこう。

「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得」(33節)~幾人も挙げられるが、士師の時代は劣勢で諸外国に押されていたけれども、領土奪回のために目覚ましい活躍をしたダビデを一番に取り上げることができるだろう。ダビデの時代に約束の地の支配領域は頂点に達した。ダビデは告白している。「神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です」(詩篇60編12節)。

「獅子の口をふさぎ」(33節)~士師のひとりサムソンや、先に紹介したダビデはライオンを打ち倒したが、「獅子の口をふさぎ」という表現において、ダニエルを除外できないだろう。彼はペルシャの王ダリヨスの時代、高官であったが、ご存じのように獰猛なライオンの穴に投げ込まれる。けれども御使いがライオンの口をふさいだので、彼は守られた。その理由を聖書はこう告げている。「彼が神に信頼していたからである」(ダニエル6章23節)。まさしく、彼の信仰の結果であった。

「火の勢いを消し」(34節)~この出来事に関して、よく一緒に取り上げられるのが、ダニエルの三人の友、シャデラク、メシャク、アベデネゴである。彼らはバビロン王の権威のシンボルである金の偶像にひれ伏さなかった時、燃える火の炉に投げ込まれた。彼らはその前に、王に向かってこう宣言している。「私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します」(ダニエル3章17節)。

「剣の刃をのがれ」(34節)~この事例は枚挙にいとまがない。ユニークな一例を取り上げると、預言者エリシャはアラムの大軍に取り囲まれたことがある。召使いが「ああ、御主人さま、どうしたらよいのでしょう」と不安を口にしたとき、こう答えている。「恐れるな。私たちともにいる者は、彼らとともにいる者よりも多いのだから」(第二列王6章15節)。エリシャは御使いの大軍が自分たちを取り囲んでいるのを信仰の目で見ていたので動じることはなく、剣の刃からのがれることできた。

「弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました(「背走させました」新改訳2017)」(34節)~「弱い者なのに強くされ」というときに、ギデオンやその他の勇士を思い描く方は多いと思うが、使徒ペテロに任命を受けローマの司教となったクレメンスは、「弱い者なのに強くされ」の人物の中に、ペルシャの王妃となったエステルも含めている。ユダヤ人虐殺命令が国内で発布された時に、ユダヤ人であった彼女は、命をかけて王に嘆願に出かける。その時の彼女のことばは有名である。「たとい法令にそむいても私は王のところにまいります。私は、死ななければならないのでしたら、死にます」(エステル4章16節)。信仰は弱い人を強くする。女性の方も信仰によって強くなろう。

「女たちは死んだ者をよみがえらせていただきました」(35節)~預言者エリヤはツァレファテのやもめの息子をよみがえらせた(第一列王17章)。エリシャはシュネムの女の息子をよみがえらせた(第二列王17章)。よみがえりの奇跡自体は預言者たちの信仰にかかっていたが、しかし、息子たちのよみがえりは、女たちの信仰に対する神からのプレゼントであったことがわかる。この事例は新約にも幾つかある。先週は十文字教会で秋田伝道隊合同集会が開催され、午後の時間に、講師の玉井邦美先生が、マルタとマリヤの弟のラザロの復活の場面から語ってくださった(ヨハネ11章)。今朝、背景を付け加えてお話させていただきたい。ラザロは死んでほら穴に葬られ、四日経っていた。ユダヤ人にとって四日目は、死体が腐って離れたたましいは戻れない絶望的な日と信じられていた。三日目まではたましいが戻る可能性があると、女性たちは香料を塗りに来ていた。だがキリストが来られたのは四日目。キリストはこの四日目をあえて選んで来られ、墓を塞いでいた石を「取りのけなさい」と命じられた。この命令に躊躇しない者はいないだろう。躊躇するマルタに対して、キリストは言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」(11章40節)。腐乱してどうにもならないというイメージとの葛藤が起こる。だがマルタは主のことばに応答したのである。男たちに石を取りのけさせた。そして神の栄光を拝することになる。主のことばは、私たちに対しても信仰のチャレンジになる。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」。ローマ3章9~21節では、すべての人が罪人であることを立証するために、パウロは詩篇を引用している。詩篇14編3節にはこうある。「彼らは、みな離れて行き、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。また、詩篇53編2,3節でも同様なことが言われている。「神は天から人の子らを見下ろして、神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。彼らはみな、そむき去り、だれもかれも腐り果てている。善を行う者はいない。ひとりもいない」。聖書は、腐って死んでいるというのが罪人の姿であると言う。だがキリストのよみがえりのいのちによって、誰でも新しくなれる。こうした救いの奇跡以外に、主のことばは、不可能と思える様々な事がらに適用できるだろう。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか」。私たちも主のことばにチャレンジを受けたい。

さて、信仰はすべてが勝利、解放という目に見える結果になるとは限らない。信仰による苦難、死というものがあることを、続く35節後半~38節において伝えている。

「またほかの人たちは、さらにすぐれたよみがえりを得るために、釈放されることを願わないで拷問を受けました」(35節後半)~これは旧約と新約の、いわゆる聖書に記述のない「中間時代」に起こった出来事が意識されていると思われる。セレウコス王朝時代のこと、アンティオコス4世(アンティオコス・エピファネス)(紀元前164年没)は、エルサレムで、歴史に残る恥ずべきことをした。神殿で豚を犠牲としてささげ、異教の祭壇を国中に築き、異教の祭りを強制的に執行し、聖書の教え・信仰を禁教とした。聖書を読んだり、聖書を所有している者は処刑に処せられ、安息日の礼拝も禁止となった。徹底した弾圧である。当然のことながら殉教していった者たちが出た。殉教者たちのことばが言い伝えとして残っている。「呪われた悪人よ、あなたは私たちをこの世から取り去るが、宇宙の王は永遠のいのちへと復活させてくださる」。「人の手によって殺されるしか道がなくとも、神が再び生かしてくださると望みを置く。しかし、あなたがたには命の復活はない」。まさしく彼らは、「さらにすぐれたよみがえりを得るために」という希望を告白して、召されていった。

「また、ほかの人たちは、あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられるめに会い」(36節)~預言者エレミヤなどは、ここに記されたことが大方当てはまる。「私は一日中、物笑いとなり、みなが私をあざけります。・・・私への主のみことばが、一日中、そしりとなり、笑いぐさとなるのです」(エレミヤ20章7,8節)。「首長たちはエレミヤに向かって激しく怒り、彼を打ちたたき、書記ヨナタンの家にある牢屋に入れた。・・・エレミヤは丸天井の地下牢に入れられ、長い間そこにいた」(同37章15,16節)。彼は自分の故郷のアナトテの村人たちからも命をねらわれる(同11章21節)。

「また石で打たれ」(37節)~石打の刑の言及だが、これについては、祭司であり預言者でもあったゼカリヤの殉教物語が有名である。彼は不信仰に陥ったヨシュア王の命令によって、主の宮の庭で、石で打ち殺される(第二歴代誌24章20~22節)。キリストもこのゼカリヤの名前を挙げている。「神殿と祭壇との間で殺されたバラキヤのザカリヤの血に至るまで、地上で流されるすべての正しい血の報復がおまえたちの上に来る」(マタイ23章35節)。キリストは殉教していった人たちをひとりも忘れず、心に留めておられる。ここに慰めがある。

「のこぎりで引かれ」(37節)~伝説によれば、マナセ王の時代、預言者イザヤは首都からベツレヘムに逃れ、山地に退いたが、そこで捕えられ、木のこぎりで真っ二つにされたという。

「剣で切り殺され」(37節)~多くの預言者は剣によって殉教していった。預言者エリヤのことばとしてこうある。「イスラエルの人々はあなたの契約を捨て、あなたの祭壇をこわし、あなたの預言者たちを剣で殺しました」(第一列王記19章10節)。あのバプテスマのヨハネも、ヘロデ王によって、首を剣ではねられている。「剣で切り殺され」は、34節の「剣の刃をのがれ」と対象的であることも心に留めておきたい。しかし、どちらも信仰のゆえに起きたことである。

「羊ややぎの皮を着て歩き回り」(37節)~マスコットの着ぐるみとは違う。これは明らかに預言者のことが念頭にある。毛衣は預言者の服装だった。あのバプテスマのヨハネは、「らくだの毛で織った物を着て、腰に皮の帯を締め」と言われている(マルコ1章6節)。これは彼独特の服装ではなく、預言者の定番の服装である。信仰のゆえにこうした人々は、37節後半にあるように、「乏しくなり、悩まされ、苦しめられ」た。「苦しめられ」<カコークセオー>は新改訳2017では、「虐待されました」と訳されている。このことばは、「悪」とか「害」という意味の言葉から派生しており、「悪意をもって危害を加える」という意味を持つ。信仰のゆえに虐待されるということ。そして続く描写では、「この世は彼らにふさわしい所ではありませんでした。荒野と山とほら穴とをさまよいました」(38節)と言われている。預言者エリヤはまさしく、アハブ王と悪女イゼベルに追われ、川のほとり、荒野、山と逃亡生活を続けた。他の預言者たちもそうだった(第一列王18章4節)。

ヘブル人への手紙の受取人たちは、少なくとも、36節の「あざけられ、むちで打たれ、さらに鎖につながれ、牢に入れられ」に近い、またそれと同等の目に会っていたと思われる。「信仰によって」の後半のほうは、信仰によって救出されたとか、勝利を勝ち取ったとか、奇跡を体験したとかいうのではなく、捕えられるし、痛い目に会うし、命を落とすしで、信仰っていったい何だろう?で終わってしまうことが著者の本意ではない。著者はあくまで、地上の一時的な苦しみの後に永遠の報いがあるから、約束を待ち望んでほしいと願っている。やがては旧約の聖徒たちも新約の聖徒たちといっしょに、35節の「さらにすぐれたよみがえり」を含む救いの完成に、ともにキリストによって与る。キリストによって時代に関係なく、すべての信仰者が救いに与る。著者はそのことを最後に、39,40節で語る。

「この人々はみな、その信仰によってあかしされましたが、約束のものを得ませんでした。神は私たちのために、さらにすぐれたものをあらかじめ用意しておられたので、彼らが私たちと別に全うされるということはなかったのです」(39,40節)。これを注意深く読んでいただきたい。40節の「彼ら」とは旧約の聖徒、「私たち」が新約の聖徒である。「全うされる」とは、いわば救いの完成のことで、新改訳2017では「完全な者とされる」と訳している。ある英訳は、「彼らは私たちと連れだって初めて完成に至る」と訳している。旧約の聖徒も新約の聖徒も、いっしょに救いの完成に至ると著者は言いたい。

このことをもう少し詳しく述べよう。旧約の聖徒は、救い主が来臨して救いに与るという約束を得ていた。救い主の来臨を待ち望んでいたわけである。使徒ペテロは第一ペテロ1章10,11節では、旧約の預言者たちは神さまからキリスト預言が与えられた時、「だれを、また、どのような時をさして言われたのかを」熱心に尋ね、細かく調べたと記している。旧約の預言者たちはキリスト預言を与えられ、キリストの来臨を研究していたけれども、キリストを見ずして世を去った。彼らは今、天に召され神のみもとにいるも、救いの完成はまだ先に延ばされている。旧約の聖徒はやがて新約の聖徒といっしょに、キリストにあって束ねられる。旧約の聖徒たちは40節で言われている「さらにすぐれたもの」、すなわち、キリストにある救いの恵みの約束に、新約の聖徒といっしょに与る。ともに救いの完成に至る。キリストの十字架と復活の贖いの効力は、全時代に及ぶ。キリストがすべての聖徒をいっしょに救いの完成に至らしめる。キリストが再臨される時、キリストにある死者がまず初めによみがえり、生きている者たちも天に携え上げられ、こうしてすべての信者がキリストに似た栄光のからだに変えられる(第一テサロニケ4章16節 第一コリント15章42節以降)。

キリスト降誕以前の信者はどうなるのだろう、という心配の声を良く聞くわけであるが、旧約の聖徒もキリストにあって救われるわけである。アベル、エノク、ノア、アブラハムと、それに続く今まで見てきた信仰の先輩方もキリストにあって私たちと一つにされる。

ご存じのように聖書は契約の書である。旧約聖書には、アダムとの契約、ノアとの契約、アブラハムとの契約、モーセとの契約、ダビデとの契約がある。それらの契約は有機的につながっていて、新しい契約にまとめられ、成就されている。新しい契約とはエレミヤが預言した契約で(エレミヤ31章31~34節)で、キリストが十字架の上で流される血がその証印となる契約である。この新しい契約については、すでにヘブル人の手紙8,9章において学ばせていただいた。キリストが罪の赦しのために流された犠牲の血は、新約の聖徒たちのためだけではなく、旧約の聖徒たちのためでもあった。キリストの十字架は全時代に輝く。

さて、今日のタイトルは信仰の姿のバラエティである。私たちには唯一の救い主がいる。そして、信頼するという信仰姿勢も同じである。しかし、目に見えるところにおいて、信仰の姿はカラフルというかバラエティに富んでいる。誰ひとりとして同じ信仰ドラマを演じることはない。あの十二使徒たちにおいてさえ、出かけて行ったところ、成し遂げたこと、体験したことがそれぞれ違っている。

最後に、ヨハネの福音書21章18~23節を読んで終わろう。ペテロはキリストから、これからの後の彼の人生ストーリーの大枠を告げられたとき、ヨハネのことが気になって、「この人はどうなりますか」と質問した。キリストは、「あなたにはかかわりないことだ。あなたはわたしに従いなさい」と、服従を命じた。ほんとうに人は人である。身体能力や賜物をはじめ、人生の道筋を比較しても仕方がない。うらやんだり、なぜ自分はこの道であの人はそうでないのか、と思ったところでどうなるわけでもない。試みの種類も違う。ある人は若くして殉教、ある人は長寿を全うするまで証人として生きることを求められる。ペテロはネロ皇帝の時代に逆さ磔になって殉教するが、ヨハネは比較的長生きしたようである。それは神さまが決めたことである。

私たちに求められていることは、それぞれが生きて働く信仰を発揮するということである。神は唯一と信じているだけなら悪霊どももそう信じているとヤコブは語っている(ヤコブ2章19節)。だから、ただ知識として持っていることが信仰ということではない。イエス・キリストが三位一体の第二位格の神の御子だと信じているだけでも仕方がない。イエス・キリストのすべての要素を信じて信頼する、ということが信仰の姿である。私たちは自分の人生これからどうなるのだろうということで、わからないことも多々ある。ただ私たちは、自分の人生に神のみこころがなるようにと意志で歩み、信仰を働かせ、私たちも世々の聖徒たちの信仰のドラマを引き継ぎ、神の栄光を拝させていただこう。