ヘブル11章の信仰者列伝で、本日、注目するのは遊女ラハブである。彼女を見い出したのは、イスラエルの偵察隊であった。本日は、この物語を、現代の私たちに適用したいと思っている。すなわち、現代のラハブを見い出しましょう、ということである。

30,31節はヨシュア記2~6章が背景となっている。30節の奇跡は、ヨシュアたちがカナンに侵入し、最初に攻略することになったエリコの奇跡を記している。その古代都市は難攻不落の要塞都市であった。戦いに長けた警備隊も城壁付近に配置されていた。そう簡単に攻略できそうにもない。その立ちはだかる壁を前にヨシュアが自問自答を繰り返していた時に、主の軍の将として御使いが現れ、ユニークな戦略命令を出す。それを要約すると「七日の間、エリコの城を回る」というものであった。祭司たちを先頭に一日一回回り、七日目には七回回った。そして角笛を吹き鳴らし、ときの声をあげた時、要塞は陥落した。地震によっただろう、と推測することもできよう。しかし、聖書は、「信仰によって」と宣言する。科学的には地下の陥没や地震によったと説明できたとしても、神のタイミングで、神が定めた場所で、彼らの信仰によって陥落したという真実がそこにある。

31節前半の記事は、エリコ陥落前の出来事である。ヨシュアはエリコを偵察するために二人の斥候(スパイ)を派遣する。彼らはラハブの家に泊まった。というか、ラハブが彼らをかくまった。捕まらないようにと。エリコの人たちは怪しい男たちの存在に気づいた。斥候たちはラハブの家に逃げ込む。斥候たちはラハブのおかげで命びろいする。

似たような逸話が、昨年、NHKのファミリーヒストリーで紹介されていた。さだまさしの祖父についてである。さだまさしの祖父はシベリア出兵にともない、ウラジオストクに赴任。表向きは新聞社の通信員だが、本業はスパイ。ある時、身分がバレそうになり、追っ手に追われて、日本人の女主人が経営する小料理屋に逃げ込む。その女主人は、彼をかくまい、追っ手には「その人なら出て行きましたよ」と言って、彼を助ける。二人はほどなくして結婚。さだまさしの祖母は肝っ玉が据わっていた方で、ある時は、ロシア兵を怒らせ、銃口を向けられたことがあった。「撃つなら打て」と平然とした態度で、ロシア兵は引き金を引いて、幸い銃弾は外れたが、彼女は微動だにしなかったという逸話も残っている。

ラハブは二人の斥候に対してどうしたかというと「穏やかに受け入れた」とある。文字通りには「平安をもって受け入れた」ということ。大切な来客を受け入れるかのように受け入れた。それは、どうしてなのかと考えたい。斥候たちがラハブの家に入ったのをかぎつけた者がいた。そこでエリコの王はラハブの家に人を遣わし、斥候たちを差し出すように命じる。だが彼女は王の命令を恐れず、あくまでも彼らをかくまうことに決める。ここまでする彼女の動機は何なのか。単に、自分のいのちと自分の家族のいのちを救うことが動機のすべてであったのではない。彼女は言う。「あなたがたの神、主は、上は天、下は地においても神であられるからです」(ヨシュア2章11節)。これで偵察に来た人たちを平安をもって受け入れた理由、またエリコの王の命令も恐れないで彼らをかくまった理由がわかった。エリコが攻略された時、ラハブの信仰のゆえに、彼女とその家族は聖絶の対象とはならず救い出された。それで終わらず、イスラエルの民に加えられることになる。マタイ1章の系図によると、彼女の夫の名前はサルモンで、彼女はルツの夫となるボアズの母となる。つまり、ダビデの曾祖母(ひいおばあちゃん)になる。こうして彼女は、単なる異邦人というだけではなく、遊女でありながらも、救い入れられ、キリストの系図に名を連ねることになる。もし彼女がイスラエル人を「平安をもって受け入れる」ことをしていなかったら、命の保証はなかっただろうし、よみの世界で永遠に苦しむ遊女で終わっていた。しかし彼女は今、天の御国に。信仰は雲泥の差を生む。

さて、本日これから話していきたいことは、31節の新約版を私たちもやっていきましょう、ということである。どういうことだろうか。次に、新約聖書ルカ10章1~9節を開いて読もう。ここはキリストが七十人の弟子たちに対して、「平安の子」を捜し見つけるように命令と指示を与えている場面である。私たちも平安の子をみつけるように召されている。ここから、二つの原則を見ていきたい。

原則1「祝福を祈る」

5節「『どんな家に入っても、まず、この家に平安があるように』と言いなさい」。

他所の家に行ったら、玄関先、家に上がって問わず、その家の祝福を祈ろう。口に出す出さない問わず、祝福を祈ろう。「平安があるように」とは、ヘブライ的祝福の祈りである。ヘブライ語<シャローム>は豊かな意味をもつことばである。「完全、安全、健康、繁栄、幸福」等を意味する。この文脈では、単に、その人の安全や健康を祈るということだけではなく、神の救いを祈ることである。神の救いが一番の祝福である。祝福を祈るように言われている「家」<オイコス>は、この場合、「家族、家中の人たち」を意味する。「どんな家に入っても」と言われているので、すべての家で祝福の祈りを祈ることを実践しなければならない。私たちは他所の家に行く機会は多いだろう。そうしたら必ず祝福を祈りたい。

6節「もしそこに平安の子がいたら、あなたがたの祈った平安は、その人の上にとど

まります。だが、もしいないなら、その平安はあなたがたに返って来ます。

祝福の祈りを祈ることを躊躇する必要はない。反応が思わしくなくとも、「その平安

はあなたがたに返って来ます」という約束が、私たちを勇気づける。祝福を祈って損は全くない。私たちは、たとい相手が誰であっても祝福を与えたい。もし祝福と反対の態度を示したらどうなるのか。次のようなみことばがある。「彼はまたのろうことを愛したので、それが自分に返って来ました。祝福することを喜ばなかったので、それは彼から遠く離れました」(詩篇109編17節)。まちがっても、こうであってはいけない。

さて「平安の子」とは何を意味するのか。秋田県民も、よく「子」をつける。「お茶

っこ」「薬っこ」など。「平安の子」、これもヘブライ的表現であるが、「子」のもつ意味は広い。息子、弟子、友人等々。「子」を使った表現の例では、「家の子」は家族の一員のように親しい友人のことである。「死の子」とは死に値する人、あるいは死ぬべく呪われた人のことである。「会話の子」は会話の相手である。「平安の子」とは、「友好的な人」のことである。この人は、協調性があり、他の人々を受入れる善意の人である。この文脈では、「平安の子」とは、友好的で弟子たちを歓迎してくれる人と言えるだろう。ちょうどラハブのように。そして、それは単に、この人の人柄について言われているだけではなく、「あなたがたの祈った平安は、その人の上にとどまります」と言われていることからわかるように、神の国の祝福に与る人のことである。私たちは、人々に神の国の祝福を与えるために召されている。

原則2「相手に仕え、福音を伝える」

9節「そして、その町の病人を直し、彼らに、『神の国があなたがたに近づいた』と

言いなさい。」

「その町の病人を直し」を私たちに適用するとどうなるだろうか。私たちに適用すると、傾聴して、具体的な課題を聞き出してお祈りし、隣人愛を実践することと言えるかもしれない。どんな人でも、問題を抱えている。良き相談相手になって仕えることができる。そして、実質的で実体のある祝福をもたらすことができる。

続いて福音を伝えることである。「神の国は近づいた」もヘブライ的背景で理解しなければならない。ヘブライ語の「国」<マルフート>は、「王」<メレフ>と語根を同じくし、「王国」を意味する。王が支配する、それが「国」である。よって、「国」には「支配」の概念が強い。「神の国」は「神の支配」と言ってよい。

キリストはルカ11章20節でユニークなことを言われている。「しかし、わたしが、神の指によって悪霊どもを追い出しているなら、神の国はあなたがたに来ているのです」。キリストによって神の支配は始まった。

10章9節に戻ろう。「神の国があなたがたに近づいた」の「近づいた」は、ヘブライ的文脈では、時間の意味よりも、空間の意味で理解されるべきものである。つまり神の国の近接である。それはもうすでに来たに等しい近さのことで、だから、先のルカ11章20節のみことば「神の国はあなたがたに来ているのです」があるのである。マタイ21章31節では、キリストはパリサイ人たちに対して、「まことに、あなたがたに告げます。収税人や遊女たちのほうが、あなたがたより先に神の国に入っているのです」と告げているが、神の支配に入るという意味で、神の国は、今ここで入ることができる近接した世界である。どうやって神の国入るのか。神の国の王とはキリストであるので、キリストを信じることによって神の国入ることが許される。だから私たちはキリストの福音を伝え、神の国に平安の子を招くのである。それは私たちにとって、悔い改めとキリストの十字架と復活の福音を伝えるということである。自分のことばで救いの証というスタイルで語ってもいいし、その人の興味があることを切り口にして話すのでもいいし、とりあえず伝道的な文書をお渡しするということでもよいだろう。

私たちも平安の子を捜そう。神さまがその人との出会いを与えてくださることを願いつつ、祈りつつ過ごし、どの家に行っても、また誰と会っても祝福を祈り、そして平安の子に対して隣人愛の精神で仕え、福音を伝えよう。