前回より、信仰者列伝から学んでいる。信仰の定義の一つには、神が約束されたことを信じる、ということがあろう。今日の箇所では「約束」ということばが5回登場し、神の約束と、それを信じる信仰が強調されている。模範として取り上げられているのが、信仰の父とされるアブラハムである。

私たちは約束があるからこそ、行く手に何があるのかわからなくとも踏み出すことができるし、でこぼこ道やぬかるみも、忍耐をもって歩むことができる。道が途絶えてしまうように見えても、新たな道を信じることができる。アブラハムがそうであった。

著者が描いているアブラハムの個人史は、神の召しを受けてメソポタミアを去るところから、ひとり子イサクを全焼のいけにえとしてささげるところまでである。ポイントは、アブラハムが確固たる服従をもって神の約束に応答したということである。この姿をキリスト者の模範として提示している。

アブラハムの故郷は古代メソポタミアの都市ウル。考古学の発見から、月の神を拝む中心地であったことがわかっている。ヨシュア記24章2節より、アブラハムの父テラは、この地で「ほかの神々に仕えていた」ことがわかっている。アブラハム召命の物語は創世記12章に記されている。神はアブラハムに対して、生まれ故郷を出るように命じる。その時、土地の所有と子孫の繁栄と世界規模の影響をもたらすという祝福を約束する。75歳の時である。8節にあるように、「どこに行くのかを知らないで」出て行った。彼は長旅の後、約束の地に入るも、9節にあるように、在留異国人として生き、天幕生活を送った。彼が約束の地で実際に所有した地は、妻サラを葬ったヘブロンにあるマクペラの洞窟以外は何もなかった。けれども、彼にあせりはない。というのは、彼が望み見ていた最終の約束の地は、天の都だったからである。それは10節で、「堅い基礎の上に建てられた都」と表現されている。アブラハムの出身地のウルは沖積地と言って、砂や泥などが堆積してできた軟弱な地盤である。しかし彼が望み見ていた約束の地は堅固な神の都である。この都の設計士、建設者は人ではなく神である。この都は今すでにあるが、まだ完成していない都でもある。この都の描写はヨハネの黙示録21章にある。それは、完成した御国、新天新地の描写である。アブラハムは黙示録の著者である使徒ヨハネよりも二千年前の人物である。私たちの時代からは40世紀も前の人物である。にもかかわらず、私たちもまだ見ていない完成した御国を、信仰の目で見、待ち望んでいた。第二ペテロ3章13節には、「私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます」とあるが、アブラハムもこの待望信仰に立って、地上での生活を形づくっていた。彼は遠い先を見通し、地上では旅人として、寄留者として歩んだ。すぐ目の前のものしか見えない霊的近眼ではなかった。私たちもアブラハムの信仰にならって、「御国が来ますように」と祈り、御国を待ち望むのである。御国はアブラハムの時代より、ぐっと近くなった。

私たちの罠は、やはり失望である。キリストは失望しやすい私たちの性質を知っておられ、警告を発せられたことがあった。「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか」(ルカ18章8節)。これは主が再臨される時代、「神なんか信じていたっていいことはない」と失望してしまう人が多く出ることを予見しての主の警告である。いつまで経っても何も起こらない、時代は悪くなるいっぽうだ、本当に主は来られるのか、御国は来るのかと。主のことばは、失望してはならないことを教える文脈の中で語られている。ヘブル人への手紙の著者も、手紙の受取人たちが、続く試練の中で、失望しかかっていることを知っていた。私たちは失望ではなく、常に希望を持てる人種のはずである。主の約束は真実であるゆえに、約束に基づいた希望をもてるはずである。

アブラハムの約束に基づく信仰は、御国を待ち望むということとともに、子孫を待ち望むということがある。アブラハムは老いていくも、100歳と90歳のカップルに子どもが与えられると信じていた。ヘブル人への手紙の著者は、これにサラの信仰も加えている(11~12節)。サラへの身ごもりの御告げの物語は、創世記18章9~15節に記されている。開いて読んでみよう。彼女は男の子の身ごもりの約束が与えられても、年老いてしまった私には無理でしょう、と心の中でつぶやき、笑いがもれた。ここだけ見てしまうと、サラの信仰に疑問が湧く。心に留めたいのは14節の御使いのチャレンジである。「主に不可能なことがあろうか」。これから後、このことばを、彼女は黙想の中で、くり返しくり返し練りはんだだろう。「主に不可能なことがあろうか・・・主に不可能なことがあろうか・・・主は約束を実現してくださる」。サラの信仰は熟成していった。そして時が来た。約束の実現である。創世記21章1~2節を開いて読んでみよう。「主は、<約束されたとおり>、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ」。

アブラハムの最大の試練が、イサクの結婚前に訪れることになる。それは、自分の身に災いが降りかかるとか、そういうこととも少し違う。信仰が試されるという試練である(17節)(創世記22章)。イサクをささげなさい、との命令が神さまより下る。これはかなりつらい。それは100歳の時にようやく与えられた息子、しかもひとり子であるというからだけではない。イサクは約束の子であるということが関係している。アブラハムに与えられた約束は、生まれてくる子を通して子孫が繁栄して、天の星のように、海の砂のように増え広がるということであった。イサクにすでに子どもが生まれていたのなら問題はない。しかし彼は、まだ結婚前であった。

このイサクを自らの手でほふらなければならないという。アブラハムにとって人生最大の試練であったはず。イサクが死んでしまったら、イサクから出る者が子孫となるという約束は成就しない。「あなたは約束を破るおつもりですか?こんな命令に従えるはずはありません」。そうして、しばらくの間、神と沈黙の戦いを続けたり、あるいは、取り乱した行動に出てもおかしくはなかった。けれども、以外にも、淡々と服従の物語が進行していく。創世記22章を見ると、なんと、イサクをささげなさいと命令があった「翌朝早く」、もう服従の行動に出ている。「翌朝早く、アブラハムはろばに鞍をつけ、ふたりの若い者と息子イサクをいっしょに連れて行った」(3節)。アブラハムはイサクを手離し、ほふる覚悟ができていた。

イサクは約束を実現させるキーマンということで、イサクを養育し、イサクを大事にし、イサクにしがみつきたくなる誘惑がある。手離したくない。寝ても覚めても、イサク、イサク、イサク、となってもおかしくない。しかし、あくまでも、約束の実現はイサクにではなく、神にかかっている。約束を成就してくださるのは神である。アブラハムは人や賜物にすがるのではなく、本当の意味で神にかける信仰があるかどうかを試された。

アブラハムは具体的にはどう考えただろうか。ヘブル人への手紙の著者はその答えを明かす。「彼は、神には人を死者の中からよみがえらせることができる」、と考えました」(19節)。創世記22章ではそのことは言われていないが、「しもべへのことばとして、「私と子どもはあそこへ行き、礼拝をしてあなたのところへ戻ってくる」(5節)とある。アブラハムは信じていたのである。神さまは約束を絶対に破らない、イサクは全焼のいけにえとなっても生きる!彼はこの危機の際にも、神が約束に対してご真実な方であることを疑わなかった。彼は神を信じてイサクを手離し、全焼のいけにえとしてささげた。刀も手にとり、意志的にはほふっていた。アブラハムはイサクをほふったのである。神さまはそれを確認し、刀がイサクに達する前に、アブラハムを止め、近くにいたやぎを全焼のいけにえとするように計らった。

アブラハムは神さまを全能者とする信仰も成長していた。12節にあるように、「死んだも同様」と言われる自分に男の子が与えられると信じる信仰をもった。それは実現した。そして今度は、その男の子が死んでも、神にはよみがえらせる力があると信じた。確実に彼の信仰は成長していた。神がアブラハムに課した信仰の訓練が実った。

著者は19節後半で、「これは型です」と短く述べている。何の型だろうか。キリストの十字架と復活の型であるということである。創世記22章を見ると、イサクは全焼のいけにえに使う薪を自らが背負って山に向かったことがわかるが、2世紀の教父イレナエウスらは、イサクが薪を背負ったのは、キリストがご自身がつく十字架を背負った型であると言う。イサクがささげられたのはモリヤの山と言うが、場所的には、エルサレムである。

イサクの従順はみごとであった。年齢だが小さな少年ではない。イサクは伝承では37歳と言われているが、そこまででなくても、青年期には達していただろう。ユダヤ人歴史家ヨセフスは25歳と言っている。肉体の力は当然のことながらアブラハムにまさっていた。薪を背負える。それだけでなく、いけにえとなる段で、抵抗するのは簡単だったはず。片手でアブラハムを押しのければそれで終わり。それどころか、反対にアブラハムを縛り、祭壇に乗せることもできたはずである。けれども父に縛られるままになり、祭壇の上に横たわった。どうして、こんなことができたのか。アブラハムの信仰がイサクにも根づいていたことはまちがいない。1世紀の聖徒、ローマのクレメンスは、「イサクは何が起こるか確実に知っていたが、喜んで犠牲として連れて行かれたのである」と述べている。「喜んで」と言っても、もちろん戸惑い、苦悩があったと思う。いずれ、イサクの信仰も並みではない。イサクはたいした試みはなかった人物のように思われることがあるが、これは大変な試みであったし、この時の彼の信仰も並ではない。しかし、新約聖書の著者たちは、イサクの信仰について多くは語らない。ヘブル人への手紙の著者も、アブラハムの信仰に焦点を合わせる。

アブラハムは、また偉大な子孫の登場を待ち望んだ。キリストは言われた。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを願って大いに喜びました。彼はそれを見て、喜んだのです」(ヨハネ8章56節)。アブラハムは二千年後の未来の子孫も見ていた。そして確実に、キリストによって全世界に自分の子孫が増え広がることを夢見ていたはずである。使徒パウロは語る。「信仰による人々こそアブラハムの子孫です」(ガラテヤ3章7節)。「あなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」(ガラテヤ3章29節)。

私たちにとってアブラハムの子孫を待ち望むとは、キリストを信じてアブラハムの子孫となる人々が増え広がることを待ち望むということである。ルカ19章には、アブラハムの子孫が見い出される物語がある。何だろうか。ザアカイの救いである。ルカ19章1~10節を開いて読んでみよう。キリストは救いに与ったザアカイにについて、9節で「この人もアブラハムの子なのですから」と言っている。ザアカイは2節で「金持ち」と言われている。金持ちの救いである。これには意味がある。一章前の18章24~27節のキリストと弟子の対話をご覧ください。キリストは、金持ちが神の国に入るのは難しいと言われた後に、「人にはできないことが、神にはできるのです」(27節)と宣言されている。その実証が金持ちと言われているザアカイの救いである。サラが、私にはアブラハムの子はみごもれないと決めかかっていた時に、御使いは「神にとって不可能なことはあろうか」とチャレンジを与えたが、キリストも私たちに、アブラハムの子を産み出させるべく、「人にはできないことが神にはできるのです」とチャレンジを与えている。私たちはこのことばを真剣に受け取りたい。

ある統計調査によると、日本人はバングラディシュのシャイク族に次いで、世界で二番目の未伝ピープルグループとなっている。信じられないかもしれないが、日本は福音が行きわたっていないということで未伝地扱い。日本は民主主義で信教の自由が認められている経済大国である。にもかかわらず、ろくに福音が行きわたっていないということでは、日本人は最大級の未伝民族ということになる。未伝大国である。教会の統合や閉鎖も進んでいる。現在の福音的クリスチャン人口は0.58パーセントにすぎない。皆さんが、その0.58パーセントの中にある。では皆さんの責任は?皆さんに与えられている約束は?それに向かって取り組んでいることは?

今日のタイトルは「約束の実現を待ち望む」ということだが、約束の実現には「人にはできないことが、神にはできる」という信仰とともに忍耐がいる。昭和の時代、「3分間待つのだよ」というキャッチフレーズが流行ったが、待つのは、3分では済まない。約束実現に必要な状況が整っていないということがあるかもしれない。自分に能力はない。助けてくれる人はいない。お金はない。いい反応がない。ないない尽くしである。こうして、あきらめるか。投げやりになるか。自己憐憫に浸るか。周囲のせいにして終わるのか。それとも、約束を求め、約束を握って、祈り求めるところから出発し、約束の実現を目指して、一歩一歩、前に向かって行くのか。その過程で、アブラハムとサラがそうであったように、人間的にはますます望みがないような状況に追い込まれても、「神さま、いったい何を考えているんですか」というようなことを命じられても、私たちは約束に堅く立っていきたい。私たち自身がアブラハムの子孫であるわけだから、アブラハムの信仰を継承し、神の約束を確認し、それを握りしめ、約束の実現を望み見て、希望をしっかりと抱き、どんな信仰のドラマが生まれるのか、楽しみにしていきたい。テレビの仮想現実のドラマを見ておもしろかった終わることなく、私たちが現実の信仰のドラマをこの地上で体験していこう。そして最終的に、ともに約束の地である神の都に入ろう。