11章は信仰者列伝としてたいへん有名。難しいと思われるヘブル人の手紙でも愛されている章であろう。「信仰によって」ということばがくり返しくり返し登場し、信仰の素晴らしさを伝えている。へブル人への手紙の読者たちは、様々な試みの中で、希望を失い、忍耐を失い、この世に押し流される危険があった。そうならないためには、信仰の確信にしっかりと踏みとどまることが求められていた。

著者は11章で信仰の模範を挙げていくが、その前に1~3節において、「信仰とは何か」ということを確認させている。

実は、新約聖書において、信仰には幾つかの用法がある。基本的なのは、イエス・キリストを信じる信仰である(ヨハネ20章31節)。キリストを神の御子、罪からの救い主と信じるなら救われる。キリストを心に信じ迎え入れる。このように、入信に際してのキリストに対する信頼、献身が信仰と呼ばれる。そして信仰とはそれだけではない。単に、入信だけに関係することではない。著者は私たちの目を未来に向けさせ、信仰を、神の約束を信じるという意味でも使っているし、神のことばに寄り頼むという意味でも使っているし、神の御子キリストにとどまり続けること、神への服従という意味でも使っている。

では、1~3節からは、信仰をどのように表現できるだろうか。三つに分けて見ることができる。第一に、信仰とは望んでいる事がらを保証するものである(1節前半)。「保証」と訳されていることば<ヒュポスタシス>は、欄外註にあるように、「実体」と訳せることばであるが、それは、「確かにある、まちがいなくある」ということを表わすことばである。確かにある、まちがいなくある、と信じ受け取ってしまうのが信仰である。1節前半を「信仰とは望んでいる事がらの証明書である」と訳すこともできよう。証明書を宿泊券、お食事券、航空券、ギフト券としてもいいだろう。望んでいる事がらは未来に属する事がらだけれども、それは現実になると確信してしまうこと。望んでいる事がらとは、神が信仰者に約束されたすべての事がらを含むが、それを実体として、確実に受け取れるものとして、アーメンと受け取ってしまう。それが信仰である。

信仰とは第二に、目に見えないものを確信させるものである(1節後半)。信仰は今見ることができないものを本当であると確信させる。神ご自身が目に見えない。特に著者は、まだ見ていない未来に属する事がらを意識しているようである。今見えないからそれは無いということにはならない。また、今見ていないから、それは実現しないということでもない。百年前の人はコンピューターはSFの世界の話で、百年後には登場しないだろうと踏んでいた。しかし今やコンピューター文明である。今見ていないからそれは実現しないと容易に言ってはならない。ましてや神の約束に属する事がらであるなら、それは必ず成る、と信じるべきである。それが信仰である。「確信させるもの」と訳されていることば<エレンコス>は、「証拠」とも訳せる。信仰は目に見えないものが実体としてあることの確かな証拠である。それが本当なら証拠を見せない、と人は言うが、その証拠は私たちの内側にある信仰、確信のことである。信仰のない人は、今見えるものしか信じられない。だから希望も生まれないし、かわいそうである。

信仰とは第三に、神のことばを信じることである(3節)。私たちはこの天地が神のことばによってできたことを知っている。神のことばによる創造は創世記1章に描かれている。「神は仰せられた。『光があれ。』すると光があった」(1章3節)。(詩篇33編6節参照「主のことばによって、天は造られた。天の万象もすべて、御口のいぶきによって」)。神のことばは実体を伴い、必ず成る。神のことばはことばだけで終わってしまうことはなく、神のことばは真実で力があり、ことばはことばどおりになる。それが神のことばの性格である。それは必然的にみことばへの信頼へと私たちを向かわせる。信仰はみことばによって導かれていく。みことばは生きもので、誰もその働きを止めることはできない。それは必ず成る。私たちは絶大な信頼をみことばに寄せるべきである。

次に、信仰者列伝に入るが、今日は三人の人物を見よう。最初の人物はアベルである(4節)。カインとアベルの物語は良く知られているところである(創世記4章)。アベルは羊飼いでカインの弟。カインは農夫。「信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげ」と言われている。参考までに創世記4章1~7節を読んでみよう。どうしてカインのささげ物は受け入れられなかったのだろうか。様々な憶測が飛び交ってきた。献げる心の違いから出発していることはまちがいない。カインは無思慮に献げ、アベルは献身と服従心を込めて献げようとしたことはまちがいない。そして、ささげ物の種類の違いからも考察する必要がある。カインは「地の作物」、アベルは「羊の初子の中から、それも最上のもの」(新改訳第三版)。これだけを見てしまえば、カインは地の作物の中から最上のものを献げなかったので受け入れられず、反対に、アベルは最上の子羊を献げたから受け入れられたのだと判断されてしまう。最上のものかそうでなかったのかの違いだと。カインも地の作物から最上のものを献げれば受け入れられたはずだと。これまでは、そのように解釈がされることが多かった。新改訳の聖書翻訳も、この解釈を読み込んだ訳になっていた。ところが、新改訳2017では、「最上のもの」という訳が「肥えたもの」に改められた。これが直訳。新しい訳は直訳に戻した。すると、自然な解釈が生まれる。旧約の時代のささげものと言えば、犠牲となる動物。ヘブル人への手紙でも、そのことはくり返し言及されていた。血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです」(ヘブル9章22節)と、血を流す犠牲動物が要求されていた。カインとアベルの後のノアの時代でも、ノア自身が箱舟から出た後、家畜、鳥をいけにえとして献げている(創世記8章)。その後のアブラハムも同様である。さかのぼって創世記3章21節では、神が罪を犯したアダムとエバのために皮の衣を作ってあげた記述があるが、これも動物の犠牲の血による贖いが暗示されていると言われている。つまり、カインは、神が要求していたささげ物は動物であると知っていたと思われる。しかし、神を恐れ敬う思いが足りず、地の作物を選択してしまった。7節で神はカインに対して、「あなたが正しく行ったのであれば」と言われているが、このことばに、カインは神の望んでいるささげ物は何であるかを知っていたことをうかがい知れる。動物を献げることが正しく、地の作物を献げるのは正しくなかったということ。しかし、彼は無思慮に、まぁこれでもいいだろうと良く考えもせずにささげ物を選択してしまった。これが手っ取り早いと。不敬神だった。めんどうくさい、これでいいや、とみこころを無視して適当に献げてしまった。彼は農夫だから、動物を持って来れなかったのではという見解もあるかもしれないが、いけにえ制度が確立したモーセの時代であっても、皆が羊や牛を飼う者たちではなかった。キリストの時代もである。けれども、律法の規定に従って、これが神に受け入れられるささげ物と、調達してささげた。カインもそれができたはず。カインとアベルはお互いに物々交換して、互いに作物と肉を食べるような生活もしていたはずである。毎日、顔を合せることができる血を分けた兄弟である。そして、もしかすると、カインは家畜数頭ぐらい飼っていたかもしれない。私の実家は米作農家であったが、牛、やぎ、鶏などを飼っていた。もし家畜を飼っていなくとも、神の要求に応えることができたはずである。できたはずなのにしなかったから、神は受け入れられない。神は不可能なことを私たちに要求されない。アベルは神を敬う思いから「羊の初子の中から、肥えたもの」という、みこころにかなう、しかも自分が用意できた最善のいけにえを献げた。それは信仰から出たささげ物であった。カインは不敬神から神のみこころを考えず、めんどうくさいと自己流のささげ物をしてしまった。私たちもカインとアベルのどちら側に立つか、その選択が迫られている。

二番目の人物はエノクである(5節)。彼は死を見ることがないように天に移された。創世記5章21~24節を開こう。エノクの一生は365年。しかし神とともに歩んだと言われるのは300年。最初の65年間は普通の人だった。転換期は65歳の時に訪れる。その時、何があったのだろうか。長男の出産である。その名はメトシェラ。メトシェラの死んだ年に何が起こったのだろうか。メトシェラは聖書の中で最長寿者である。969年の生涯であった(27節)。彼の死んだ年に大洪水の裁きが起こっている。ある学者は、エノクに息子が与えられた時、来るべき大洪水の裁きの啓示がエノクにあったと推測している。それはあり得る。というのは、ユダの手紙14,15節を見ると、エノクはキリストの再臨とそれに伴う裁きを預言していたことがわかる。私たちも経験してない最後のさばきの啓示がエノクにあった。ならば、それよりはるか手前の洪水のさばきもエノクに啓示されていたと推測するのは自然である。エノクは息子の出産の時期に、世界は滅びるとの啓示を受け取り、神への献身への決意を固めたと言ってもよいだろう。「神とともに歩む」とは、神との親しい関係を表わしているが、この表現は、神と歩調を合わせて人生の旅を歩むことを物語っている。そして、死を見ることなく天に挙げられたということにおいて、キリストの再臨の時に天に携え挙げられる、いわば携挙の恵みに与る信仰者たちの先駆けとなっている。

エノクが神とともに歩む人生の旅において心に留めていたことは、地上の富や名誉や快楽ではなくて、やがて神がくださる報いである。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです」(6節)。エノクは目に見えないものを見るようにして歩んだ、素晴らしい信仰者である。

三番目の人物は、エノクのひ孫である。その名はノア(7節)。彼に関する記述は、大洪水もあって、創世記6~9章と長い。ノアも「正しい人」「神とともに歩んだ」人と言われている(創世記6章8節)。ノアは大洪水という、「まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき」、それを信じた。彼は神の啓示に従って、「家族の救いのために箱舟を」造った。ノアは日毎ののしられ、あざけられたことだろう。「頭が変になっちまったのかい、ノア!」それはどでかい船を造っていたからである。川に浮かべる大きさでもない。しかも、ノアたちが住んでいたところは、一番近い海からも160キロ離れていた。そんな船など、常識から言えば必要なかったのである。けれども、彼は、神のことばを信じる信仰があった。そして、まだ見ていないけれども、そうなると信じた。そして神に服従した。「ノアは、すべて神が命じられるとおりにし、そのように行った」(創世記6章22節)とある。ノアが「家族の救いのために箱舟を造り」ということもみのがせない。私たちは家族や身近な人に、救いの箱舟を備えなければならない。それは私たちにとって、世には愚かに見える十字架のことばを伝えるということである。箱舟に匹敵する十字架は、この世に敵対してしまう。それは「箱舟によって、世の罪を定め」とあるように、この世を罪に定めてしまうからである。人々は罪人扱いされるのを嫌う。人々は罪を捨てないで、罪をもったままでの生活の解決を求めている。ご都合主義である。けれども私たちは、この世を罪に定める十字架を掲げなければならない。救いはここにしかないからである。十字架は確かに世を罪に定める。しかし、それは同時に救いに至る唯一の手段である。私たちは独善的な態度や高慢な態度からではなく、謙遜と愛をもって罪を指摘し、罪はさばきをもたらすことを指摘し、悔い改めと十字架のことばを伝えたい。

世の終わりは確実に近づいている。主の再臨は近い。私たちはただの人のように歩んではならない。信仰に堅く立とう。今日学んだ、アベル、エノク、ノアの信仰に倣おう。また、ノアのように、十字架という箱舟に家族を初めとして人々を招こう。