ダニエル書から、ダニエルたちの信仰について学ぶシリーズの最終回となった。9章は預言の研究において、旧約でも最も有名で、また論争になっている箇所と言って良い。「70週」の意味が古今東西探られてきた。けれども、預言に焦点を置きすぎて、大切なメッセージを見過ごしにしているのではないかと思わされることがしばしある。それは、悔い改めである。

1節に、「メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年」とあるが、前回、6章において、ダリヨス王の禁令によってダニエルがライオンの穴に放り込まれた記事から、ダニエルの信仰について学んだわけだが、その事件があった年のことであろう。紀元前539年のことであると思われる。

ダニエルはこの年に、預言者エレミヤのことばを読んだ(2節)。時代背景だが、ダニエルたちは紀元前605年にバビロニア帝国に捕虜として連行された。これが第一回捕囚である。第二回捕囚は紀元前597年。この時、捕虜とされたのが預言者エゼキエル。エゼキエル書14章14節には、「たとい、そこに、ノア、ダニエル、ヨブのこれら三人がいても、彼らはその義によって、ただ自分のいのちを救い出すだけだ。神である主の御告げ」とエゼキエルの預言がある。エゼキエルもダニエルを知っていた。エゼキエルは、ダニエルたちのようなすぐれた人物がいたとしてもエルサレムの荒廃はまぬがれないと告げたのである。預言者エレミヤはエゼキエルと違って捕虜とはならず、ユダにとどまっていた。そして、そこで預言活動を続けた。後にエジプトに行くことになるわけだけれども。その預言の記述を、ダニエルは、ここバビロニア帝国で読むことになる。それによると、エルサレムの荒廃は70年で終わると記されていた(エレミヤ25章1-2節,10節;エレミヤ29章10節)。

エルサレムの荒廃は、ダニエルたちが捕囚の身となった紀元前605年頃から始まったと計算すると、あと数年で70年の期間が満ちるということになる。彼はそれを悟って、やったー、もうすぐだ、故国は復興すると有頂天にはならなかった。その逆で、3節を見ると、荒布をまとって、灰をかぶっている。しかも断食の祈りである。これらは、悔い改めの表現であった。もともと、エルサレムが荒廃し、神殿も無くなり、離散の民となり、捕囚の身とされたのも、神に対する故意の不従順、神との契約を破った罪のためだった。彼は、この罪に対する悔い改めが不十分であると気づいていた。時は迫っている、真剣に悔い改め、罪の赦しを求めなくては。それがダニエルの心境だった。

彼は罪を犯した事実を、表現を変えながら17回程度告白している(一例~5節)。5節で気づくように、彼は自分を含めたイスラエルの民全体の罪を告白している。20節もご覧ください。「私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し」とある。彼は先のエゼキエルの預言にあったように、神も認める義人。けれども彼は自分の罪を告白し、自分も含めた民全体の罪を告白している。別の表現をとれば、彼は自分の罪の赦しだけを願っているのではないということ。彼は、くりかえし「私たち」という表現を使い、自分のこととして民全体の罪を告白し、赦しを請うている。キリストが教えられた主の祈りも、「私たちの罪をお赦しください」となっている。「私」だけではない。具体的には、「私たち」とは、私たちの場合、家族、地域の人々、秋田県民、日本国民が入ってくるだろう。ダニエルは自分だけが救われればそれでいいとは決して思っていない。この頃、彼は80歳を超えていた年齢と思われるが、民全体のことを思い、真剣に悔い改めの祈りを捧げた。私たちも、そのような祈りをささげているだろうか。

彼は赦しの根拠を何に求めているだろうか。神のあわれみである(18節)。今の時代も、それは同じである。私たちは行いの正しさによって、赦してもらおうとするのではない。私たちには何のいさおしもない。ただ、キリストが成し遂げられた十字架の救いのみわざにすがるよりほかはない。私たちは自分の罪を自覚したときは、ただ、十字架を仰いで、神のあわれみにすがるよりほかはない。

彼が赦しを求める究極の目的は何だろうか。16節を見ると、イスラエルの民は諸国のそしりとなっていたことがわかる。国は壊滅し、神殿も失われていたわけであるから。ダニエルは、自分の国民の名誉回復を願っていたのだろうか。それはそうだが、彼が願っていたのは、主なる神の名誉回復である。17~19節の祈りから、それは明らかである。「主ご自身のために・・・あなたの荒れ果てた聖所・・・あなたの御名がつけられている町・・・あなたの町とあなたの民には、あなたの名がつけられているからです」。当時の戦いの勝利は、その国々の神の勝利とされていた。イスラエルの神の御名は卑しめられていた。ダニエルたちはバビロニア帝国で、神の名誉挽回のために、体を張って信仰を守り抜いていたわけであるが。私たちも、主の御名が、この地で、この国で、そして全地であがめられますようにと、それを最大の願いとしていきたい。

今週のみことばとさせていただいたのは、黙示録3章19節「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい」。ダニエルがまさしく、そうしていた。熱心になって伝道しなさい、熱心になって信仰しなさい、そうしたことは良く言われるかもしれない。しかし、熱心になって悔い改めるということは人気がない。私たちは何に熱心だろうか。主は何に熱心なことをお望みだろうか。だから、ダニエルに見倣いたいと思う。

後半は、70週の預言の箇所である24~27節から汲み取るべきことを汲み取りたい。人々は70週の預言の意味を解読すべく、それこそ熱心にその意味を追い求めてきた。解釈は多岐にわたり、これぞ真理だと言わんばかりに自分たちの解釈を強要する人たちも多い。そもそも、なぜ70週の預言が告げられたのかという、そこに着目することが大切である。ダニエルはエレミヤのことばを通し、エルサレムの回復はエルサレム荒廃から70年後に起こることを知った。しかし、神は御使いガブリエルを通して、真の回復は、24節にあるとおり、「70週が定められている」と告げたのである。そして、神さまが考えていた回復とは、ダニエルが想定している以上の回復で、質も規模も比較にならない。この後、エズラやネヘミヤが帰還して、神殿が再建される。しかし多難は続く。ペルシャ、ギリシャ、ローマの支配と続き、キリストの昇天後は第二神殿が紀元70年に破壊され、虐殺され、ユダヤ人は離散し、その後もご存じのように苦難が続くことになる。罪も不信仰も止まない。完全なかたちの回復は、キリストの再臨を待たなければならない。それは、千年王国、新天新地において成就する。24節後半にそれが記されている。「そむきをやめさせ、罪を終わらせ」と、罪が終わる時代が来る。「咎を贖い、永遠の義をもたらし」と、完全な救いが与えられる時が来る。「幻と預言を確証し」と、預言がすべて完全に成就してしまう時が来る。「至聖所に油をそそぐためである」と、おそらくはキリスト再臨後の千年王国ないし新天新地の時代に、神礼拝が完全なかたちになることが意味されていると思われる。これらは、主の祈りの「御国が来ますように」という祈りが達成される日のことである。ダニエルが悔い改めの祈りの中で待ち望んでいたことは、完全なかたちでは、70週が経てば実現する。

「70週」とはどれくらいの期間なのかということだが、原文では「7を70」である。「週」と訳されていることばは「7」という単位。けれども、この7を「7日」とは解釈しない。この7を「7年」と解釈する。つまり一週間を7年とみなす。どうして一週間、すなわち7日が7年とみなされるのかということだが、聖書では一日を一年と計算する(民数記14章34節、エゼキエル4章6節)。すると、70週は7年×70となり、単純計算では490年となる。ここまでの数字の解釈はほぼ一致を見ている。ここからが解釈が様々に分かれてしまう。

25節を見れば、70週の解釈の起点となるのは「引き揚げてエルサレムを再建せよ、との命令」が出た時であることがわかる。この時から先ず7週ということだが、エルサレム再建命令は計3回出ている。早くは紀元前538年、次は紀元前457年、最後は紀元前445年。どこを起点とするかで、解釈は変わってくる。

ただし、26節の「62週の後、油注がれた者は断たれ」で、誰が断たれたかの解釈はほぼ一致している。すなわち、ここはキリストの十字架刑の預言であるということである。62週とはいつの時点なのかという解釈自体は、キリストが公生涯をスタートした時だとか、エルサレムに入城した時だとか、十字架についた時だとか、様々あり、統一はしてない。けれども、「油注がれた者は断たれ」に、キリストの十字架刑を見ることでは、ほぼ一致している。

27節の「一週」とは、70週の最後の一週のことを指す(7+62+1=70)。最後の一週を過去の事件と解釈すると、紀元70年に、ティトスがエルサレム神殿を攻め落とし、イスラエル国家を壊滅させた事件とみなすことができる。ティトスが「荒らす忌むべき者」であるというわけである。荒らす忌むべき者の解釈は他にも様々ある。また27節前半を荒らす忌むべき者に適用するのではなく、キリストに適用する解釈もある。「多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげものとをやめさせ」とは、荒らす忌むべき者のことを言っているのではなくて、半週、すなわち三年半の間、神のことばを伝え、自らが十字架の上でいけにえとなって動物犠牲制度を終わらせたキリストのことを指しているのだという解釈もある。主張は分かれている。

21世紀の時代に立つ私たちの視座からすると、27節を、完全に過去に成就したものと解釈するのは難しくなる。なぜなら、キリストは世の終わりの預言で、近未来というだけではなく、遠い未来も見通して、「荒らす忌むべき者」に言及しているし(マタイ24章)、黙示録では、世の終わりに登場する反キリストの活動を描写する場面で、「42ヶ月」「1260日」といった期間、すなわち三年半の期間を啓示しているからである(11~13章)。これは偶然ではないだろう。ダニエル書の「三年半」と関係しているはずである。ただし、27節の最後の一週、ないし半週を、未来にもかかわることとする時、70週の計算の問題が出て来る。70週は、一日を一年とみなす計算法によると490年になる。どこを起点に計算しても、旧約時代の暦の数え方で計算しても、とにかく70週ははるか昔の初代教会時代に終わっていることになってしまう。そこでディスペンセーションという神学に立つ人たちは、69週の後に、教会時代と称し、二千年以上の空白期間を設け、その後に最後の一週の7年間を持ってきて、この難題をクリアーしようとした。けれども、こんなに空白期間を設けていいのかという疑問も提示されている。別の解決策として、7年間、3年半を字義通りではなく、象徴的に受け止めて、それをキリスト昇天後からキリスト再臨の時までの期間に当てはめるという解釈もある。誰もが納得する結論は出ていない。

このようにして、人々は、世の終わりがいつ来るのか計算しようと、試行錯誤を繰り返してきた。しかし、解釈が多岐に分かれてしまうようにしているのは、ある意味、神の知恵である。神は、キリストが再臨して世の終わりが来るのは何年、70週が満ちるのは何年と、誰でもが簡単に正確に計算できないように、あえて図られている。70週の預言計算に欠かせないと思われているキリストが十字架につけられた年や降誕された年も、実は特定できていない。聖書や聖書外資料からも、何年から何年の間としか言えないのである。それは神の知恵に思われる。誰にでも簡単に、預言の起点となる年がわかり、キリストの再臨の年や世の終わりの年がわかってしまったら、信仰は退廃するだろう。キリストは言われた。「ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです」(マルコ13章32,33節)。キリストが強調したいことは、しるしを見分けなさい、心備えをしなさい、ということである。神は歴史の枠組みをある程度示し、時を見分けるしるしを示されるが、それ以上はされない。ところが、いつの時代も、不注意な計算をする人が現れ、数字のほうに関心を集中させ、人を惑わしているので、気をつけたいものである。

私たちが、この終末の時代に、何をすべきか、今日の箇所から教えられるのは、預言好きになることではなく、預言に真摯に向き合いつつ、熱心な悔い改めをすることである。家族や同胞の救いも願って、悔い改めを実践していこう。