皆様にも「いつものように」という習慣があると思う。6章はライオンの穴から助け出されたダニエルの物語として有名である。この章を見ると、ダニエルは特に変わったことはしていない。いつものように、いつものことをしていただけである。取りたてて変わったことはしてない。ただ、周りが騒いでいた。ダニエルを妬む者たちは、陰でこそこそし始め、不穏な動きに出、新しい法令が定められ、敵はチョロチョロと動きだしと、周りはあわただしい。ライオンの穴も用意される。この変化の中にあっても、普段と変わらず、誠実に自分の務めを果たし、神を第一としていつものスタイルで生活を送っていたにすぎない。実にクール。どうしよう!と慌てた様子もない。揺るぎない岩なる神に拠り頼み、危機に際しても動じなかった。隣にライオンがいても。クールである。

ダニエルを取り巻く悪いやからは、自分たちが有利になるように、悪知恵を働かせ、こずるいネズミのように動き回っていた。小ぜわしい。また、蛇のように、ずるがしこい姑息な手段に出ようといていた。いやらしい。それに対して、ダニエルは岩なる神に拠り頼み、どっしりし構えていた。

時代は移り変わっていた。ダニエルたちは紀元前605年に当時世界を支配していたバビロニア帝国の捕囚とされ、彼らに仕えていたわけだが、バビロニア帝国はベルシャツアル王の時代に、メド・ペルシャの連合軍によって敗北し、メディヤ人ダリヨスが、バビロンの王として国を治めていた。紀元前539年より2年間である。ダリヨス王の支配下でも、ダニエルは王のコンサルタント的な地位に着こうとしていた。ダリヨスは国を安定させるために、120人の太守を任じた。その上に3人の大臣を置いた。ダニエルは3人の大臣のうちの一人であったが、彼の人格と能力と知恵は他にきわだってすぐれていたので、ダリヨスは彼を首相に任命しようとした(3節)。

このような場合によく起こるのは、まちがった競争心、妬みである。自分より仕事ができる、地位が上である、人気がある、そうなると許せない思いになる。こういう場合にとる方法は、自分が実力をつけて上に出るのではなく、自分の力で簡単に相手の上に出られないと判断すると、相手を誹謗中傷して、相手を低くすることである。自分は努力しなくてもいい。これなら誰にでもできる。相手の評判を落として、自分と同レベルかそれより下にもっていこうとする。一番卑怯なやり方であるが、一番簡単なため、日常茶飯事に行われている。

大臣や太守たちは、ダニエルを低くするために、まずダニエルの欠点探しを始めた。仕事がのろい、不忠実だ、さぼっている、うそをついている、口利きをしている、ごまかしている、賄賂をもらっている、まちがいを隠ぺいしている、相手に害を与えた…どんなことでもいいから非難の材料をみつけようとした。だが、ダニエルの仕事ぶりは、実に誠実で、何の非難の材料も得られなかった(4節)。今で言えば、週刊誌でたたかれるようなことはまずない。りっぱな社会人である。国政に参与する者として完璧だった。模範的信仰者である。

この誠実で、仕事を完璧にこなす男をどうやって訴えたら良いだろうか。誠実すぎる、では訴える材料にはならない。国政に携わる者としての失格のレッテルを、どうしても貼らなければならない。となって、彼らは宗教と政治をからませようとした。宗教的な法令を出して、ダニエルに国家の法令に逆らわせればいい。そうすれば、彼を国政に従わない罪人(ざいにん)にできる。大臣たちは、信仰の面で妥協しないダニエルのライフスタイルを知っていた。それを逆手にとろうとした。

彼らは、名案を思い付いた。それは国政の面で失格のレッテルを貼って失脚させる以上のことである。地位を降格させるといった程度のもではない。ライバルの抹殺計画である。自分たちよりできのいい邪魔者の姿をもう見なくてもいいように消してしまえ、というものである。早く退職することを願っての、職場でのいじめ程度でもない。法の力に訴えて、ダニエルを殺すことにあった(6~9節)。暗殺は非合法。しかし法律に則ってとなれば、合法で殺人にはならない。実質は殺人なのだが。これは、キリストの十字架刑と同じである。

ダリヨスは、今から30日間、王以外の存在に祈願する者はライオンの穴に投げ込まれるという計画に乗ってしまった。むろん、彼らの意図がダニエルの抹殺計画にあることなど知らない。ただ、王の権威を強め、国を安定させるための国家統一手段として得策だと思ってしまった。この方策は、ダニエル書3章で、ネブカデネザル王が、王の権力の象徴として、国家権力の象徴として、金の偶像を造り、金の偶像を伏し拝まない者は火の燃える炉の中に投げ込む、と命じたのと似ている。この時、ダニエルの三人の友は、「もう一回チャンスを与えるから拝みなさい」と誘惑されても、ガンとして意志を変えなかった。

ダニエルは、この法令にどう対処したのだろうか(10節)。選択の道はいろいろあっただろう。30日間、神に祈るのをやめる。これは完全な妥協である。また、窓を閉め切って、誰にも見られないようにして、日に三度祈る。これもあり得た。さらには、夜、みんなが寝静まってから祈る、ということもできた。いずれ、自分の信仰の姿を公けにするのを控える、隠れ何とかに徹するという選択はあり得た。信仰を捨てるよりはましかもしれない。だが彼が選んだのは、「いつものように」すること。誰が見ていようが見ていまいが、法律がどう変わろうが、いつものようにすること。信仰の姿を公にし、神を第一とするライフスタイルを貫くこと。神への誠実を保つこと。小細工はいっさいしない。このあと見る、ライオンから守られる場面は劇的で、そっちに目が奪われてしまうが、先ずは、平常通りに信仰の姿を貫いたダニエルの姿勢に心を留めたい。

ダニエルは見られていることを知っていた。先の法令が何を目的に出されたかも知っていただろう。また敵たちは敵たちで、ダニエルはいつもと同じようにふるまうだろうということを知っていた。知っていたからこそ、あの悪辣な法令を王に認めさせた。敵たちは、ダニエルの信仰姿勢を逆手にとってわなにはめようとした。しかし、神さまのほうが一枚上手である。神さまはまたこれを逆手にとって、ご自身の栄光へと変えてしまう。金の偶像事件の時と同じである。私たちは、マイナスと思えること、苦難と思えることも、神の栄光の機会なのだということを覚えよう。

ダリヨス王は、ダニエルが禁令を破ったことを知って、法令に署名したことを後悔する。後戻りはできない。法令の変更はできない。ダリヨスは、いろいろな策を講じることはできただろう。例えば、ライオンに餌をいっぱい与えて満腹にして、ダニエルに危害が及ばないようにする。傷程度で済むようにする。またはダニエルに鎧を着せてから穴に放り込む。けれども、こういう手段は、王が法令をごまかしているものとみなされてしまう。つまり、ライオンの穴に投げ込むとは死刑を意味していたので。

ダリヨス王はなす術がなかった。最も信頼できて国一番のアドバイザーであるダニエルを失いたくないが、法令どおりにするしかない。あとは、ダニエルの神さまに賭けてみるしかない(16節)。ダリヨスは疑いもなく、ダニエルが信じている神を尊敬していた。

穴の上には重い石が置かれ、封印された(17節)。これは中に入れられた者が出て来られないように以上のことを意味し、だれも、この処置を変えてはいけない、石を取り除いてはいけない、という法的処置である。

王はこの後、宮殿に帰り、食事もとらず、一睡もしないで夜明けを迎える。この間、ダリヨス王は、ダニエルの神さま、と祈ったかもしれない。19節の「王は夜明けに日が輝き出すとすぐ、獅子の穴へ急いで行った」は、イースターの朝、石が立てかけてあったキリストの墓に急いだマグダラのマリヤを思い起こさせる。そして、穴に向かっての一声が感動的である。「ダニエル、生きてるか~、返事をしなさい」程度ではない。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか」(20節)と、神の助けを期待して呼びかけている。神に期待していないと、こういう呼びかけはできない。

奇跡は起こっていた。神は御使いを遣わし、ダニエルの命を守ってくださっていた。ダニエルが無事であったことは、ダニエルの潔白を証明するものでもあった(22節)。それは信仰の観点から述べるならば、ダニエルが神をいかに信頼していたかを証しするものであった。「・・・彼が神に信頼していたからである」(23節)。ヘブル人の手紙11章34節にはこうある。「彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行い、約束のものを得、獅子の口をふさぎ」。

ある人はこう思うかもしれない。法令なのだから、ダニエルをライオンの穴から出したらだめでしょ、と。これは古代中東で広く行われていた神盟裁判(神判)の原理である。神判は、肉体的に危害を加えても死なないと、無罪と認められ、自由の身とされるというもの。例えば、川に投げ込んでも死ななかった、無罪放免とされる、というようなことが実際行われていた。つまり、悪くなかったから神は死なせなかったと認められた。そうして場合、自由になれた。

この後、この策略の首謀者たちとその家族は、ライオンの穴に投げ込まれる。それは、王以外の誰かに祈願したという罪のためではないことは明らかである。王が最も信頼する国の宝を殺そうとした罪に対する裁きである。悪を行う者は自分の悪の力によって滅びる。彼らは自分たちで用意したライオンの穴に投げ込まれる。墓穴を掘った。

私たちは、今日の物語から、信仰を投げない、捨てない、後退させないことを教えられる。神の国と法とこの世の法がバッティングしても、人の圧力かかかっても、信仰の姿を変えないことを教えられる。それゆえに、いやな思いもするかもしれない。

チベットでのあるクリスチャンの証である。チベットの刑罰の方法として、井戸に投げ込み、井戸の口を頑丈に閉めるというやり方があった。ひとりのクリスチャンが迫害され、衣も脱がされ、乱暴に深井戸の中に放り込まれた。その時、右腕が骨折した。彼以前にも多くの人がこの井戸に投げ込まれ、ひとりも出た者がいなかったため、井戸の底は人骨と腐肉の山であった。彼は、死んだほうがはるかにましだと思えた。三日目の夜、神に祈り叫んでいた時、頭上でギィーという音が聞え、鍵が回され、重い鉄の蓋が開いた。人の声が聞え、ロープが降りてきた。彼がロープにつかまると、ロープは引き上げられ、邪悪な場所から新鮮な空気を吸える場所に出ることができた。そして再び蓋が閉められて、錠がかけられる音がした。辺りを見回したが、救出者の姿はどこにもいなかった。右腕の痛みも消えていた。彼は言う。「奇跡の時代は過ぎ去っていない。過ぎ去ったのは人の信仰心である。」

さて、ダニエルの救出のみわざにより、ダリヨス王の心に神への賛美が生まれるという素晴らしい結果となる(26~27節)。この賛美では神の三つの特徴を取り上げている。第一に、この神は「生ける神」であるということ。ライオンからの救出を目撃して、ダニエルの神は生きておられる、と王は実感した。第二に、この神は「永遠の主権」をお持ちであるということ。地上の王国は一時、偉大に思えても滅びうせてしまう。けれども、神の国は滅びることはない。王なる神こそが永遠の主権者、全世界の支配者。その主権は人間界の全歴史に及び、全世界に及ぶ。この神の前に、王である自分といえどもちっぽけな存在にすぎないと悟ったであろう。第三に、「奇跡を行う神の力」である。ダリヨス王は神の力を目撃し、驚嘆した。そこに他の神々にはない力を見た。

以上のようにして、神はピンチをチャンスに変え、危機を通して、ご自身のすばらしさを現してくださった。けれども、これは、信仰者の信仰と無関係に行われたのではない。ダニエルの信仰を通して働かれた。彼の信仰がみわざのチャンネルとなった。私たちはピンチの時に、付け焼刃のように、急に信仰の人になれ、と言われても無理かもしれない。普段から、ダニエルのように神と交わり、神とわたしは一つという関係でいたい。新約的な表現では、私はキリストにとどまり、キリストは私のうちにおられるという関係性でいたい。

最後に、今日の物語から、祈りについても整理しておこう。ダニエルは祈りの勇者であったが、旧約的な特徴を見ることができる。10節を見ると、彼はエルサレムの方角に身を向けて祈っている。これはソロモンの祈りと関係している。第一列王記8章46~51節を見よ。捕囚の地で、イスラエルの神殿のほうを向いて、神にあわれみを祈ることが言われている。その時、神は天で聞き入れてくださる。まさしく、ダニエルはこれを実行していた。「日に三度」祈るというのも、イスラエルの習慣である。詩編55篇16~18節を見よ。ここで「夕、朝、真昼」に祈ることが言われている。ダニエルは、いつものように、これを実行した。私たちは、生活の中で祈りを不動のものとしよう。だが、それは形式的な祈りや、独り言のような死んだ祈りや、睡魔に負ける祈りであってはいけないだろう。神さまにしっかり心を向けて祈ろう。

そして詩編55篇19節以降のみことばも、ダニエルの現状と信仰と、神の救出のみわざを思い起こさせる内容である。ダニエルは、悪質な法令が発令された時、22節を実行したのではないだろうか。「あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。主は決して、正しい者がゆるがされるようにはなさらない」。私たちも、このみことばを実践し、このみことばの深みを体験しよう。すべてが主の栄光に変えられるように。