世界のすべての領域、歴史のすべての時代に、全知全能の神の御手が働いている。空を飛ぶ一羽の鳥さえも、いや虫一匹さえも、神の支配からのがれることはできない。神はすべての被造物を支配しておられる。そして歴史の一コマ一コマも、神の御手の中にある。世界を創造された神は、歴史の完成に向けて、新天新地に向けて、すべてを動かされる。神はその存在において、知恵、力において無限であり、絶対主権をもつ偉大なる神である。

それに対して、人間は有限であり、存在において、時間的にも、知恵においても、力においても、あらゆる面において限界がある、ちっぽけな存在にすぎない。けれども、いつの時代にあっても、人間は、神に反抗し、自分を神のようにして、自分の思い通りにすべてをコントロールしようとする。それをご存じの神は、すべての事柄を用いて、私たちの自我を砕き、傲慢を認めさせ、へりくだらせ、ご自身の前でひれ伏させようとしている。

今日の物語にもバビロニア帝国の王ネブカデネザルが登場する。彼は当時の世界にあって、強大な権力を誇っていた。そして前回3章で学んだように、自分の権力の象徴として、高さ27メートルにも及ぶ巨大な金の像を造らせた。そして、それを拝むことを法律で定めた。彼は、あたかも自分が世界の主権者であるかのようにふるまっていた。凝縮して述べると、自分が神であった。わたしの権威、威光を全世界に輝かすのだ!けれども、4章1~3節をご覧ください。彼は変わってしまった。「神の絶対主権、永遠の主権を認めよ、このお方こそあがめられるべきお方だ」という書簡を諸国に送りつけた。3章の彼とは別人のような姿である。いったい彼に何が起こったのか。

きっかけは、彼が一つの夢を見たことによる(4,5節)。神さまは、夢を通して働かれるということがある。その夢を恐れたネブカデネザルは、ダニエルに夢の説き明かしを依頼した。ネブカデネザル王が見た夢とは、天にまで届く大きな木のビジョン(10~12節)。その木は成長して、実に大きくて強そうな木となり、葉は美しく、実もりっぱで、木の下では動物たちが憩い、木の枝では鳥たちが宿っているというものであった。私たちはダニエルの説き明かしを待つまでもなく、この夢が何を意味するか、だいたい想像がつく。大きな木は世界的権力を主張するネブカデネザル自身を表わしているとともに、バビロンの強大な権力を表わしており、獣や鳥は、諸国民がその支配下に置かれ、バビロンの恩恵を被っている姿を表わしている。この夢は、当時の世界の現況をそのままを伝えている。

だが、バビロンは神の国と同等のものなのだろうか。かつて日本が神の国として、アジア侵略、世界支配の野望を抱いていたように、バビロンも向かうところなんとやらで、突き進んでいた。けれどもバビロニア帝国は神の国ではない。ネブカデネザル王は人間であって神ではない。神はこのような誇大妄想をいつまでもほうっておかれることはない。

ネブカデネザル王の夢には続きがあった(13~16節)。それは、この大木は切り倒されてしまうということ。切り株だけになってしまったその木は鎖をかけられて、獣と草を分け合うようになるということ。これは、ネブカデネザル王の身に何かが起こるという暗示である。ネブカデネザルは、この夢の部分を恐れたわけである。

ダニエルはネブカデネザル王の身に起こることを説き明かした(24~26節)。それはショッキングな内容であった。全天全地の主権者であるかのような誇大妄想に憑りつかれていた彼だが、そこから獣の様にまで、ドーンと落ちてしまう。25節に「あなたは人間の中から追い出され、野の獣とともに住み、牛のように草を食べ、天の露にぬれます」とあるが、精神医学的には、獣化妄想ではないかと言われる(自分は獣だと思い込むこと)。その期間は25節後半で「七つの時」と言われるが、これは特定の期間を意味する。それは神が定めた期間である。この期間は、神がネブカデネザル王を徹底的に砕くための期間であった。私たちも振り返ってみれば、あの期間、この期間と、悔い改めさせようとする神の御手、間違っていることを矯正しようとする神の御手の働きがあったことを覚えるだろう。すべてには神の時がある。

神がネブカデネザル王に求めていたのは悔い改めであった(27節)。ネブカデネザルの最大の罪は傲慢の罪である。ダニエルは支配者としての彼に足りない部分である具体的な罪も指摘して回心を迫る。これは大胆なふるまいであった。王の命令一つで、近親者といえども死刑になった時代である。ダニエルはネブカデネザル王との信頼関係を築き上げることができていたからこそ、この大胆な発言ができたとも言えるかもしれない。私たちも、間違っていることは間違っています、と指摘しなければならない場面が訪れるだろう。媚びたり、口ごもったりせず、しかし謙遜になって指摘するわけである。

さて、ネブカデネザル王はその後どうなっただろうか。彼の夢がダニエルの言う通り実現する。それは彼の高慢の絶頂期に訪れた(29,30節)。彼は、宮殿の屋上からバビロンの建造物を眺めて、栄光を自分に帰した。「この大帝国は、私のために、私が築き上げたものだ。私の権力、威光をほめたたえよ」。彼は「私、私、私」と、すべて自分に帰し、神には何も帰さなかった。「私は、私が、私のおかげ」と自意識過剰の口が渇かないうちに、さばきの宣告が天から下り、彼は人間以下の獣のようにされる(33節)。彼は、この後、理性が戻ってきた時、自分を生かしてくださる神を見上げるようになる。

ネブカデネザル王のこの歩みは、キリストのたとえ話の放蕩息子のそれに似ている。父親を恐れる気持ちがまったくない息子。金持ちのうちは良かったが奈落の底に突き落とされる。お金が無くなったところに、飢饉のダブルパンチを食らう。ぶたのえさでがまんしようと思ったが、そのえささえも分けてもらえない。お前に食わすよりぶたに食わしたほうがましだ、というわけである。舞い上がっていた金持ちの息子は、ぶた以下に見られるまでに落とされる。その時、彼は我に返って、悔い改め、父のもとに立ち返る。ネブカデネザルも同じような行程を通らせられた。

彼は自分を神々のように思っていたが、自分は滅びうせる獣に等しい、ちりに等しいと気づき、傲慢を悔い改めさせられた。彼は知った。自分は神の恵みによって生かされている者にすぎないことを。神のお許しがないならば、本来、何もできないことを。  そしてそれだけではなかった(34~35節)。彼は知った。神が全世界の主権者であられることを。その主権は全天全地に及ぶことを。神の権威と支配をまぬがれるものは何もないことを。神の主権はとこしえからとこしえまでも続くことを。神には誰も言い逆らえないことを。神に服従すべきことを。「私の力でやった。私の知恵でやった。私は偉大だ。私以上に偉大な者はない。全地は私のものだ」。このように尊大であった彼は、大きく変えられた。それは彼の37節の告白からもわかる。「今、私、ネブカデネザルは、天の王を賛美し、あがめ、ほめたたえる。そのみわざはことごとく真実であり、その道は正義である。また、高ぶって歩む者をへりくだった者とされる」。

世界で一番最初にキリスト教国となったのは、アルメニアである(トルコの隣、アララテ山の麓、先祖はノアの玄孫と言われている)。アルメニアはローマ帝国に先んじて、301年にキリスト教が国教となった。使徒のタダイとバルトロマイによって福音が伝えられたことにちなんで、「アルメニア使徒教会」と呼んでいるが、国教となったきっかけは、トルダト大王の回心である。トルダトはキリスト教徒を迫害していた時に、謎の病にかかってしまう。理性を失って四つん這いで野山を駆けまわるようになり、ネブカデネザルのそれと同じである。彼はグレゴーリという聖職者によって癒され、信仰を持つに至る。

ネブカデネザル王のこの記事を読んで、昭和天皇のことも思い出した。昭和天皇は1946年1月1日に人間宣言をしたことで知られているが、キリスト教に一番接近した天皇としても知られている。開戦後、皇后は1942年~1944年の間、キリスト教徒の野口幽香(ゆか)を宮中に招き入れて、聖書の講義を受けていた。天皇はそれを黙認していた。そして敗戦後、天皇はキリスト教徒と頻繁に会い、女性牧師の植村環(たまき)からは、皇后とともに聖書講義を受けている。昭和天皇はキリスト教に改宗したといううわさが立つほどになった。立場上、改宗できなかったのではないかとも言われている。昭和天皇のキリスト教への接近については、昨年、新聞や雑誌でも報じられていた。

私たちの願いは、その人の立場問わず、ひとりでも多くの方がまことの神に立ち返っていただくことである。日本の場合、日本的霊性との戦いがある。日本では何にでも神の性質を見ようとし、何でも神にしてしまう。人間も容易に神になる。聖書に関心があり、聖書をかなり研究したと思われる日本人の本を読んだことがある。神は創造主であることを認め、聖書の預言も信じ、キリストの復活や再臨も信じているように読めた。けれども神道的神観から離れることはできず、このように述べている。「人は自然の一部であり、天の一部であり、宇宙空間の一部であり、宇宙創造力の一部であり、その究極的本源は宇宙根本創造主にある」。「記紀(古事記と日本書記)は、人にも、宇宙にも、自然の力にも同じ『神』の名を冠している。人も自然も形を変えた神であり、創造の冠たる人の中に、創造主から大地に至るまでの全ての性質が凝縮されているのだ」。結局、この方は、創造主を認めているようで、神道の神観から離れられないでいる。

江戸末期に活躍した秋田市手形出身の有名な国学者に平田篤胤(あつたね)がいる。彼は復古神道の大成者として知られている。復古神道は尊皇攘夷論に影響を与え、倒幕の指導原理ともなり、王政復古を実現させた。開国に際し、伊藤博文らは、それまでの仏教、儒教では、欧米列強に対抗できないと考え、皇国中心主義の復古神道を用いようとしたと言われている。これが国粋主義を助長させ、戦前、戦後、天皇を現人神(あらひとがみ)として絶対化するまでに至る。実は、平田篤胤は、神道にキリスト教を混ぜてしまった教えを体系化したことで知られている。彼は、イタリア人宣教師マテオ・リッチが書いた中国語のカトリック教理書の内容や一文を、神道教理に組み込んでしまったことは良く知られている。彼は創造神を説く。天地世界を創造した神はアメノミカヌシノカミとし、アメノミカヌシノカミは始めもなく終わりもなく天上に坐します、とした。アダムとエバの物語は日本からの輸出とした。死後に人の霊魂は審判を受け、善なる魂は永遠の命を受けるとした。死後の世界を主宰するのはオオクニヌシとした。平田篤胤の教えは、キリスト教の盗用とまで揶揄されることがある。いい意味では、キリスト教に接近してくれた。けれども彼は創造主の存在を認めるも、自然でも人間でも何でも神にしてしまうという、専門用語で述べると、「汎神論」の世界から抜け出ることができなかった。先に述べた人もそうである。そして復古神道は極めて偏狭な皇国中心主義なので、国家神道の土台となってしまい、天皇を現人神する道を開いてしまった。

聖書が創世記から黙示録に至るまで戒めているのは、人間を神のようにしてしまう傲慢である。創世記3章を見ると、エバは、これを食べれば神のようになれるという悪魔の誘惑にだまされ、禁断の実を食べてしまう。創世記11章では、人々が神のようになって名をあげようと、天にまで届けとバベルの塔を建設し、神のさばきに遭う記事がある。今日の記事に見るように、自分を神のようにしようとしたネブカデネザル王も神に懲らしめを受けた。使徒の働き12章では、ヘロデ・アグリッパ王が、群衆から「神の声だ。人間の声ではない」と賛辞を受け、いい気になっていた時に、神のさばきで虫にかまれて息絶えたことが記されている。虫一匹で死ぬ存在が神ではない。黙示録19章では、終末の時代に出現する反キリスト、自分を神、メシアと自称する「獣」と呼ばれる人物が、神にさばかれ、火の池に投げ込まれることが記されている。

人間は神のかたちに造られた存在だが、神ではない。そこをはき違えてはならない。ネブカデネザル王のへりくだった姿と、その告白にならいたい。私たちクリスチャンといえども、自分を何様だと思っているのかと神さまに言われかねないことになる。人からの賛辞を求めるパリサイ人になったり、神の主権を無視し、自分の思い通りに人生をコントロールしようとしたり、祈らず、感謝せず、神を知らない人と同じように毎日を送ってしまったり、すべては私のおかげと、神の栄光を横取りしたり、神の恵みを恵みとしなかったりということが起きてくる。つまりは、私たちは高ぶりやすいということである。高ぶった自分の死に場は十字架である。そこが私たちの一番ふさわしい場所である。私を何だと思っているのという憤慨の気持ちを、神や人に対して持ってしまったら、自分はちりにも等しく十字架で死すべき罪人であることを思い起こそう。そして、ただ神にのみ栄光を帰し、神の偉大さを証ししていこう。