主がともにおられるという事実は幸いなことである。今日の物語は「主がともにおられ」という記述が4回登場し、目立っている。明らかに、今日の物語のキーワードである(2,3,21,23節)。では、主はだれとともにおられるのだろうか。「主がともにおられる」という記述は、創世記ではアブラハム、イサク、ヤコブに見られる。「主がともにおられる」ということは、明らかに主の祝福を意味する。創世記以降を見ると、モーセ、ヨシュアといった人物に対して、主がともにおられることが記されている。新約聖書を見ると、主イエスは弟子たちに対して、「見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます」(マタイ28章20節)と約束されている。主イエスはご自身を神の救い主と信じ、従おうとする者たちとともにいてくださるのである。だから、私たちも、「主がともにおられる」ということは何を意味するのか考えてみよう。良く言われるのは、「主がともにいてくださるから大丈夫よ、守ってくださるから」といったものだが、確かにそれはそうだが、ヨセフの場合、奴隷として売られ、そこで嫌疑を投げかけられ、監獄に入れられてしまう。けれども、ヨセフには主がともにおられたのである。主がともにおられることイコール自分が望んでいる環境にいるということではない。主がともにおられることイコール自分のしたいことができているではない。主はヨセフの望まない環境にあって、そこでヨセフを祝福し、祝福の存在とし、ご自身の計画を摂理の御手をもって進めようとされた。
39章は物語としては37章から続く。「あのミディアン人たちは、エジプトでファラオの廷臣、侍従長ポティファルにヨセフを売った」(37章36節)。そして、39章1節である。「一方、ヨセフはエジプトへ連れて行かれた。ファラオの廷臣で侍従長のポティファルという一人のエジプト人が、ヨセフを連れ下ったイシュマエル人の手からヨセフを買い取った」。「イシュマエル人」は商人であるミディアン人のボスで、売買の交渉にあたったのはミディアン人だが、商品の権利はイシュマエル人にある。イシュマエル人はヨセフをエジプトの役人の一人に売る。これも神の摂理である。ヨセフを買った「ファラオの廷臣で侍従長ポティファル」について簡単に説明しておく。「ファラオ」はエジプトの王の呼称である。ポティファルは王の役人ということになる。「侍従長」という役職が実際どのようなものであったかわからない。護衛、警備といったことを担っていたかもしれない。「ポティファル」という名前は、「ラーが与える」という意味である。「ラー」はエジプトの太陽神である。ヨセフはこの役人の家で仕えることになる。こういった人物の家は、美しい庭やバルコニーがあり、二、三階建ての立派な家である。大理石の壺、絵画、美しい敷物、手掘りの椅子などが身の回りに置かれていた。夕食は金の食器に盛られ、部屋は金の灯柱で照らされた。家庭内では生演奏の余興を楽しんだりした。家族は上の階に住み、ヨセフのような召使いは一階に住んだ。
ヨセフはくさらず召使いとして忠実に仕えたようである。彼は強靭な心の持ち主なのだろうか。彼はもちろん、奴隷として連れて来られる過程で、自分を愛していた父親のことを思ったであろうし、また父親のえこひいきによって兄弟たちの憎しみを買ってしまったこと、そして兄弟たちに殺意まで抱かれたことにショックを受け、家族に対しては複雑な思いになり、心の痛みは消えなかっただろう。しかも見知らぬ地へ連れ去られたことにより、将来に対しては不安を抱き、心に嵐が吹き荒れただろう。ヨセフはどのようにして心を落ち着かせたのだろうか。見落としてならない一つの事実は、彼がエジプトの地に下った時、すでに信仰をもっていたということである。それは、「主がともにおられ」という記述だけではなく、9節で彼が「神に対して罪を犯すことができるでしょうか」と、神の名を口にしていることからもわかる。ヨセフは父親のヤコブの口を通して、信仰の大切さを聞かされていただろう。また父親が歩んだ人生を聞かされてきただろう。父親のヤコブは奴隷にはならなかったが、親元を離れて一人旅を続け、母親の兄ラバンのもとで二十年間苦渋の生活を送ったわけである。その間、主はヤコブとともにいて助け与えられた。その物語を、ヨセフは聞かされていただろう。ヨセフは一人連れ去られても、アブラハム、イサク、ヤコブに主がともにおられたように、自分にもともにおられるのだと、主なる神に人生を賭けようとしたのではないだろうか(2,3節)。この「主がともにおられた」という記述は、単に聖書の執筆者がそう言っているというのではなく、ヨセフ自身、主がともにおられるという確信があったゆえに生まれた記述ではないだろうか。ヨセフは自分のすることが主によって祝福されていることが分かっていたと思われる。心に留まるのは、ヨセフの主人も、主がヨセフともにおられることを認める記述となっているということである。おそらくヨセフは、「私の神がそうしてくださったのです」と、口に出しながら主人に仕えていたのではないだろうか。
ヨセフは忠実に仕え、主人に信頼され、主人の側近、財産管理人にまでなる(4節)。ヨセフは小さな事にも忠実で誠実な召使いであった。ポティファルの家は、ヨセフのゆえに、主の祝福があふれることになる(5節)。ポティファルはヨセフを買い取って良かったと喜んだだろうが、祝福は主がヨセフとともにおられたからであった。ポティファルのヨセフへの信頼は全きものとなる(6節前半)。
だが、順風満帆が続かないのが世の中である。試練や誘惑が来る。主人であるポティファルの妻が関係を迫ってきた。ヨセフはもともと潔癖な性格である。兄たちの悪いうわさを父に告げていた(37章2節)。だが彼の性格だけで、この誘惑を退けたことの説明にはならない。彼は何よりも神を恐れることを知っていた(9節)。彼はポティファルの妻に対して、主人に対して申し訳ないとか、あなたを傷つけることになるとか、そういう答弁をしてはいない。「どうして、そのような悪事をして、神に対して罪を犯すことができるでしょうか」と言っている。彼は神の前に誠実であろうとしている。ヨセフはその後も毎日言い寄られるが、可能な限り近くにいないように努め、しまいには「外へ逃げた」(13節)。ヨセフは徹底して誘惑を避けたのである。
しかし、主人の妻は悪辣だった。自分を避けたヨセフを恨み、避けた行為に対して復讐する。それに用いたのは、引っつかんだヨセフの上着である(13節)。この上着が私を襲った証拠だと家の者たちを呼んで話をでっち上げる(14~16節)。その上着を帰宅した主人にも見せ、ヨセフを犯罪人にでっち上げる(17,18節)。ヨセフはどうも「上着」がついてまわる男である。ヨセフは兄弟たちによって穴の中に投げ込まれるとき、着ていたあや織りの長服をはぎ取られた(37章23,24節)。兄たちはそのはぎ取った長服を雄やぎの血に浸し、ヨセフが野獣によって殺されたかのように見せかけた。今、主人の妻の手に残された彼の上着は、彼を犯罪人に仕立てるために用いられる。ヨセフは上着で損をするということを繰りかえす。
主人はヨセフを怒り、投獄してしまうことになる(19,20節)。このことに少し触れておきたい。主人はヨセフのたぐいまれな誠実さを知っていた。だから全財産をゆだねることまでしてきた。ヨセフに全財産をゆだねてからというもの、大きな祝福が一家に注がれたことも知っていた。主人はヨセフの人柄に全き信頼を寄せていた。そうした中、妻の誹謗中傷、断罪である。14節を見ると、この妻は暗に、主人を非難していることがわかる。「見なさい。私たちに対していたずらをさせるために、主人はへブル人を私たちのところに連れ込んだのです」(14節前半)。家の召使いたちも、主人も、この女性の扱いには手を焼いていたのではないだろうか。プライドが高くてわがままでと。普通、奴隷が自分の妻に手を出したとれなれば、問答無用で処刑にしてもおかしくない。けれども、主人はそうしなかった。しかも、王に仕える人たちが収監される監獄に入れた(20節)。異例の措置と言ってはいいのではないだろうか。主人は家の者たち全員に妻の証言が知れ渡ったことを知っていたので、ヨセフをそのままにできなかったことは確かである。自分の名誉のために、そして家族の名誉を保つという観点から処罰はせざるを得ない。監視カメラで事実を確認できる時代でもなく、処罰という選択は流れとしては必然だが、しかし処刑という選択をしなかった。19節で「怒りに燃えた」とあるが、確かに話を聞いて最初は、「なんだと~、許さん」と、そのような反応になるだろうが、処罰としては軽いと言って良い。そして、王に仕える人たちが収監される監獄に入れられたということが、ファラオの宮廷に仕える高官に接触する機会を生み出す。神の摂理はすばらしい。主は、ヨセフがポティファルの召使いとして一生終わる計画をお持ちではなかった。もっと大きな計画をお持ちだった。だが、この時点で、ヨセフはそのようなことは知らない。親元から離れて見知らぬ地に来て監獄に入れられる、富裕層のお屋敷住まいから濡れ衣を着せられて監獄へ、こうしたことは転げ落ちる奈落の人生にしか見えない。
ヨセフは監獄に入れられてもくさらなかった。正直者は馬鹿を見るということわざがあるが、彼は馬鹿を見てもくじけない。馬鹿を見ても、正直に、忠実に、という姿勢を変えない。自己憐憫に陥って、自暴自棄になりそうなところ、そうはならない。彼は模範囚として過ごす。そして囚人の長となり、目の前の一つひとつのことを忠実に行っていく。
監獄での生活については次週も触れるが、今日は「主がともにおられ」と、そこに焦点を当てたい。主がともにおられたのならば、監獄行きはまぬがれることができたのではないだろうか。だが、そうはならなかった。では、監獄の中では主がともにおられなかったのだろうか。そうではない(21,23節)。やはり、主がともにおられた。主がともにおられたことによって、何が起こっただろうか。ポティファルの家では、召使いとして喜ばれる働きをしたわけだが、監獄では、囚人として喜ばれる働きをし、人望を得た。望まない環境、与えられた務めという枠組みの中で成功した。ヨセフは、お屋敷でも監獄でも、管理という仕事にいそしみ、人に仕え、スキルを身につけていくことになる。主はヨセフともにおられ、その時々のすることに祝福を与えてくださったというだけではなく、まちがなく将来への備えをさせている。
私たちは今日の物語から気づきたい。それは、主がともにおられること自体が祝福なのだと。宮殿に住んで大勢の人にかしずかれ、食べるもの、飲むもの、着るもの、何一つ不自由していなくても、主がともにおられないならば、それは幸せとは言えない。反対に、住込みの召使いであっても、監獄の中に置かれていても、主がともにおられるならば、それ自体が幸いであり、祝福なのである。あるクリスチャンが、捕まえられて、穴の中であったか牢獄であったか、汚くて暗い所に閉じ込められた時、主がともにおられるという圧倒的な臨在に感動して、喜びにあふれたことを証している。ヨセフの入れられた監獄も、王の囚人が収監される所とは言え、環境がいいわけではない。そこは「地下牢」である(41章14節)。おそらく暗い土牢で、環境は劣悪であったと言われている。しかも立場は奴隷の囚人である。奴隷がこの地下牢から出獄できるという勝算はない。奴隷が裁判で争うことなど全く期待できないからである。このような所にいて何が幸いだろうか。だが、「主がともにおられ」に心を留めたい。39章では「主がともにおられ」という記述が何度も出てくるが、先に述べたように、ヨセフ自身、「主がともにおられる」という確信があったのではないだろうか。だからこそ、つらい環境にあってもベストを尽くせたのではないだろうか。彼はともにおられる主にあって、将来の望みをまだ捨てていなかったはずである。彼が37章の時点で見た夢はまだ実現はしてはいない。彼は主にあって未来を見据えていたはずである。具体的にどうなるか思い描けなかったはずだが、自分の人生は終わったと判断しなかったはずである。一時は大きなショックを受けても、主に対する期待は捨てなかったはずである。
今日の物語は、奴隷としてエジプト人に仕える、監獄で過ごすという一見悲哀感ただよう物語であるが、しかし、「主がともにおられた」という事実が、それらを圧倒し、凌駕する。そして、主がともにおられることこそ幸いであるということに気づかせてくれる。主は目に見えない。しかし、主は「わたしはある」というお方であり、ともにいてくださるお方である。アクシデントが続いても、状況は前より悪くなるように思えても、苦しくても、「主がともにおられる」と、この確信を投げ捨ててはならないのである。いや、苦しい時にこそ、この確信を投げ捨ててはならないのである。主は決して見捨てないのである。ともにいてくださり、摂理の御手をもって、その人に対するご自身の計画と、その人を通してのご自身の計画を成し遂げてくださるのである。主がともにおられると確信し臨在信仰に生きる人は、ヨセフのように罪から離れることを学び、落とされても立ち直り、自分の思い通りにならなくとも絶望を回避し、自分の務めを忠実に果たしながら、一日一日を主とともに歩んで行くのである。私たちもそうでありたい。

