本日より、ヨセフ物語から教えられたいと思う(37~46章)。これはヨセフ物語なのだが、2節では、「これはヤコブの歴史である」と記されている。ヨセフ物語は、ヤコブの家系、ヤコブの家族が意識された上での物語である。ヤコブはご存じのように信仰の父と言われるアブラハムの孫である。ヤコブは12人の男の子をもうけた。ヤコブはイスラエル12部族の先祖となる。さてヤコブ家はすばらしい家族であったのだろうか。そうではない。問題だらけの家族である。親も子どもたちも。そして家族の中でいさかいが起きてしまう。11番目の子どものヨセフは兄たちの手によって、奴隷としてエジプトに売られてしまうことになる。今回はそこまでである。私たちはヨセフ物語を通して、自分の人生また家族を神さまの視点から見渡し、主に従う信仰を強めていただきたいと思う。
ヤコブは母リベカの兄が住むハランの地に長らく滞在していた。しかしカナンの地に戻って来ていた(1節)。この頃は、おそらくカナンの地に戻って来て5年ほど経過していたであろう。物語の主人公ヨセフは17歳になっていた(2節a)。ここまでは良いのだが、家族関係がまずそうだぞということを後の文章で伝えている。ヨセフは女奴隷の子どもたちとともにいた。「彼はまだ手伝いで、父の妻ビルハの子らやジルパの子らとともにいた」(2節b)。関係が複雑そうなので、参考に35章22~26節を読んで「ビルハの子ら」と「ジルパの子ら」を確認しよう。問題のそもそもの発端は一夫多妻にある。当時の古代オリエントの慣習にならって、そばめとして女奴隷を通して子どもをもうけていたわけだが、これが関係を複雑にしていた。正妻の子どもとそばめの子どもは衝突しがちになる。「ヨセフは彼らの悪いうわさを彼らの父に告げた」(2節c)。ヨセフはいじわるの気持ちはなく、正義感からそうしていたのかもしれないが、そばめの子どもたちは、「告げ口しやがって、ヨセフのやつ」と対抗心がより生まれただろう。そしてそばめの子どもたちがヨセフを気に入らなかっただけではなく、正妻の子どもたちにしても、ヨセフのことが気に入らなかったようである。その要因を作ってしまったのが父ヤコブの態度であった(3節)。ヨセフは自分が一番愛した正妻ラケルの子で誰よりもかわいかった。それを子どもに着せる服でも表していた。「あや織りの長服」とあるが、実際どのようなものなのかは良くわからないが、長服は地位が高い人や祭司などが着ていたことがわかっている。ひとりだけ飛び抜けてりっぱな衣装ということになる。他の兄弟たちは当然ねたむことになる。私は三人兄弟の末っ子でしかも待ちに待った男の子だったので、姉さんたちから、お前が一番かわいがられてずるいというようなことを度々言われたものである。ヤコブにしてみれば、待ちに待った愛妻ラケルから生まれた長男で、しかも年寄り子で、ヨセフはかわいいに決まっている。だがヤコブの偏愛は目に余るくらいであったのか、ヨセフは兄たち全員から憎しみを買ってしまった(4節)。「穏やかに話すことができなかった」の「穏やかに」は、「平和」<シャローム>ということばが使用されていて、そうではないということだから、ギスギス、トゲトゲ、つんけん、無視、そんな状況が目に浮かぶ。そして、状況はさらに悪化する。最初、今日のお話のタイトルを「ひどい家族」とか「よれよれ家族」としようと思ったが、この家族は、これでも神の家族なのである。
ヨセフは夢を見る賜物があったようであり、二つの夢を見る(5~11節)。一つは兄さんたちの束がヨセフを伏し拝む夢。もう一つは太陽と月と星と十一の星がヨセフを伏し拝む夢。夢と言うのは、古代において神聖な啓示の手段の一つであった。ヨセフはこの夢をお父さんにだけ告げておけばよかったものを、兄さんたちにまで告げてしまう。ヨセフとすれば、それは普段の夢とは違う衝撃的な夢であったので、家族に告げないではいられなかったのかもしれない。だがこの夢が兄たちの憎しみを殺意に変えてしまう大きなきっかけとなった。ヨセフはもうちょっと気の利いたふるまいができなかったのかと、ヨセフのことを世間知らずの「お坊ちゃま」「ボンボン」みたいに称することがあるが、17歳の少年に完璧さを求めるのもどうかと思う。ヨセフはこの後、奴隷として売られた後、ふつうの人には真似ができないような生き様を見せていくことになる。それはすでに彼の中で芽生えていた信仰と無関係ではありえない。
兄たちが羊の群を飼ってシェケムに出かけていた。ヤコブは彼らの安否を知るために、ヨセフを使いとして旅に出す(12~17節)。距離にして4~5日かかる距離である。ヤコブの目が離れたところで何かが起こりそうな予感である。けれども、ヤコブはヨセフに危険が及ぶことなど全く考えずに送り出しただろう。ヨセフにしても、とんでもないことになるとは予想だにしていなかっただろう。とにかく、兄さんたちを見つけなければという一心で出かけて行っただろう。
ヨセフが近づいてきたのを見た兄たちは、ヨセフの殺害を企てる(18~20節)。物語の流れからすると、殺害を強く主張したのは、女奴隷の子どもたちだったかもしれない。殺して穴の中に投げ込み、お父さんには野獣に食い殺されたと弁明するという計画。兄弟が兄弟を殺そうとしたという恐ろしい現実が記されている。これでも神の家族なのである。もし、ヨセフがここで死んでしまったら、ヨセフの夢、すなわち神のご計画は実現してしまわなくなるだが、人がどのように画策しようとも、神の計画は必ず実現するのである。
長男ルベンが彼らの企てを聞き、それを阻止しようとする(21~24節)。彼は長男としての責任感もあっただろうが、父ヤコブに負い目もあった(35章22節)。長男からしてよろしくない。彼の救出策は、一旦穴に投げ込んで、あとで救い出すというものであった。兄弟たちは彼らのねたみの象徴である長服をはぎ取り、ヨセフを穴に投げ込んだ。「その穴は空で、中には水がなかった」(24節後半)とあるが、この穴は貯水槽であると思われる。石灰岩を削って穴にしたものか、穴を掘って漆喰を塗ったものか。一年中、水が溜まっているということはなく、水がない時期もあった。ヨセフは「お願い。やめて」と叫んで抵抗しただろうが、それもむなしく、穴に投げ込まれることになる。ののしりのことばも投げつけられただろう。ヨセフのほんとうの苦難がここから始まる。
長男ルベンの計画は狂うことになる。ルベンがどこかに出かけている間に、四男のユダがエジプトに向かっているキャラバン隊にヨセフを売ってしまうことを提案し、ヨセフを奴隷として売りさばいてしまう(25~28節)。ユダもヨセフを殺してはならないと思っている。けれども彼は、ルベンのように父のもとに返すことではなく、売るという選択をしてしまう。一つだけ混乱するポイントを説明しておく。25節で「イシュマエル人の隊商」となっていて、28節では「ミディアン人の商人たちが通りかかった」で始まり、「イシュマエル人に売った」となっている。兄弟たちが取引をしたのはミディアン人の商人たちである。ミディアン人はイシュマエル人の仲介役をしていた商人で、イシュマエル人が彼らのボスということになる。売り渡し額は「銀二十枚」とある(28節)。これは当時の奴隷一人当たりの相場である。羊飼いの賃金で言うと、二年半分の賃金となる。兄弟たちはこれを手にした。彼らはほくそ笑んだだろう。何に使ったのだろうか。頭数で割ったのだろうか。そしてヨセフはエジプトに連れて行かれることになる。
ルベンが穴のところに帰って来たが、すでに遅し(29,30節)。売られて、しばらく経った後であった。彼は悲しみを表した。彼がすぐに思い浮かんだのは父親の顔だろう。父にどう弁解したら良いのか。皆で殺そうとしましたとか、商人に奴隷として売りましたとか、言えるはずもない。どうしたらいいのか。
そこで、兄弟たちによるアリバイ工作である。野獣に罪をなすりつけるわけである(31~35節)。雄やぎの血に浸したあや織りの長服を父親に送り届けた。32節の彼らのことばはずる賢い。「これを見つけました。あなたの子の長服かどうか、お調べください」。彼らは自分の口で、死んだとも殺されたとも言わない。あなたが判断して決めてくださいといった調子である。自分たちは何も負おうとはしない。ずるさの極みである。手には汚い金がある。こうして彼らはアリバイを成立させる。父親は、ヨセフは野獣にかみ殺されたと判断した。父親は欺かれたままである。ヨセフの実際のところは、36節にあるように、エジプトのファラオ(王)の廷臣に売られたということである。それにしても、なんというひどい家族だろうか。一夫多妻に起因するいざこざ。父親の偏愛。兄弟間の不和。そして殺してしまおうという憎しみ。弟を商品として売りさばくむごさ。親へのうそ、欺き。欺瞞に満ちた関係。これが神の家族なのだろうか。神を信じているという聖なる家族なのだろうか。だが神は、このようなとんでも家族から神の民を形成しようとされたのである。これが事実である。驚きではないだろうか。
37章を見ると、「主」ということばも、「神」ということばも一切出て来ない。では、全く神とは無関係な物語なのだろうか。そうではない。神の摂理を見て取ることができる物語となっている。神の摂理とは、神が主権をもってご自身の計画を成し遂げられるためのみわざである。ヨセフをエジプトに行き、エジプトを、そしてヤコブの家族を救う者となる。それが神のご計画である。ヨセフの見た夢も、やがてエジプトで実現する。神は私たち人間が不完全で愚かで罪を犯すことをご存じである。けれども、そのような私たちの背後で神は働いておられ、人の愚かさや罪を越えたところで、ご自身の計画を成し遂げていかれる。それが神の摂理である。
ではヤコブがヨセフを偏って愛したことは正当化されるのだろうか。兄弟たちがヨセフを殺そうとしたことや奴隷として売ったことは正当化されるのだろうか。そうではない。神は一人ひとりのした行為に応じて正しいさばきをなさるお方である。だから神を恐れ、罪に気づいたなら悔い改めなければならない。ただ、神のご計画は何をもってしても妨げられないばかりか、すべての事柄を取り込んで成就していくということである。一つひとつのことが紡ぎ合わされて、神のみわざは成就するのである。それが神の摂理である。
20節を見ると、兄弟たちのヨセフを殺してしまおうという意志と、ヨセフを殺してしまえばヨセフの夢は無効になるという兄弟たちの考えを知る。「・・・あいつの夢がどうなるかを見ようではないか」。確かにヨセフが死んでしまえば、それで終わりである。神のご計画は失敗に終わることになってしまう。けれども、神はそれを阻止しようとして、ルベン、ユダを用いる。ヨセフは殺されずに済む。ヨセフは兄弟たちの悪意によって、お前なんかお払い箱だと、奴隷として売り飛ばされてしまうが、神はお払い箱になったヨセフを通して、ご自身の計画を成し遂げようとされる。神のご計画は何をもってしても妨げられない。
ヨセフの視点から考えてみよう。エジプトに奴隷として売られてしまうということがわかっていたら、彼は兄さんたちに夢なんか告げなければ良かったと思ったかもしれない。しかし告げてしまった。また、お父さんに体の具合が悪いとか言って、兄さんたちに会いに旅に出なければ良かったと思ったかもしれない。しかし会いに行ってしまった。先々のことは見えていないからそうした。後悔しても手遅れ。けれども、後悔するような動きも、ただの後悔では終わらせないのが神さまである。私たちは後悔することが多いわけだが、ヨセフ物語を通して、ため息が出るような一つ一つのことも神の御手にゆだねていくことができることを学ぶ。皆さんは、様々なことを経験してしまった後で、こうなるとわかっていたら、この仕事を引き受けるのではなかったとか、あそこに行かなければ良かったとか、黙っているんだったとか、様々にあるだろう。おかげで、胃の痛い事態になったとか、怪我してしまったとか、損をしたとか、苦労させられたとか。けれども、そこにも神のご計画がある。ヨセフは神さまに人生の先々を見せられて、奴隷として生きるとか、監獄に入れられるとかわかっていたら、絶対に様々なことを控えたはずである。私も人生の先々のことを見せられていたら、秋田に来る決断をすんなりしなかったかもしれない。ヨセフは一時期、かなり後悔したと思われるが、神はヨセフの思いを越えた計画をお持ちだった。ヨセフもそれを知ることになる。
今日の物語で、タイミングということも考えさせられる。ヨセフが兄弟たちに会いに出かけ、ヨセフが近づいて来た時、兄弟たちは、ちょうど穴のところにいた(22節)。ヨセフを穴に投げ込んで食事をしていると、ちょうどのタイミングでイシュマエル人の隊商が通りかかった(25節)。これは偶然ではないだろう。しかもこの時、29節からわかるが、ヨセフを助け出そうとしていたルベンは、ちょうど留守していた。こうして、ヨセフのエジプト行きは実現することになる。人間的に見れば、悪いタイミングが重なったということであるが、神は時の支配者である。
以上で37章の観察は終わるが、三つのことを確認して終わろう。第一は、ヤコブの家族はお世辞にも良い家族ではなかったということである。過去には妻たちの確執もあったようであるし、37章では父親の偏愛、兄弟たちのヨセフへの殺意、悪意が露骨に記されている。また親子の欺瞞に満ちた関係が描かれている。兄弟たちは、ヨセフばかりをかわいがる父親にすべての責任をなすりつけたい気持ちもあったかもしれない。そして35節では、最愛の息子ヨセフを失ったヤコブの絶望した姿が記されている。「私は嘆き悲しみながら、わが子のところに、よみに下って行きたい」。ヨセフはというと、兄弟たちの悪意で遠いエジプトの地に連れ去られてしまう。全然、円満な家族ではない。
第二に、神はこのひどい家族を放置せず、祝福するということ。ヨセフは奴隷として売られるも、良き信仰の訓練が与えられ、神と人のために用いられる器となる。ヤコブ一族は、やがて飢饉が訪れ、食うものにも困るが、神はヨセフを通して彼らを生きながらえさせるというだけではなく、彼らのよどんだ信仰にも活を入れられる。こうして、ヤコブ一族は祝福を受けることになる。ヤコブのはしための子どもたちも、ヨセフを売ることを提案したユダも、神の民の一員として祝福の中に置かれる。神は、アブラハムにもイサクにもヤコブにも、「わたしはあなたを祝福する。あなたとともにいる。あなたの子孫を星のようにし、あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福される」と約束された。この祝福はうそではなかった。私たちにしてもこの祝福の流れの中に置かれている。
第三に、神の摂理に信頼を寄せていくということである。私たちは自動的に神の祝福に与るわけではない。神の促し、導きに応えていかなければならない。それが懲らしめの鞭のこともあろうし、無意味に思われるような時の経過の中に置かれ、忍耐を強いられるということもあるだろう。しかし、神の摂理に信頼を寄せていくことが大切である。ヨセフ物語はそれを教えている。今週のみことばは、「あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。私のために作られた日々が しかも その一日もないうちに。」(詩篇139編16節)である。朝日新聞の「折々のことば」の欄に、「きっと私たちは、生まれてきたご用があるにちがいない」(工藤直子)があった。神にあって確かにそうである。私たちも神のご計画のうちにある者たちとして、この物語を通して神の摂理をしっかりと見ていき、自分自身を神の摂理の御手にゆだねる信仰を養っていこう。

