車を走らせていている時、「国民ファースト」と記されているポスターを目にすることがある。確かに「国民ファースト」であってほしいと思うが、「国民ファースト」は大衆の欲望に迎合するポピュリズムと何ら変わらないのなら空しい。聖書はそうしたことを念頭に、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つひとつのことばで生きる」と明言している。だから、私たちが願うのは「主のことばが尊ばれるように」(1節)である。
テサロニケの教会に対する手紙も最後の章となった。テサロニケの教会は苦難の中にある教会であった。パウロがテサロニケの教会の苦難を念頭において、第一の手紙、第二の手紙と執筆してきた。苦難の中にある教会であるテサロニケの教会の美徳は愛と忍耐であった。「主があなたがたの心を導いて、神の愛とキリストの忍耐に向けさせてくださいますように」(5節)。あなたがたは愛と忍耐が足りないからというのではなく、ますますそうであってほしいという願いである。テサロニケの教会はパウロも称賛する愛の教会であった(第一テサロニケ4章9,10節)。愛の教会と言えばテサロニケの教会であるが、これからも苦難の中でもめげずに兄弟愛と隣人愛を実践してほしいという願いである。そしてテサロニケの教会は、苦難の中にあって愛の教会であるとともに忍耐のある教会であった。パウロはテサロニケの教会に対して、これからも人の中傷やいやがらせに対して忍耐を保ってくれることを願っている。忍耐の模範はキリストご自身である。キリストはののしられてもののしり返すことなく、愛の生涯を全うされた。パウロはこれまで、彼らの忍耐を強めるために、キリストの再臨を強調することもしてきた。実際、テサロニケの教会は主の再臨を待ち望む教会であった。パウロは彼らの再臨信仰をより強固なものにしようと心砕いてきた。
テサロニケの教会はパウロの賛辞を受けている教会なので、テサロニケの教会に対する調子は明るく、以外と楽観的である。この章でもそれはわかる。「私たちが命じることを、あなたがたは実行していますし、これからも実行してくれると、私たちは主にあって確信しています」(4節)。このようにパウロの信頼を受けている教会であったが、どのようなすぐれた教会であっても、課題というものはある。弱点はある。それが6~15節で記されている。仕事をしない人がいるという問題である。実はこのことについては、第一の手紙4章11,12節ですでに戒めていた。そしてまた第二の手紙でも取り扱う必要性を覚えたわけである。実は、パウロがテサロニケの地で開拓伝道をしていた時に、すでにこのことを戒めていた。「あなたがたのところにいたとき、働きたくない者は食べるな、と私たちは命じました」(10節)。ところが、すぐに改善は見られなかった。仕事をしない者たちがいた理由については第一の手紙でも触れたが、これは、当時の社会構造と関係していた可能性もある。当時は階級社会であった。ローマ帝国の社会階級は階層的で、上流階級が貴族、下層階級が平民。平民は高い階層階級の人々に依存して生活するという構造があった。上流階級の人がパトロン(保護者)となって、下級の者たちを法的、経済的、政治的に支援する。いわゆるパトロンとクライアント(保護を受ける側)の関係があった。この関係は二人の間だけではなく、パトロン一人に対してクライアントは複数ということも普通にあり、クライアントは兵士、植民者、外国人といったように庇護に与った。クライアントは政治運動でパトロンを支援するなどしてパトロンの益のために活動した。パトロンの大義を支持するために公的な活動をした。いわゆるパトロンとクライアントは相互扶助の関係である。もしパトロン依存が念頭にあるのならば、パウロはパトロン依存ではなく主なる神依存の生活となるよう勧めているということである。それは働かないということではなく、自分の手で働くということである。よく、彼らの働かない理由は、主の再臨が間近だと判断して働かなかったのだと断言されてしまうが、それはあくまでも仮説であって、テサロニケ人の手紙で働かない理由を主の再臨と結びつけている文章は、実はどこにもない。他の手紙にも、使徒の働きにもない。より自然な解釈はパトロン依存でパトロンの世話になっていることなのかもしれない。事実は分からない。いずれにしろ、働かないことが戒められている。労働というのは身銭を稼ぐために仕方なくするものではなく、罪がこの世界に入る以前に、人間創造本来の目的として神が定められたものである(創世記2章15節)。だから労働を怠ること自体、不自然である。
よくよく見ると、怠けていると見られている人たちは、活動していなかったのではない。天を見上げてじーっとしていたわけではない。11節で「おせっかいばかり焼いている」とあるが、これは「いたずらに動き回って他人に干渉すること」を意味することばである。このことばは、「過度に歩き回る」ことが字義的な意味である。実に活動的で、家の中で三年寝太郎をやっていたわけではない。でもパウロは彼らの活動を是認していない。彼らの問題は活動していなかったことではなく、誤った活動に手を出していたということである。具体的にどのような活動なのかはわからないが、「頑張ってますね」とほめられる活動ではなかった。
11節に「怠惰」とあるが、このことばは、それ自体、何もしないことを意味することばではなく、「秩序がない」「規律がない」といった意味をもつことばで、彼らが規律に欠けた無秩序な生活をしていたことの証である。無秩序な生活、つまりは「いたずらに動き回って他人に干渉すること」をしていた。それはパトロンのための大義名分の活動であったのだろうか。とにかく、「仕事もしないで何か動き回っているようだけれど、いったい何しているのあなた」という生活。パウロの主にある命令は12節にあるように、「落ち着いて仕事をし、自分で得たパンを食べなさい」、つまりは、自分の生活費を自分でかせぐという秩序ある生活である。
パウロは伝道者なので、伝道の働きを通して教会から生活費を受ける権利が主にあってあったが、彼らの模範となるべく自ら働いていた。ただ、8節前半にある「人からただでもらったパンを食べることもしませんでした」の訳は誤解しないように。人からただでもらったパンを食べることがなかった人はいるだろうか。パンに限らず饅頭とか果物とか。ようするに、ここで言われていることは、日毎の糧である毎食の食べ物をただでもらい受けることを戒めているのである。生活の糧を自分で得ようとしない姿勢を戒めているのである。働ける体があるなら働いて、自分でかせいだ生活費から食費を捻出し、代金を払って食べ物を購入して食べるのが主の御旨であるということである。
もし、こうした主の御旨を無視する人がいたらどうしたらいいだろうか。14節では「交際しないようにしなさい」と言われている。これは交わりを一時的に断つという処置である。これは「断絶します」といったことではなくて、あくまで本人が悔い改めて本来の姿に立ち返っていただくための、一時的な厳しい愛の処置なのである。それは16節の「しかし、敵とはみなさないで、兄弟として諭しなさい」からわかる。実際このような兄弟がいて、他教団の方であったが、交際をお断りしたケースがある。
パウロは、手紙の最後は、いつものように終わりのあいさつをもって閉じる(16~18節)。このあいさつも、テサロニケの教会の現状を意識してのものであろう。「どうか、平和の主ご自身が、どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を与えてくださいますように。どうか、主があなたがたすべてとともにいてくださいますように」(16節)。これは、彼らが置かれていた苦難という環境と無縁ではないだろう。「どんな時にも、どんな場合にも、あなたがたに平和を」ということばに目が留まる。この世に生きている以上、この世との摩擦はある。敵対心をもって接してくる人もいる。降りかかる災難がある。だが、どんな時にも、どんな場合にも、主の平和で守っていただける。この主の平和は、続く「主があなたがたすべてとともにいてくださいますように」という主の臨在と切り離せないものである。平和の主の臨在、それが、どのような環境にも打ち勝つものなのである。主がともにいてくださるという主の臨在については、次週から学ぶ「ヨセフの生涯の物語」からも教えられていきたいと願っている。私たちは何が起こっても、必要以上に動揺すべきではない。主がともにいてくださる。私たちは、何かあると、一瞬で恐れに囚われ、主を忘れてしまうことがある。気をつけよう。
「私パウロが自分の手であいさつを記します。これは、私のどの手紙にもあるしるしです。このように私は書くのです」(17節)。古代はパピルス紙に文字を書くことは、時間のかかるたいへんな作業だった。よって訓練を受けて速記ができる筆記者に口述するのが常であった。口述筆記である。そして最後に口述した本人があいさつのことばを自筆で記した。最後のあいさつを自筆ですることが重要で、これによって、この手紙は正真正銘本人のものであるという証明となった。手紙の出所の正しさは、この自筆のあいさつで証明された。パウロは何を言いたいかというと、2章2節で「私たちから出たかのような手紙によってであれ」と、使徒の手紙に似せたような文書、偽りの教えが出回っていたようであるが、パウロは、「この手紙は信用しなさい。ここに記されていることを信じ、堅く守りなさい」と言いたい。私たちもまた、同じ受け止めをしたいと思う。使徒パウロの教えをはじめとして、聖書に編纂されている各書は揺るがぬ真理と信じ、みことばに聴く姿勢を尊ぼう。
「私たちの主イエス・キリストの恵みが、あなたがたすべてとともにありますように」(18節)。苦難、偽りの教え、さまざまに起こる事柄の中にあって、夕影のように消え去ってしまう弱い私たちにとって必要なものは主の恵みである。
今日最後に共有したいことは、タイトルの「主のことばが尊ばれるように」というパウロの願いである。冒頭の、パウロが願うとりなしの祈りをご覧ください。「最後に兄弟たち、私たちのために祈ってください。主のことばが、あなたがたのところと同じように速やかに広まり、尊ばれるように。また、私たちがひねくれた悪人どもから救い出されるように祈ってください。すべての人に信仰があるわけではないからです」(1,2節)。「最後に兄弟たち」と、主のことばが広まり、尊ばれること、これが使徒の何よりもの願いであることに心を留めよう。このためにパウロはテサロニケで宣教し、続いてペレアで宣教し、アテネで宣教し、そしてこの手紙を執筆している頃はコリントで宣教していた(使徒18章)。パウロたちはどこに行っても反対に遭った。その反対の根源はパウロたちが語る主のことば、福音にあった。主のことばは真理である。だが、たとえばアテネでは「このおしゃべりは、何が言いたいのか」(使徒17章18節)とばかにされ、コリントでは「口汚くののしった」(使徒18章5節)という扱いを受けた。なぜそうなるのか。最大の理由は十字架につけられた方を救い主として伝えたことにあった。古代においては「名誉」ということが重視された。最大の名誉を受けるはずの存在は、神であり王であるキリストである。だがキリストはどうであったのか。名誉を受けただろうか。なんと、十字架についた。十字架は当時にあって最大の恥の場である。名誉と対極にある場所である。誉れとは無縁の底の底である。呪われた場所である。その十字架にキリストはついた。それであるのに、十字架についた方が救い主であるという宣言が主のことばの中心である。これは愚かにしか聞こえないだろう。嘲られるのは目に見えている。だが、パウロの願いはこの愚かにしか思われない主のことばが広まり、尊ばれることにあった。「尊ばれるように」は、協会共同訳また新改訳第三版では「あがめられますように」と訳されている。このことばは「栄光」「賛美」ということばから造られている。「主のことばが賛美されますように」という訳でも良い。使徒13章48節には「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主のことばを賛美した」とある。これを願いたいわけである。なぜそう願うのか。主のことばは真理であり、それが人を救う神の知恵だからである。パウロはそのために悪人からの守りも祈ってくれるように求めている。それは宣教のわざが途絶えてはならないからである。
日本人になじんでいる英語に「ミッション」がある。現代では、娯楽番組を見ていても、ミッションということばが飛び交っている。あなたのミッションはこれですよと芸能人にお題が渡され、それを遂行するといった内容である。ミッションは「使命」と訳されることが多いが、企業や団体の使命を指すことばとして定着してきた。それが今やお笑い番組でも使用されることに。「ミッション」はラテン語の「派遣する」に由来している。そうである。これはキリストが弟子たちに与えた大宣教命令にさかのぼることばである。「全世界に出て行き、すべての造られた者に福音を宣べ伝えなさい」(マルコ16章15節)。この命令に従い、全世界にキリストの福音を宣べ伝えることが、もともとのミッションである。福音宣教を英語では「クリスチャン ミッション」と言う。宣教師のことは「ミッショナリー」と言う。キリスト教系学校を「ミッションスクール」と呼ぶ。クリスチャン共通のミッションとは何だろうか。それは主のことばに関することである。福音に関することである。私たちは「ミッション」という視点で自分の生活を形づくることが大切ではないだろうか。主のことばのために祈り、主のことばを宣べ伝える。私たちは主のことばが信じられ、広まり、尊ばれ、あがめられ、賛美されることを願って、主の再臨の日まで主に仕えていきたいと思う。

