テサロニケの手紙の一つの特徴は、キリストの再臨の教えに字数を裂いていることである。「再臨」は再度の来臨という意味である。キリストの一番最初の来臨の物語は、福音書に記されている通りである。「来臨」ということばそのものの意味は、「人がある場所に来ることを敬って言うこと」であるが、家畜小屋から始まる人生は卑しく、来臨には見えなかった。再度の来臨は、キリストが昇天された後に信者たちが待ち望む来臨である。パウロは今日の区分でこの再臨について教えるが、どこにポイントを置いているのだろうか。先に死んでしまった信者を意識した再臨の教えとなっている。「眠っている人たちについては、兄弟たち、あなたがたに知らずにいてほしくはありません。あなたがたが、望みのない他の人々のように悲しまないためです」(13節)。「眠っている人たち」とあるが、ユダヤ教の伝統でも、キリスト教にあっても、死んだ人を「眠っている」と表現していた。この場合、「眠っている人たち」とは、先に死んだテサロニケ教会の信者たちのことを意味している。生きている信者たちは、先に死んだ信者たちの死を深く悲しんでいた。どういう意味で悲しんでいたのだろうか。「私たちは再臨の主に会えるという希望がある。けれども彼らは主とお会いしないうちに死んでしまった。かわいそうでならない。先に死んでしまったあの人たちはどうなるのだろうか。彼らにどのような希望があるのだろうか。彼らの救いはどうなるのだろうか」。どうやらテサロニケの信者たちは、死者の復活のお教えと主の再臨の教えについて、まだ十分に理解していなかったようである。パウロがなぜ13~18節の教えを記したのか様々な憶測が飛び交っているが、はっきりしていることは、パウロは「眠っている人たち」と言われている信者たちがどうなるのかを教えて、悲しんでいるテサロニケの信者たちを慰め、希望を与えるためであったということである。私たちはこれまで、多くの兄弟姉妹の死を見聞きしてきた。葬儀にも立ち会ってきた。彼らはどうなるのだろうか。いや、私たちもまた、主の再臨の前に地上生涯を閉じるかもしれない。いったい、主の再臨の前に死んだ信者はどうなるのだろうか。パウロはその疑問に答えるために今日の教えを執筆した。
パウロはまず主の復活に目を向けさせる。「イエスが死んで復活された、と私たちが信じているなら、神はまた同じように、イエスにあって眠った人たちを、イエスとともに連れて来られるはずです」(14節)。「イエスが死んで復活された」という言及は、イエスを信じる人も復活するということが念頭にある。主イエスは信じるすべての者たちの先駆けとしてよみがえられた。16節の終わりで「キリストにある死者がよみがえり」とある。そして戻って14節を見ていただくと、このよみがえったキリストにある死者、すなわち「イエスにあって眠った人たち」が「連れて来られる」ということを語っている。「大丈夫、彼らはよみがえり、主とともに連れて来られるのだよ」と。パウロはこのようにして、すでに死んでしまったあの信者たちはどうなるのかと案じていた人たちの不安を払拭しようとしている。またテサロニケの信者たちは、先に亡くなったA兄弟、B姉妹と再会することはできないのかという不安もあったのかもしれないが、主の再臨の時、彼らと再会できるのだという希望を与える書き方にもなっている。
「私たちは主のことばによって、あなたがたに伝えます。生きている私たちは、主の来臨まで残っているなら、眠った人たちより先になることは決してありません」(15節)。主の再臨によって救いは完成するが、その救いの完成の順番は、「眠った人たち」、それに続いて「生きている人たち(私たち)。「眠った人たち」は、このように順番が先になる。めでたし、めでたし。
15節の「来臨」と訳されている原語の意味を説明しておこう。「来臨」と訳されていることばは再臨のカギを握る大切な用語である。新改訳第三版では「主の来臨まで」を「主が再び来られるときまで」と意訳していた。「来臨」の原語は<パルーシア>である。<パルーシア>はこの手紙においてすでに二回使用されている。2章19節をご覧ください。「主イエスが再び来られるときに」の「再び来られる」が<パルーシア>である(直訳「イエスの来臨にあたって」)。また3章13節でも使用されている。「私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒たちとともに来られるときに」に「来られる」が<パルーシア>である(直訳「来臨されるときに」)。新改訳第三版では「再び来られる」と訳されていた。<パルーシア>は通常、「来臨」「到来」「到着」と訳すことばであるが、このことばは特別な存在が来られるときに用いることばである。<パルーシア>は単純に「来ること」を意味することばではなく、通常、神の来臨や、あるいはしばしば神としてあがめられた王や皇帝の都市への公式訪問に使われる用語であった。皇帝の来臨には、建物の建設、豪華な宴会、皇帝をたたえる演説、盛大で壮大な行事が伴った。皇帝の来臨を記念して貨幣が鋳造され、金冠が贈られたりした。また、これを機に新しい時代が始まることもあった。それは特別な来臨であったのである。さて、パウロが教えているのは皇帝の来臨ではなく、人間の王の来臨ではなく、王の王、主の主であられるキリストの来臨。神の救い主の来臨。一度目の貧しい幼子の姿での来臨ではなく、本来の威光に満ちた姿での来臨<パルーシア>である。
先に死んだ信者たちは、このキリストの来臨という最大の祝典から除外されることなく、最初にあずかるのである。テサロニケの教会にとってパウロの教えは大きな慰めとなったはずである。「先に死んでしまったあの兄弟姉妹たちも、私たちと一緒に、いやむしろ私たちよりタイミング的には早く、主の再臨というすばらしい祝典にあずかるのだ!ハレルヤ!」
「すなわち、号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに、主ご自身が天から下って来られます」(16節前半)。主の再臨は「主ご自身が天から下って来られます」という来臨である。そして、この来臨は、密やかにこっそりと臨む再臨ではない。「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きとともに」と言われている。「ラッパ」は演奏の楽器というだけではない。特別な行事の際に吹き鳴らされた。軍事演習、宗教行事、葬列の際などに。目的は、さあ始まりますよと大きな音で告げ知らせるということである。ここでは「神のラッパ」となっており、世の中で使われているラッパと種類は違うのであるが、用法としてはほぼ同じで、大きな音で告げ知らせる役目がある。つまり、主は知らぬ間にこっそりと再臨しようとはされない。
続いて、「そしてまず、キリストにある死者がよみがえり、それから、生き残っている私たちが、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられ、空中で主と会うのです」(16節後半~17節前半)。パウロは眠っている人々のよみがえりに続いて、生き残っている信者たちの「携挙」について説明している。「携挙」という定着したキリスト教用語は、「携え挙げる」と漢字では書く。17節の「引き上げる」から来ている。重力と反対の力が働く。そして「空中で主と会う」。ここで「会う」と訳されている<アパンテシス>も重要な用語である。先ほど、<パルーシア>は王や皇帝の来臨を指すことばであることを説明したが、<アパンテシス>は、王や皇帝が都市を訪れた時、市民や市の職員が城門の外まで迎えに出て、その王をエスコートするために会うときに使用された。ただ、主とお会いする場合、お会いする場所は城門の外ではなく「空中」である。この時、私たちのからだも変化が起きる。「終わりのラッパとともに、たちまち一瞬のうちに変えられます。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです」(第一コリント15章52節)。変えられるは死者のからだだけではなく、生きている者たちも朽ちないからだに変えられる。朽ちる肉のからだは神の国を相続できないからである。「しかし私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることさえできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自分の栄光輝くからだと同じ姿に変えてくださいます」(ピリピ3章20,21節)。このキリストに似たからだとは、それは単に朽ちないからだであるというだけではなく、原罪が消滅したからだでもある。この時が人間にとっての救いの完成の時である。
さて、本日のテサロニケの手紙での再臨の教えでパウロが強調したいことは、すでに眠っている信者たちも生きている信者たちも変わりなく、再臨の主とお会いし、いつまでも主とともにいることになるということである。「こうして私たちは、いつまでも主とともにいることになります。ですから、これらのことばをもって互いに励まし合いなさい」(17節後半~18節)。やがて主とお会いし、いつまでも主とともにいる。これが私たちの希望なのである。苦難の中にあったテサロニケの教会にあって、この再臨の日を希望とすべきだったのである。
本日のパウロの教えは、再臨の教えにおいて重要な箇所であるので、再臨の教義を構築するのに、良く引用される。ただし、パウロがこれを書いた意図とは関係ないかたちで引用されることが多い。いつ「携挙」という事実が起きるのかということで、患難期前に携挙があるだとか、患難期の中頃に携挙があるのだとか、患難期後に携挙があるのだとか、様々に論じられている。だが、パウロはそこに関心を向けさせるために語ってはいない。また、ここでの出来事を「空中再臨」として説明されることがある。しばし再臨を二つに分けて、「空中再臨」から何年も先に「地上再臨」があるというという受け止めが良くされる。しかしパウロは、再臨が二つあるとテサロニケの教会に教えたいがために、これを執筆したのではない。
「来臨」<パルーシア>の用法等を見ると、再臨を二度に分ける根拠はない。再臨を教えるパウロの手紙には、再臨が二度あると教えている箇所はない。テサロニケ人への手紙にもない。全くない。今日の再臨の教えは信者たちと空中で出会うことが中心に語られているわけだが、主イエスが天から再臨して、信者たちと空中で出会い、その後、信者たちともに地上に降りて来るという連続した流れを否定する根拠もない。パウロのどの手紙を見ても、パウロは再臨を一度の出来事としてしか描いてはいない。だから、信者たちは単純に一つの再臨を待ち望んでいれば良いということである。
キリストの再臨の時の姿についても確認しておこう。キリストの再臨の様態は目に見える再臨である。今日の箇所から目に見えない再臨であると主張されることがあるが、16節を見ても、人目につかない目に見えない再臨という印象は抱けない。「号令と御使いのかしらの声と神のラッパの響きのうちに」とある。第二の手紙1章7節でも再臨の様子が記されているが、どう記されているだろうか。「主イエスが、燃える炎の中に、力ある御使いたちとともに天から現れる」。これは、どう考えても、目に見えず気づかず終わってしまう再臨の記述ではない。「天から現れる」の「現れる」と訳されている原語<アポカリュプセイ>は、「覆われているものを露わにする、隠れているものを露わにする」ということばであり、キリストの再臨は誰の目にも見える再臨として描かれている。第二の手紙は、第一の手紙での再臨の教えの補足説明である。別の再臨について語っているのではない。
パウロの今日の教えの執筆の意図を確認しておこう。それは終末論の詳細を語るためではない。そうではなく、あなたがたが心配している眠っている人々も復活し、彼らを含めて主とお会いできるのだから、この再臨の日を希望とせよということである。続けてパウロは、5章では再臨を待ち望む姿勢を教え、第二の手紙では、再臨のしるしとなるのは背教や不法の人の到来なのだから、再臨の時期を混乱して受取り違いしないように教えるという流れとなる。
再臨に関しては様々な立場があることは事実であるが、主が地上に再臨することを信じない教えに耳を傾けてはならない。私はかなり昔、他のグループの先生方の再臨の教えを読んで、えっと思ったことがある。主はペンテコステの日に聖霊として再臨されたとか、紀元70年のエルサレム陥落の時に目に見えないかたちで天に再臨されたというものを読んだ。異端のあるグループは、主は近代になって天に再臨したと主張している。再臨に関しては、主イエスご自身が預言されていて、たとえばマタイ24章20節では、「地のすべての部族は胸をたたいて悲しみ、人の子が天の雲のうちに、偉大な力と栄光とともに来るのを見るのです」と語っておられる。これでも目に見えない天の再臨を主張するのだろうか。主張したい人は主張するのである。主イエスのことばを文字通り受け取ることは幼稚だと言わんばかりに。
また、地上再臨はすでにあったという主張もまやかしである。前にもお話したように、ニューエイジムーブメントのある方々は、人目にふれない地上再臨がすでにあった、再臨したメシアはこの地上に潜伏していると語っている。つまり、主はすでに密やかに再臨されたという主張である。また旧統一教会は、メシアは出産を通して再臨したと言っている。主イエスは、「キリストはここに、あそこにいる」という主張が起こることを予見して、「人の子の到来は、稲妻が東から出て西にひらめくのと同じようにして実現するのです」(マタイ24章27節)と言われ、再臨は誰にでもわかるかたちで起こることを告げている。これを否定しようとするのだろうか。
パウロは、再臨について執筆したことを文字通り信じさせないために執筆しているのだろうか。読者たちは秘儀を秘儀として読解する特別な読解術が必要とされていたのだろうか。そうではないはずである。パウロはテサロニケの信徒たちを混乱させる意図はない。混乱があったから混乱しないように書いた。パウロは老若男女問わず、読めば分かるように執筆した。そして知っておきたいことは、今日の箇所は特に、先に死んでしまった信者たちのことで悲しんでいる人たちを慰め励ますために書かれた文章であるということである。その目的を果たす文章になっている。それを汲んで読まないで、パウロが伝えたいことを飛ばして、自分の知的好奇心を満足させるために、ただ興味本位で想像を膨らませて読んでしまうなら、パウロの執筆の意図をみのがしてしまうことになる。私も信仰を持ったばかりの頃はそうであった。興味本位な読み方をしていた。
キリスト教関連の書籍を読んでいると、前後の文脈に注意を払わず、強引に引用して自分の主張を裏付けようとする手法を良くみかけるが、そういうことはやめたい。強引な引用かどうかを見破る秘訣は、引用されたみことばの前後に注意を払うということである。このような手紙形式のものは特に、自分も手紙の受取人の一人となり、文脈を大事にして謙虚になって読むということが必要である。「手紙」として素直な気持ちで読むということである。
今日の教えは再臨の教えではないという立場もある。「空中携挙」を教えているのだとするが、再臨ということばを使うことを避ける。なぜかというと「空中再臨」「地上再臨」とすると、再臨が二度あることになり、再々臨となってしまうので、「空中携挙」であって再臨ではないと言う。<パルーシア>が使われているにもかかわらずである。パウロは1,2,3章も再臨について語り、5章では「主の日」という再臨に関する用語を使って語り、第二の手紙でも再臨について教えることになるのに、4章のこの箇所は再臨とは言わないのである。自分の立場がはじめにありきでそれに固執すると、その枠にむりむり聖書を窮屈に押し込めることになる。そしてむりむりつじつまを合わせることになる。そうではなく、やはり私たちは、聖書は何と言っているのかと、聖書に謙虚に聴く姿勢を常に保つことが必要である。わからないことはおゆだねして、むりに決め付けることはしないことである。
再臨の解釈が右から左まで様々に分かれてしまっている一つの大きな理由として、ダニエル書や黙示録といった難解な書に、再臨を含む終末の時代についての預言があり、それぞれをどのように解釈し、整合性をどのように保つか苦慮するからである。私は、主の再臨の教えの骨子を間違いなくきちんと受け止める入口は、使徒たちの「手紙」で教えている再臨の教えを素直に読むことであると思っている。それを軸とするということであると思っている。
さあ、私たちは引き続きテサロニケの手紙第一と第二から、主の再臨について教えられていこう。そして主の再臨を希望としよう。この日を待ち望もう。先に召された聖徒たちも主の再臨という祝典に与り、私たちも与るのである。私が会社で働いていた時、社員のクリスチャンの同僚が、主の再臨の夢を見たことを語ってくれた。主の再臨にともない携挙が始まる。でも、自分だけは上に上がっていかないというのである。そして涙流しながら目が覚めたということであった。パウロはそのような者が起こらないようにと、続く5章では再臨を待ち望む姿勢について語ってくれるようである。こうした姿勢に関心を持つことが何よりも大切である。続けてパウロの教えを汲み取っていこう。

