本日より、テサロニケ人への手紙第一の講解説教をスタートする。宛先のテサロニケの教会はパウロの第二次伝道旅行の際に生まれた教会である(紀元50年頃)。テサロニケの教会はユダヤ人もいたが、数的には異邦人が多い教会である。テサロニケ人への手紙と聞くと、キリストの再臨の教えが際立っているということがあるが、それとともに忘れてならないことは、苦難に関する言及が多いということである。テサロニケの教会は苦難の中にある教会である。6節に、「あなたがたも、多くの苦難の中で」とある。再臨もこの苦難と結びつけて捉えなければならない。苦難の中の希望、それはキリストの再臨である。10節に、テサロニケのクリスチャンたちが「御子が天から来るのを待ち望むようになった」とある。テサロニケのクリスチャンたちは苦難の中にあるからこそ、キリストの再臨を強く待ち望むようになった。再臨については4章で詳しく取り扱うことになるが、今日は「苦難」ということをクローズアップして話していきたい。

先ず、苦難の中に置かれていたテサロニケのクリスチャンたちの環境を探りたいと思う。テサロニケは、現在のギリシア北部にあるティサロニキのことである。7節に「マケドニア」とあるが、テサロニケはエーゲ海に面するマケドニアの港町である。紀元前146年にマケドニアはローマの属州となり、その首都がテサロニケとなった。当時、テサロニケは「マケドニアの母」と呼ばれていた。紀元前48,49年頃は「第二のローマ」と呼ばれていた。紀元前42年には自由都市となり、皇帝の恩恵を受けて、一定範囲の自治の自由を得ていた。テサロニケは東西交通の要所として栄え、ギリシア人の他、多くのローマ人が住み、ユダヤ人も少なくはなかった。

テサロニケは繁栄した大都市で住みやすかったのかと思えば、なぜかテサロニケ人への手紙では「苦難」ということばがついてまわる。どうしてだろうか。テサロニケ人への手紙第二1章4節には、「あなたがたはあらゆる迫害と苦難に耐えながら」とある。「苦難」の意味自体はこれで明らかになった。すなわち、テサロニケ人への手紙で使用されている「苦難」の意味は、キリスト信仰への反対から来る苦しみである。テサロニケの宗教的環境を考えてみよう。そこは神々の地域だった。9節で、「あなたがたがどのように偶像から立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり」とあるが、彼らは偶像だらけの環境で生きていた。彼らはそれまでの偶像の神々と縁を切ったわけだが、それは大変なことであった。

今、碑文等の考古学の資料から、テサロニケの宗教の実態がわかってきている。ギリシアの神々では最高神のゼウスをはじめ、酒の神ディオニュソス、アポロ、アフロディティ、ヘラクレス、ハデス、パンなどが崇拝されていた。パンは樫の木で造られた偶像。ゼウス、ディオニュソスは結社を作って崇拝されていた偶像で、日常生活に根づいていたという。アフロディティはテサロニケで人気のある神々の一人で、性的快楽と結びつけられている女神。不道徳がつきもの。また、エジプト由来のイシス、オシリス、セラピス、アスピスなども人気で、テサロニケの宗教において中心的地位を占めていたと言われる。テサロニケの主神はカベイロスと言うそうである。カベイロスはディオニュソスとともに密議宗教の一つで、熱狂と陶酔が伴ったと言われている。狂乱ということばを当てはめてもいい。このカベイロス崇拝や、先に述べたアフロディティ、イシス、ディオニュソス、その他の神々崇拝に男根がシンボルとして用いられたと言う。こうした多数の神々の寺院が市内の至る所に建てられ、家庭にも祭壇が置かれていた。

偶像崇拝は政治とも堅く結びついており、政治的指導者がセラピス、イシスに捧げた碑文が残っている。また公会議がアポロ、ディオニュソスに捧げた碑文が残っている。公式の集会、会議は、神々に供物を捧げる、祈りをするという儀式で始まる。そして政府は神々の祭りを司り、一年中偶像の祭りでにぎわった。こうした宗教環境にあって、偶像を拒絶することはたいへんなことであった。

偶像問題はこれでは終わらない。皇帝崇拝である。テサロニケは皇帝と関係が深い都市として、皇帝崇拝が早期に導入された都市であった。紀元前1世紀前半には皇帝崇拝のための神殿が建てられている。皇帝はローマの最大の恩人として崇拝の対象であった。使徒の働き17章7節を見ると、テサロニケの信者たちが訴えられた理由が、「『彼らはみな、「イエスという別の王がいる」と言って、カエサルの詔勅に背く行いをしています』」であった。ローマ皇帝は「王」という称号で呼ばれていたわけだが、「彼らはローマ皇帝ではなくイエスを王と呼び、皇帝に反逆する者たちですよ」という訴状である。皇帝崇拝の地で信仰者として生きるということは生易しくない。以上のような偶像のしばりの強い環境にあったが、9節後半には「偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり」と言われている。

迫害の初めはユダヤ人サイドからあった。テサロニケは大都市としてユダヤ教のコミュニティがあり、ユダヤ教の会堂もあった。パウロは使徒の働き17章2節にあったように、会堂で三回の安息日にわたって福音を宣べ伝える。その結果、激しい迫害がユダヤ人サイドから起こった。パウロたちは迫害に遭って追い出され、ペレアに移って、やはり会堂で宣教する。こう記されている。「この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた」(使徒17章11節)。その結果、多くの人々がイエスさまを信じるが、めでたしめでたしも束の間、「ところが、テサロニケのユダヤ人たちが、ペレアでもパウロによって神のことばが伝えられていることを知り、そこにもやって来て、群衆を扇動して騒ぎを起こした」(同17章13節)と続く。テサロニケのユダヤ人たちはしつこく意地が悪かった。パウロたちを追い出す運動をしたばかりか、さらに追いかけてきた。こうしたユダヤ人たちからのいやがらせを、テサロニケのクリスチャンたちは耐え忍ばなければならなかった。そして、やがて、このいやがらせはユダヤ人たちからよりも、数的には、同胞からのいやがらせのほうが大変になっていった(2章14節)。

私はテサロニケの宗教的環境だけを見ても、テサロニケに住んでいなくて良かったと正直思ってしまった。それくらい大変な環境である。付け加えると、当時の道徳的環境である。今日は詳しくは触れないが、道徳的には著しく退廃していたので、主の戒めに従おうとしたクリスチャンたちは堅物扱いされることになっただろう。

しかしながら、こうした緊張を強いられる環境下にあるからこそ、彼らの信仰は引き締まっている感がある。パウロは3節で言っている。「私たちの父である神の御前に、あなたがたの信仰から出た働きと、愛から生まれた労苦、私たちの主イエス・キリストに対する望みに支えられた忍耐を絶えず思い起こしているからです」。これを読んで、一生懸命信仰生活を頑張っているなぁという印象を持つ。家庭でも職場でも地域でも様々に苦難の要因がある。でもへこたれず、主にすがり、主に従っていこうとしている。奮闘の信仰生活である。

パウロの彼らに対する評価はすばらしく高い(7,8節)。「・・・すべての信者の模範になったのです」「私たちは何も言う必要がありません」。すばらしい賛辞のことばである。苦難の中の彼らの信仰の質は高かった。前回のダビデの生涯の人物説教でも教えられたが、神さまはあえてストレスを与える物事や人物を周囲に置いて、私たちを鍛錬しようとされる。ヴァイオリンの世界では、ストラディバリウスというヴァイオリンが名器として名高い。一丁10億円以上する。音色が格段に美しい。その理由は作り手の腕もあるけれども、ヴァイオリン製作の原材料となった木が中世の寒冷期に育った年輪幅の狭い木を使用したということが大きいらしい。寒冷で鍛えられた木が美しい音色を生み出したというわけである。同じように、テサロニケのクリスチャンたちは、厳しい環境の中で信仰が育まれた。

といっても、本人たちは苦難の中にあるわけだから、励ましが必要なことは確かである。先にパウロは苦難の中にいる彼らに励ましのことばを贈っている。「神に愛されている兄弟たち。私たちは、あなたがたが神に選ばれていることを知っています」(4節)。苦難の中にいる。でも、神に愛されている、神に選ばれているのだと励ましている。苦難の中にいるから神に愛されていないとか、神に選ばれていないとか、そういうことではない。私たちも、神に愛されている、神に選ばれているということをはっきり認識して生きていきたいと思う。信仰の足取りがよろめかずに生きていくために、神の愛、神の選びを確信していたいと思う。

パウロは、テサロニケのクリスチャンたちが神に愛され選ばれていることの証明として、5節の事実を語る。実は5節の冒頭には、原文では「なぜなら」ということばがある。「なぜなら」は理由や根拠を示すことばである。「(なぜなら)私たちの福音は、ことばだけでなく、力と聖霊と強い確信を伴って、あなたがたの間に届いたからです」(5節前半)。ここで「力」にどのような意味を与えるのか、「聖霊」をどのように位置づけるのか、「強い確信」とは何を意味するのか、学者たちの間でも様々に論議されているが、はっきりしていることは、どの単語も力と関係のあることばが使われていて、パウロはテサロニケでの宣教を振り返って、神さまはテサロニケ人たちの救いのために力強く働いてくださったということ、その事実を伝えたい。パウロはそれを振り返らせることによって、神に愛されているという確信、神に選ばれているという確信を強めようとしている。皆様も改めて神さまに救われたときのことを振り返ってみたら良いと思う。そこに神の働き、力強い御手を見ることができる。神さまは皆様を救わんとしてどのように働いてくださっただろうか。皆様にどのようなみことばの迫りがあっただろうか。聖霊の力をどのように体験しただろうか。神さまは皆様にどのようにして力強く迫り、生まれ変わらせてくださっただろうか。そうしたことを振り返ることは有益である。そうした神の力強い働きを忘れ、少々の試練の中で、自分が神に愛されているかどうかわからないとつぶやく方がいるが、それは違う。私たちは、神の愛、選びをしっかりと受け止めていたいと思う。

テサロニケのクリスチャンたちから教えられる具体的な姿勢は6節である。「あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちに、そして主に倣う者になりました」(6節)。彼らは苦難の中で喜があったようである。「多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもって」とある。苦しみの中の喜びというものがある。それは彼らの場合、聖霊による喜びである。苦難も消すことができない喜びである。パウロはやがて5章16節において、「いつも喜んでいなさい」と命じることになる。パウロは、テサロニケのクリスチャンたちが苦難の中にあったことを承知で喜ぶことを命じている。「苦難の中でも喜んでいなさい」ということである。苦難の中でも喜ぶ喜びこそ、ほんものの喜びである。

彼らを喜びに導いたのは「みことば」であった。「みことばを受け入れ」と、彼らはキリストに関するみことばを受け入れた。みことばの中心はキリストである。救い主イエス・キリストである。彼らの喜びの理由はここにある。いつも喜べる理由もここにある。彼らはそれまでみことばを聞いたことはなかった。当時、学校でも教えられていたのはギリシア神話である。多くの神々の物語がある。市民は多くの神々の物語を真実であるかのように学ばされ、神々に仕えるのが日常だった。また当時は哲学が流行していた時代である。哲学の様々な諸派があった。それらの哲学でも神のことや、天上の世界のことなどが語られたが、もちろん、キリスト知らずである。テサロニケにはユダヤ教の会堂があり、そこでは旧約聖書が語られていたわけだが、キリストに関して正しく説き明かされることはなかった。だが、テサロニケ人はパウロの語るみことばを通して、キリストを知った。現代では古代以上に多種多様な教えが溢れていて、何を信じていけばいいのかと迷うわけである。けれども、基本は同じである。使徒たちが説くみことばの真実に心を開くということである。キリストに関するみことばを受け入れるということである。このみことばに人生を賭けるということである。

私が札幌で奉仕神学生の時、礼拝後に信徒会が開かれて、私も出席していた。信徒会の終わり頃、小学生の息子を連れて通っていた一人のご婦人がポツリと意見を言った。家庭の試練の中で救われ、試練の渦中にある一人のご婦人である。週報の二つ折りの中央の折れ線部分に、縦にみことばが印刷されていたというか、折れ線部分にみことばがかかっていて、みことばが縦に一行、二つに折れていた。そのご婦人は柔らかな声でそれを指摘し、「神さまのみことばが折れています。みことばは折れないようにしてほしいです」と、単純無垢な赤子のような心で言われた。私はその時、「何言っているの、印刷した文字の話だよね」と思ったが、私は試練の中でみことばにすがる彼女の一途な信仰を知っていたので、その後すぐに、赤子のような彼女の信仰姿勢に感動を覚えたことを記憶している(ちなみに、私が日常使っている聖書は、びりびりぼろぼろ、ぐちゃぐちゃで、二つ折りどころではない)。印刷した文字の扱いはどうあれ、私たちはみことばを真理とし、いのちのことばとして尊び、何よりも慕い求め、信仰の先達に、そして主イエスに倣う者として歩んで行きたいと思う。

パウロが、「私たちに、そして主に倣う者となりました」と述べたときに、パウロたちも、主イエスも、苦難を受けたことが前提に語られていることを忘れてはならない。パウロはテサロニケでも先のピリピでも、キリストゆえの苦難を受けた(2章2節)。パウロはピリピでは投獄されたが信仰を捨ても曲げもしなかった。主イエスはもちろんのこと苦難を忍び、十字架につき、死に至るまで従順であった。こうした姿が模範となっている。意に沿わぬ事があって、信仰を卒業しましたと言われる方がいる。私たちの信仰というのは卒業するものでなければ、趣味ですることでもない。遊びでもない。人生そのものである。私たちなりの苦難というものがあるわけだが、みことばをいのちの糧として主に従い、主に倣い、テサロニケのクリスチャンたちのように、御子が天から来られるのを心より待ち望んで信仰生活を送っていきたいと思う。