今日はキリストの遺体の葬りの場面である。主イエスは金曜日の午後三時頃に息を引き取られた。「父よ、わたしの霊をあなたの御手にゆだねます」が最後のことばであった(23章46節)。こうして、私たちの罪のための身代わりの死を死なれた。この後、当然ながら、復活されるまで主イエスの言動はない。死人に口なし、動きなしである。当たり前ながら、ご自分の遺体をご自分でどうすることもできない。この後、どうなってしまうのだろうか。ご自身の全存在をゆだねる祈りをされた主イエスであったが、父なる神は葬りに関しても備えてくださっていた。
ローマではしばしば、十字架にかけられた犯罪人の遺体を、腐るまで、そのまま十字架上に放置した。反乱を起こす者を阻止するためのみせしめである。しかし、関係者や友から遺体の埋葬願いがあれば、引き渡すこともあったそうである。だがユダヤ人の犯罪人の処置はローマ人とは違って丁寧であった。相手が敵であってもその日のうちに埋葬した。旧約の律法によると、木にかけられて死んだ遺体は、すぐその日のうちに埋葬することが命じられている(申命記21章22~23節)。死罪に値する罪で処刑された者、木にかけられた犯罪者でも日没前に埋葬するというのが掟だった。この処置を敬虔な義務と捉えていた。歴史家ヨセフスは、エルサレムで実際にあった虐殺事件に関して、イドマヤ人は不謹慎にも死体を埋葬せずに外に捨てたが、ユダヤ人は十字架刑となった犯罪者でさえ日没前に降ろして埋葬したことを証言している。こうした風土が今日の物語にも反映されている。主イエスの遺体は日没前に埋葬される。54節から土曜の安息日が近づいていたことがわかるが、それであるなら、なおさら、ユダヤ人としては日没前に埋葬しなければならない。金曜から土曜に変わるのは、金曜日の日没。だが、息を引き取られた時刻は午後三時頃。埋葬までの時間は残されていない。もし、誰も引き取り手がいなければどうなるのか。犯罪人用の共同墓地にでも投げ込まれてしまうのだろうか。実際、十字架にかけられて死んだような凶悪犯は、犯罪人用の共同墓地に投げ込まれてしまうことが多かったようである。それは丁重な葬りではない。それどころか穴に投げ込まれ、そのまま鳥や野獣の餌になってしまうこともあった。主イエスはかたちとしては、ローマの敵として、ローマ側の裁判で処刑された。だから、腐るまで木にかけられても文句は言えない。
神は一人の人物を備えていた。アリマタヤの出身のヨセフである。「さて、ここにヨセフという人がいたが、議員の一人で、善良で正しい人であった。ユダヤ人の町アリマタヤの出身で、神の国を待ち望んでいた彼は、議員たちの計画や行動には同意していなかった」(50,51節)。彼の出身地の「アリマタヤ」はエルサレム北西30キロに位置する場所として理解されている。彼は「議員」と言われているが、ユダヤの最高法院サンヘドリンの議員ということである。主イエスを殺す計画を立て実行に移したのが彼らである。議員数は大祭司を除けば70人。彼はその中で、主イエスの殺害計画に加担しない、善良で正しい信仰者であったようである。彼は「善良で正しい人」という紹介とともに、「神の国を待ち望んでいた」と言われている。
ヨセフは思い切った行動に出る。ピラトに主イエスの遺体の下げ渡しを願い出る。主イエスはローマの敵として処刑された。その犯罪人の遺体の下げ渡しを願うというのは勇気のいる行動ではある。さて、総督ピラトは、ヨセフの願いをどうして受け入れたのだろうか。一つは、願い出たのが身分の高い議員だったということが当然あるだろう。弟子たちでは門前払いのはずである。またピラトは、ここはローマではなく駐屯地のユダヤであるから、ユダヤの慣習にならうことが得策と考えたのだろう。そしてピラトは、主イエスが無罪であることを三度も宣告した人物である。個人として主イエスに罪を認めていない。だから、主イエスを気の毒な葬り方はしたくなかったはずである。
「彼はからだを降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた」(53節)。ルカは簡潔に葬りを描写している。「彼はからだを降ろして亜麻布で包み」と、十字架上の主イエスの遺体がピラトの許可によって取り下ろされる。兵士たちとの共同作業だろうか。取り下ろされたのは血だらけのむごたらしい遺体である。亜麻布で遺体を包む作業は、ヨセフ一人で行ったのではなく、ヨハネ19章49,40節を見ると、やはり議員であるニコデモが手伝ったことがわかる。
葬り手がヨセフで良かったというのは、遺体の下げ渡しの許可を得やすい立場にあったということだけではない。あと、二つのことがある。一つは、彼が刑場の近くに墓地を所有していたということ。「イエスが十字架につけられた場所には園があり、そこに、まだだれも葬られたことのない新しい墓があった」(ヨハネ19章41節)。もうすぐ日没となってしまう。埋葬場所は近いことが要求された。もし側近の弟子たちが主イエスを埋葬しようと思っても、彼らの出身地はガリラヤ。ガリラヤまで遺体を運ぶわけにはいかない。エルサレムに墓地は所有していなかっただろう。それに、もしエルサレムで墓地を工面できそうだとしても、十字架刑にあった頭領の一味ということで、ピラトに接見できるはずもない。ヨセフの場合、顔が利いて、堂々とピラトに接見できたばかりか、幸運にも刑場の近くに墓を所有していた。
ユダヤでは、遺体をエルサレムの城壁から少なくとも50キュビト(約22m)離れた場所に埋葬されることが義務づけられている。城壁内は許されない。埋葬の仕方は、遺体を棺に入れて地中に埋めるというスタイルは取られない。一般的には石灰岩の丘陵に埋葬用の墓(洞穴)を掘る。または自然の洞窟を拡張する。平面にコキムと呼ばれる窪みを作り、そこに遺体を安置した。墓の入口は、四角か丸い石で塞いでいた。ヨハネの福音書11章に、ラザロの死からの蘇生の物語があるが、主イエスが「その石を取りのけなさい」と命じられた「石」のことである。主イエスが埋葬されたという墓は、伝承や発掘調査から、聖墳墓教会のある場所と一般的に言われている。この教会はエルサレム城壁内に位置するが、1世紀当時、この場所はエルサレム城壁外に位置していたことがわかっている。この聖墳墓教会が建っている場所が、主イエスの磔刑の刑場、ゴルゴタの丘とも言われているわけである。だが、ゴルゴタの丘同様、主イエスの埋葬された墓は別の場所だとする研究者たちもいて、その可能性も否定できない。
遺体はやがて腐り骨だけになる。骸骨の姿のまま安置されっぱなしになるということはない。その骨は骨壺に入れられ保管されることになる。そのことを第二列王記22章20節では「先祖たちのもとに集める」という表現がとられている。そして空いたコキム(窪み)には別の遺体を安置することになる。しかし、こうした埋葬法がすべてではなく、下層階級では、単に地中に埋めて土葬にすることもふつうにあったようである。いずれ、火葬にはしない。
さて、主イエスの埋葬に話しを戻すと、ヨセフの所有していた墓が刑場の近くで助かったというだけではない。もう一つ良かったことがある。ルカの強調は、53節後半の「まだだれも葬られていない、岩に掘った墓に納めた」ということにある。「まだだれも葬られていない」と、王なるメシアを埋葬するのにふさわしい新しい墓をヨセフは所有していた。実は、「まだだれも葬られていない」と似た表現は、エルサレム入城の際にも使われていた。19章30節に「まだだれも乗ったことのない子ろば」と言われている。主イエスは、まだだれも乗ったことのない子ろばに乗られて入城し、そして、まだだれも葬られていない墓に葬られた。神の救い主にふさわしい姿である。主イエスのほうから、自分の死後はそのようにしてください、と願い出ていたわけではない。すべては父なる神が備えてくださった。ヨセフはそのために用いられた。
以上、見てきたように、ヨセフはガリラヤからついて来た弟子たちではできない役目を担ったことがわかる。言い方を変えると、彼にしかできない役目を担った。彼は、この行動に出た時、仲間の議員たちから蛇のような目でにらみつけられたかもしれない。ユダヤでは最初に述べたように、敵や十字架刑になる犯罪人であっても埋葬する習慣があったわけだが、それでもその丁重な扱いを見て、あいつはやっぱりイエスの親派だったのかと悪口を言われただろう。ヨハネの福音書19章38節では、「イエスの弟子であったが、ユダヤ人を恐れてそれを隠していたアリマタヤのヨセフ」と紹介されている。元祖隠れキリシタンのような存在。でも隠れたままでいていいということではない。彼はこの時、誰の目にも見えるかたちで信仰を表明したと言えるだろう。
ルカは、ヨセフによる葬りとともに、女弟子たちの動きを加えている(55,56節)。主イエスの復活する日曜日の早朝に墓に向かったのは女弟子たちであったが、その伏線ともなっている。彼女たちは「イエスとともにガリラヤから来ていた女たち」と紹介されているが、以前もお話したように、彼女たちは女弟子と言って良い存在である。55節から、彼女たちはヨセフの後について行っただけではなく、埋葬の手伝いをしたことは疑い得ない。彼女たちは他の群衆のように、主イエスの死を見た後、宿に帰ってしまうことなく、埋葬作業の手伝いにあたった。安息日が近づいていたので、日没前に埋葬作業を終えてしまわなければならない。遺体の運搬だったり、墓に石の蓋をすることであったり、力仕事関係は男衆がしても、彼女たちは自分たちにできる細々としたことを見つけてしただろう。彼女たちの心としては、何をして差し上げようかという以前に、イエスさまのおそばから離れたくないという気持ちのほうが強かっただろう。彼女たちの目には、涙が終始浮かんでいただろう。また、胸をたたいて泣いただろう。それが女の奉仕でもあった。
55節後半では「墓と、イエスのからだが納められる様子を見届けた」と、見届ける様子に強調が置かれている。彼女たちは主イエスの埋葬の証人となった。ある人たちが言うように、安息日が明けて日曜の朝、女たちはまちがえて別の墓に行ってしまったのだ、だから墓は空っぽだったのだという理屈は通らない。彼女たちは複数で埋葬現場を見届けたのである。それから中一日後の日曜朝、皆がその墓の場所を見間違えるはずはない。
彼女たちは埋葬の手伝いを終えると、56節前半にあるように、「戻って香料と香油を用意した」。彼女たちは安息日が明けた日曜日のために、残された時間で香料と香油を用意した。目まぐるしい忙しさである。香料と香油の準備に関してだが、当時、亡くなって三日目まで、香料と香油を用いる習慣があったらしい。ここで少し時間を戻して、主イエスの遺体処理について考えてみよう。ヨハネ19章39節では、ニコデモが香料を約33キロ持って来たことが記されていて、続く40節には、「彼らはイエスのからだを取り、ユダヤ人の埋葬の習慣にしたがって、香料と一緒に亜麻布で巻いた」とある。遺体の処置に関する当時のユダヤの習慣であるが、ミシュナーでは、遺体を洗うことと、油(香油)を塗ることを規定している。だが、先ほどのヨハネの証言では、遺体を洗うことと、香油を塗ることが言われていない。ルカが執筆した使徒の働きを見ると、女弟子タビタの遺体処理に関して、「人々は遺体を洗って、屋上に安置した」(使徒9章37節)と書いてある。だが主イエスの遺体を洗うことは書かれていない。午後3時に息を引き取ったとなると、もうすぐ日没で埋葬が急がれたので、からだを洗うという処置は時間を要するので、省かれたのではないかとも言われている。だが実際どうであったかは分からない。そして主イエスの場合、からだを洗ったことが言われていないだけではなく、油を塗ったことも言われていない。すなわち香油を塗ったことが言われていない。この香油を塗る作業も時間がないので省略された可能性もゼロではない。その場合、香油は安息日が明けてから塗ることになる。この香油を塗るのは女の仕事とされていた。男が香油を塗りに行くのではなくて女が行くというのはごく自然なことである。香油を塗る目的は、エジプトのように遺体の腐敗防止のためではなかった。献身的愛の行為として遺体に香りをつけることにあった。ベタニアのマリアがナルドの香油を主イエスの頭に注いだ時、主イエスがそれを称賛し、「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」(ヨハネ12章7節)と言われたことを思い起してほしい。彼女たちも、このマリア同様の精神で主イエスに愛を示そうとした。香料のほうは腐敗防止と腐臭を消す効果のために用いられたことは疑いを得ない。主イエスの遺体処置と埋葬の詳細はわからないが、いずれ、彼女たちはイエスさまのご遺体にせいいっぱいのことをしてあげたいと思っていたわけである。
56節後半には、「安息日には、戒めにしたがって休んだ」とある。安息日は通常の動きをしてはならない日として、ユダヤ教の安息日の規則は大変厳しいものがあった。だが、人の死に関して言うと、安息日に人が死ぬことも当然あった。人の死は曜日は問わない。安息日に亡くなったからといって、死体をそのまま放置しておくわけにはいかない。だから安息日に死人が出た場合の葬りについてだけは、ユダヤ教のラビたちも例外を認めていたようである。だが、主イエスの場合、安息日ではなく前日の金曜に息を引き取り、埋葬も終わった。だから彼女たちは安息日をきちっと守った。その代わり、安息日が明ける早朝、一分でも一秒でも早く主イエスの墓にかけつけたいと思っていた。それを裏付けるように、24章1節を見ていただくと、「週の初めの日の明け方早く、彼女たちは準備しておいた香料を持って墓に来た」(24章1節)と言われている。彼女たちは、主イエスの死後、自分たちにできる、精一杯の奉仕をしようとしたことがわかる。すでに死んでしまったのだから、そんなに早くかけつけなくてもとか、墓の入口は大きな石で塞いであって女が行ってもどうせ無駄だとか、番兵たちに追い返されるのが関の山だとか、様々に言えるだろう。けれども、どうであっても前に進もう、やり遂げようとするのが彼女たちの愛の意志であった。男であったら、ああだこうだと理屈を並べて、行っても無駄だとさっぱりあきらめるかもしれないが、そうでないのが彼女たちの良いところである。以上が復活前の、今日の物語である。
十字架刑を前にしては、側近の弟子たちが無様な姿をさらしてしまったが、主イエスの死後は、脇役と言って良いヨセフや女性たちが主役として復活までの物語を作っている。これは本当に素敵な物語であると思っている。主の物語はこの21世紀も続いている。私たちも、主の物語の中に信仰の姿で置かれたいと思う。それぞれができることを、主のために、また主が愛しておられる方々のために、愛をもってしていきたいと思う。パウロはある時、自分の周囲にいるキリスト者たちを念頭に、「みな自分自身のことを求めていて、イエス・キリストのことを求めていません」と、嘆きを言い表したことがある(ピリピ2章21節)。自分さえ良ければの精神を周囲のキリスト者に見出していた。私たちは主イエスが何のために、誰のために十字架の苦しみを耐え忍んでくださったのかを知っている。その愛にお応えしていこう。主イエスへの愛を表すかたちは様々である。主イエスへの愛を表す機会も人それぞれである。私たちそれぞれが与えられている立場も賜物も異なる。私たちは、主と主の教会に思いを馳せながら、また周囲の人々に目を向けながら、機会を捕らえて自分にできることをしていこう。すべては主のためにである。