前回は、主イエスの十字架上の最初のことばである「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(34節)に耳を傾けると同時に、「十字架から下りて自分を救ってみろ」といった侮辱のことばが、ユダヤ最高法院の議員たち、ローマ兵士たち、そして一緒に十字架についた犯罪人からあったことを見た。39節では「十字架にかけられている犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』と言った」と記されている。主イエスの両側には犯罪人が一人ずつついていた。そのうちの一人が主イエスをののしった。「イエスをののしり」の「ののしり」は、原文では「ののしり続けて」ということで、一回ののしって終わったのではない。隣で悪口雑言を浴びせ続けたということである。「おい、こら、おまえ、キリストを名乗っているなら何とかしろ!」「それでもメシアかよ!」「てめえとおれたちを救えよ!」そんな感じが続いただろう。汚いののしりのことばである。前回お話したように、「ののしり」ということばそのものは、「冒瀆する」という意味のことばである。主を冒瀆したのである。だが、もう一人の犯罪人は冒瀆とは全く正反対の態度に出る。もう一人の犯罪人は主イエスを救い主と認め、救いを受けることになる。ルカの福音書の特徴の一つは、主イエスとともに十字架についた犯罪人の様子を詳しく描いているということがあるわけだが、今日の記事はルカの福音書独特のものである。感動的な記事である。キリストの十字架刑を起点にして、歴史上、一番最初に救いを得たのは犯罪人だった。だれがこうなることを想像していただろうか。すべての犯罪人に朗報となるような記述である。ルカの福音書は犯罪人のための福音書と言っても良い。

この二人はどういう犯罪人であったのかということであるが、十字架刑は極悪人を死刑にする処刑法である。マタイ27章38節では「強盗」とある。19節の暴動と人殺しのかどで牢に入れられていたバラバの一味の可能性も無きにしも非ずだが、いずれ重罪人である。二人は十字架につけられて後、最初は二人一緒になって主イエスをののしっていたようである。マタイ27章44節にはこうある。「イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった」。けれども、そのうちの一人が、全く態度を変えた。間近で主イエス・キリストのお姿を見ているうちに、彼の心の中で明確に変化が起こった。まさしく回心の出来事が起こった。心の変革である。主を冒瀆するという膨れ上がった心は微塵もない。あるのは、罪を悔い改め主イエスに救いを願う、伏した心だった。

では、救いを受ける犯罪人のことばを見て見よう。彼は主イエスを冒瀆した仲間の犯罪人をりつけた。「すると。もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だが、この方は、悪いことを何もしていない」(40,41節)。「たしなめる」とは「叱りつける」と訳せることばだが、仲間の犯罪人のイエスをののしるという言動が許せなくなった。そして叱りつけた。

彼のことばから二つのことがわかる。一つは、彼は自分の大罪を素直に認め、死刑に服する姿勢があるということである。何の弁解する気持ちもそこにはない。「神を恐れないのか」と口にしているということは、自分の罪を神の前にしっかりと認めているということである。だから死刑という刑罰も当然だと受け止めている。「おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ」と。もう一つは、彼は主イエスに罪はないことを認めているということである。「だか、この方は悪いことは何もしていない」と。以前、ピラトの裁判で、ピラトは主イエスに罪はないことを三回宣告したことを見たが、今度は裁判官ではなく、一緒に処刑されることになる犯罪人までもが主イエスに罪はないことを語っている。

救いを受ける犯罪人は、今度は主イエスに向かって語りかける。「そして言った。『イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください』」(42節)。仲間の犯罪人を叱るつけた彼だが、主イエスに対しては実に腰が低い。「私を御国に入れてください」という直截的な表現ではなく、「思い出してください」と控えめな表現で願っている。「思い出してください」は、「覚えていてください」「心に留めてください」といったニュアンスのことばである。彼は自分の罪深さを悟っているので、ストレートに物申すではなく、このような表現になったのであろう。

さて42節の一つの疑問は、「あなたが御国に入られるときには」とは何を意味しているのかということである。以前の新改訳第三版では、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには」と訳していた。ある人々は、この御国を、主イエスが再臨して栄光を受けることになる御国と解釈する。だから、「イエスさま。あなたが王としての権威をもってもう一度来られる時には」と意訳する方もいる。以前の口語訳では、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には」と訳している。「再臨の時には」というニュアンスの訳である。だが、この犯罪人が再臨の教えを理解していたのだろうか。そうであるとは思えない。彼は、主イエスが十字架の苦しみを経てから行くことになる「天の御座」または「パラダイス」を念頭に「御国」を口にしたのではないだろうか。新改訳2017の「あなたが御国に入られるときには」の訳は素直な直訳であり、今お話した、十字架の苦しみを経てから行くことになる御国という解釈を妨げない。彼が御国の性質についてどれだけ理解していたのかはわからないが、主イエスを御国の王、メシア・救い主として信じていることだけは確かである。彼は己の罪を認め、そしてイエスを御国の王、救い主と信じているのである。そしてその御国に入ることを願っている。

主イエスはこの犯罪人に返答する。「イエスは彼に言われた。『まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます』」(43節)。主イエスは肺腑をしぼるようにして、なおかつ、力強く言われたのだろうか。「まことに、あなたに言います」の「まことに」は、原語で「アーメン」である。これから述べることは確かです、本当ですと、救いを確約することばを述べられるのである。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」。先に「パラダイス」<パラデイソス>について説明しておこう。協会共同訳は「楽園」と訳している。このことばは、もともと古代ペルシア語に由来していて、<パラデイダ>に由来すると思われる。意味は、「囲いのある閉じられた庭」「王の庭」といったところで、「庭園」を指すことばである。ギリシア語に変化して<パラデイソス>になった。このことばが、創世記2章8節の「エデンの園」を指すことばとして使われるようになり、「楽園」のイメージが生まれ、ユダヤ文学では、素晴らしい祝福された場所、「天上界のエデンの園」を指すことばとなった。パウロもこのことばを使用している。第二コリント12章4節を開いてみよう。「彼は(パウロは)パラダイスに引き上げられて、言い表すこともできない、人間が語ることも許されていないことばを聞きました」。この場所は同12章2節では「第三の天」と呼ばれている。このパラダイスは、ゲヘナと対極にある祝福された場所である(ルカ12章5節)。パラダイス、天上界のエデンの園は、御国と言えば御国だが、天国とも言ってしまえるが、キリストが再臨して完成する御国を思うなら、クリスチャンにとっては仮住まいの場所である。いずれ、救われた者が入る天の世界である。祝福された場所である。信仰の先輩の方々は、もうここに入っている。キリストを信じておられる方が亡くなったとき、「召天」ということばを使う。天に召されたという意味である。その「天」とはパラダイスのことである。

主イエスはこのパラダイスに「あなたは今日」と、「今日」入ることを約束している。原文では「今日」が強調されている。「えっ、今日ですか?」と、犯罪人にとっては喜びの知らせである。「今日」とは十字架につけられた今日である。ふつう十字架につけられた犯罪人は二~三日生き延びる。だが明日は土曜の安息日だったので、今日中に息の根を止めて、死体の処置をすることになっていた。息の根を止める手段は、すねを折って窒息死させるとか、槍で刺すとか。この犯罪人は死亡と同時にパラダイスに上ることになる。この時点からすると、数時間後ということになる(44節参照)。もうすぐ、彼の霊・たましいはパラダイスに上る。悔い改めなかった犯罪人のほうはゲヘナに落ちるのだろうか。ゲヘナかパラダイスか、それを分けるのは、真ん中についておられた主イエス・キリストに対する信仰にあった。

さて、実はしばし論じられるのが、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」の「あなたは今日、わたしとともに」をどのように理解するのかということである。主イエスは死なれたならよみの世界に下ったのではないかと言われる。使徒2章31節にはこうある。「それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです」。この節では詩篇16編10節のメシア預言が引用されていて、「彼はよみに捨ておかれず」とあるが、パラダイスらしき言及はない。キリストの死から復活までの詳細は分からない。また、キリストが天に上ったのは復活後のことではなかったのかと言われる。キリストは復活して四十日後に天に上った。その場所は天の至高の御座であることを新約聖書の各文書で証している。キリストが復活後に上った天の場所は天の最上階という表現も許されるだろう。それは主イエスだけが上った場所であり、それをパラダイスということばで表現できるかどうかは分からない。

私たちはキリストの死後のことや、霊の世界の詳細は分からない者たちである。だが、私たちは単純に、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」というキリストの宣言を積極的に受けとめたい。キリストと無関係な場所はパラダイスではない。そこは、キリストが「わたしとともに」と言ってくださる世界である。信仰者が亡くなれば、永遠のいのちであられるキリストとともに生きることができることが私たちの喜びである。

私たちは今日の物語を通して、キリストと自分は一つであるというイメージを持ちたいと思う。まさしく、今日の物語の犯罪人は、キリストとともに十字架につけられ、キリストともにパラダイスにという恵みに与った。私たちはキリストとともに十字架につけられた経験はない。だから、この犯罪人とは違うと言うかもしれない。だがパウロは言っている。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きているのです」(ガラテヤ2章19,20節)。私たちもキリストとともに十字架につけられた。私たちの古い人はキリストとともに十字架につけられた。私たちはキリストのいのちによって新しい人とされた。そしてパラダイスは、キリストのいのちを受けているゆえに、もうこの地上から始まっていると言えよう。そして、数日後か、数年後か、数十年後かはわからないが、死を経験するならば、私たちも天のパラダイスに入る。そこはキリストの臨在が豊かに溢れている世界と言って良いだろう。さらにパウロは次のように言う。「私たちがキリストの死と同じようになって、キリストと一つになっているなら、キリストの復活とも同じようになるからです」(ローマ6章5節)。私たちはパラダイスに入って終わりではなく、私たちもやがて復活のからだが与えられる時が来る。私たちは、キリストの十字架も、その死も、キリストの復活も共有する。

最後に、十字架上で救いを得たこの犯罪人の信仰に敬意を表したい。彼がやってきたことは処刑されて当然のひどい罪であったことはまちがいない。だが彼は十字架上で回心した。自分の罪を認め、悔い改めた。驚くのは、十字架刑で間もなく死ぬイエスに救いを願っているということである。それは、イエスは死んで終わりではないと認めているということであり、それはまた、イエスは救い主であり、永遠のいのちの与え主として認めているということであり、自分が死んでもイエスが王として治める御国で生きる望みがあることを認めているということである。ある人は次のように述べている。「ある者はイエスが死からよみがえるのを見ても信じなかった。強盗はイエスが死のうとしているのを見たが信じた」。ほんとうにこの信仰は見事である。イエスが死のうとしているのを見たが信じたのである。もう一人の悔い改めなかった犯罪人を含めて、主イエスを侮辱した人たちは、十字架から下りることができたら信じてやる、といった態度であった。だがこの犯罪人は、主イエスが十字架について死のうとしているのに信じた。だから素晴らしい。彼は、イエスは十字架で終わりだ、それは彼の敗北だとは思わなかった。彼は主とともに死んだ。だが主とともにパラダイスに入り、やがての時、主の復活とも同じようになるのである。私たちは、この犯罪人が犯した罪にではなく、この犯罪人の信仰に心から敬服したいと思う。十字架刑を前に主イエスに対して信仰を告白した者は、ペテロやマルタを初め、多くの者たちがいたわけである。しかし、十字架を起点とした時間軸では、この犯罪人が最も早く信仰を告白した。信仰を告白したから救いを約束されたのである。十字架で死のうとしている人物を、救い主として、神の国の王として信じる、これは並大抵のことではない。だが彼は信じた。十字架についておられる主イエスは奇跡をするそぶりはない。御使いも現れない。ただ血を流して十字架についたままである。息も絶え絶えで、かろうじて生きているというだけの状態である。一見すると、信じるに値する状態ではない。彼は最初、もう一人の犯罪人と一緒に主イエスののしっていた。だが、ある時点で彼の心に革命が起きた。それは一瞬の出来事であったかどうかはわからないが、短時間で起こったようである。彼の耳には捕まる以前から主イエスのうわさはすでに入っていただろう。何しろ、イスラエル一の有名人になっていたので。彼は直接は主イエスと話したことはなくとも、目撃したり、その声を耳にしたこともあったかもしれない。そして彼は今、自分の横に磔にされている主イエスを見ながら、この人が巷で救い主として期待され、王として期待されていた人物なのだと、至近距離で観察することになった。彼は最初、この人は誇大妄想の成れの果てなのかとか、ドジな革命家だろうとか、その程度にしか主イエスのことを思っていなかったかもしれないが、時間が経つにつれ、主イエスに自分とは違う霊性を感じ、神性を感じ取っただろう。そして畏怖の念を抱き、理屈抜きに信じた。このお方こそ、まことのメシアなのだと。彼は十字架上で救いを約束された。彼はこの極刑で、からだには激痛が走っていたけれども、これまでの人生で経験しえなかったことばにできない安堵感を味わったはずである。彼は息を引き取るまでの数時間、主イエスとともにいる喜びさえ味わったかもしれない。ともに、罪のない主イエスが苦しむ姿に心打たれ、いいしれない悲しみも味わったことだろう。悲しい感情と喜びの感情を同時に味わうことを「悲喜こもごも」と言ったりするが、その極致のような感情を味わっていたかもしれない。罪の暗黒とその重さをずっしりと受け止めたのも、この十字架においてであっただろう。それだけに主イエスの、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」ということばは、大きな慰めとなったはずである。彼は十字架刑の後、私たちより先にパラダイスに入った。彼は、私たちが主の十字架と向き合うための模範となったのである。