主イエスは刑場に到着した。今日の箇所から主イエスが十字架につけられる場面である。すべての福音書に十字架刑の物語は記されているが、ルカの福音書はルカの福音書ならではの記述の仕方で十字架刑の物語を描いているので、その特徴に心を払いながら物語を見ていきたい。

まず、32節を見ていただくと、ルカだけが一番最初に、「ほかの二人の犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために引かれて行った」と、二人の犯罪人の描写をしていくという特徴がある。主イエスはご自身が犯罪人とともに十字架につけられることを知っていた。22章37節のオリーブ山での主イエスのことばを見ていただくと、「あなたがたに言いますが、『彼は不法な者たちとともに数えられた』と書かれていること、それがわたしに実現します」とある(イザヤ53章12節の預言)。犯罪人とともに死刑になるというのは、この預言の成就ある。

主イエスが刑場で犯罪人たちとともに十字架につく様は33節で描かれている。刑場の名称は「どくろ」<クラリオン>とある。この表記の仕方もルカの特徴である。マタイもマルコもヨハネも刑場の名称を「ゴルゴタ」と書いている(マルコ15章22節、マタイ27章33節、ヨハネ19章27節)。「ゴルゴタ」はアラム語。この表現を避けている。また彼は、主が十字架上で叫ばれた、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というアラム語の叫びも省いている。アラム語というと、主イエスが汗を血のしずくのように流して祈られた場所である「ゲッセマネ」もアラム語だが、この名称も省かれていた。ルカの福音書の第一回の講解メッセージのときに、著者のルカはおそらく異邦人で、彼が福音書を献呈したテオフィロという人物も異邦人の可能性が高いことをお話したが、とすると、ルカは異邦人を意識して物語を執筆したと想像に難くない。だから、ルカの福音書は異邦人のための福音書と言っても良い。

「どくろ」という名称の関連で「カルバリ」についても説明しておく。「カルバリ」はどくろの別称である。「どくろ」はヘブル語で<gulgoltah>。それがラテン語で<calvus>と呼ばれるようになる。このラテン語が変化して「カルバリ」と呼ばれるようになった。だから「カルバリ」の意味は「どくろ」である(福音讃美歌120番)。

それにしても、「どくろ」とは気味の悪い名称である。形状がどくろの形に似ているからと言われることがあるが、正式な由来はわからない。実は場所も特定されたわけではない。古代からの伝承として言い続けられてきたのが、世界遺産となっているエルサレムの旧市街にある聖墳墓教会がある場所。この教会はローマ皇帝コンスタンティヌス一世が325年にキリストの十字架の場所に教会堂を建てることを命じて建てられた教会堂として知られている。1961~1980年にかけて教会堂の下の発掘調査も行われて、ここが十字架刑の場所であるという信憑性はより高まったと言われている。もう一つ有力視されている場所は、エルサレム郊外の岩山で、ユダヤ人の石打ちの刑が執行された場所である。オットー・テニスンという人物が提唱し、1885年にチャールズ・ゴルドンという人物がこの説を支持したことから、「ゴルドンのカルバリ」として有名になった。こちらの可能性もなくはない。いずれ、聖書の記述から、主イエスは当時のエルサレムの城壁外の丘で磔になり、その近くの墓に安置されたということである。

十字架刑はキケロが「最も残酷でぞっとするほど恐ろしい刑罰である」と語っているが、痛みを伴い恥を負わされる、みじめさの極限と言っていい刑罰であった。ローマの市民権を持つ者(上層階級)はこの刑罰をまぬがれた。この刑を受けたのは、極悪犯罪人、奴隷、戦争の捕虜という部類の人たちであった。女性はこの刑罰をまぬがれたのかというと、記録では、奴隷や下層階級の女たちが十字架の苦しみを受けたという記録が残っている。

囚人を十字架につける方法や、実際のつけ方など、幾つかあったようである。足は釘付けにするが、手の場合は縛るという手段を取られたこともあったようだが、主イエスの場合、釘打ちであったことは疑う余地はない。弟子のトマスは主イエスの復活の話を聞いた時、「その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ」、そうしなければ信じないと言った(ヨハネ20章24~27節)。聖書は十字架刑にする処置の詳細は記さない。「そこで彼らはイエスを十字架につけた。また犯罪人たちを、一人は右に、一人は左につけた」と、坦々と書いてあるだけである。主イエスは犯罪人に挟まって真ん中の十字架に磔にされているわけだが、本来ここには、25節の「暴動と人殺しのかどで牢に入れられていた男」、すなわちバラバがつくことになっていたのだろうか。

33節で、「そこで彼らはイエスを十字架につけた」と、十字架につける役割を担った者を「兵士」と言わないで「彼ら」と言っているだけであるのも、福音書の中でルカだけで、ルカの特徴である。他の福音書ではすべて「兵士」と言っている。「彼ら」とは文脈を見ると、26節の「彼らはイエスを引いて行く途中」の「彼ら」である。では26節の「彼ら」とは誰なのかと文章を遡ると、13節の「祭司長たち、議員たち、そして民衆」にまで行き着く。つまりユダヤ人たちである。以前お話したように、刑場まで連行し、実際に十字架につけるのはローマ兵の役目なのだが、ルカは主イエスを死刑に定めようとした主謀者であるユダヤ人たちを、この刑場まで引きずって責任を負わせようとしている。「彼ら」の説明として、十字架につけた「彼ら」とはルカは誰のことなのか書いていないけれどもローマ兵のことですよと、それで終わってしまうことがあるが、ルカはユダヤ人を共謀者というか、主謀者に仕立て上げる書き方をしていることに気づかなければならない。

この流れで34節前半の十字架上のことばに注意を払おう。「そのとき、イエスはこう言われた。『父よ。彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです』」。主イエスは「彼ら」のために赦しの祈りを祈られた。主イエスが祈られた「彼ら」とは誰のことなのだろうかと考えるわけである。この「彼ら」とはローマ兵のことであるという説明を聞いてきたが、兵士たちのためにだけ?と納得いかないところがあった。確かに兵士たちは自分たちがどんなに恐ろしいことをしているのかわかっていない。彼らは兵士の義務として死刑執行の役目を担っただけである。神の御子だと知らないで、十字架に釘付けにした。そして後で見るように、主イエスを唾棄すべき犯罪人として侮辱した。だが、これまでのルカの記述の表現から、「彼ら」とは兵士たちだけのことではなく、ユダヤの最高法院サンヘドリンの人たちのことであり、ユダヤ教のリーダーたちのことであり、彼らに同調した民衆たちのことであると知る。つまり、ユダヤ人たち。また主の十字架の意味を汲み取ると、メシア預言イザヤ53章12節の「彼は多くの人の罪を負い、背いた人たちのためにとりなしをする」から、私たちを含めたすべての罪人を、「彼ら」の範疇に入れても良いだろう。主の赦しの愛は、同心円状に、時代も越えて広がっていく。主の愛は十字架のもとにいる兵士たちにだけ限定されるものではないことは確かである。私たちも、この愛で赦されたのである。

続く、34節後半の「彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた」という記述は、メシア預言の詩篇22編18節の成就である。何気ない兵士たちの行動も預言の成就である。「彼らは私の衣服を分け合い、私の衣をくじ引きにします」(詩篇22編18節)。

本日の箇所から、ルカの福音書のもう一つの特徴を見ていきたい。それは主イエスへの侮辱を浮き立たせているということである。今日の箇所で、三種類の人々の侮辱が記されている。最初は民衆と議員たち(35節)。次は兵士たち(36~38節)、最後は十字架にかけられていた犯罪人(39節)。あらゆる種類の人々から侮辱される。侮辱の包囲網である。侮辱のことばもほぼ共通していて、一言でまとめると、今日のタイトル「自分を救え」である。三回、「自分を救え」といったたぐいのことばが記されている。ルカはこれまで、ペテロが三回、主イエスを否定したことを記録した。次にピラトが三回、主イエスに罪はないと証言したことを記録した。今度は三回、「自分を救え」という主イエスへの侮辱を記す。

最初の侮辱を見よう。民衆と議員たちの侮辱である。「民衆は立って眺めていた。議員たちもあざ笑って言った。『あれは他人を救った。もし神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ったらよい』」(35節)。ルカは、民衆はキリストの味方で議員たちはキリストの敵という書き方をしていない。両者グルという書き方である。民衆は議員たちと一緒になって、「イエスを十字架につけろ」「バラバを釈放しろ」と叫んだ。そして、ここに来て、十字架で血を流して苦しんでいる主イエスに対して、「自分を救え」と嘲る。この光景は、詩篇22編6~8節が参考になる。「しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしりの的、民の蔑みの的です。私を見る者はみな、私を嘲ります。口をとがらせ、頭を振ります。『主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから。』」。議員たちの嘲りのことばの場合、ユダヤ教の指導者らしく、侮辱することばに「キリスト」(救い主)ということばを使ったり、救い主の別称と言って良い「選ばれた者」ということばを使っている。メシア預言のイザヤ書42章1節では、「見よ。わたしが支えるわたしのしもべ。わたしの心が喜ぶ、わたしの選んだ者」とある。彼らは主イエスを「キリスト」とも「選ばれた者」とも認めていないが、これらのことばを使うことによって、皮肉にもイエスという男は誰であるのかを証してしまっている。そして事実、彼らは、キリスト、選ばれた者をののしり、嘲った。

次の侮辱は兵士たちである(36~38節)。彼らは最初に酸いぶどう酒を差し出している(36節)。これを喉の渇きを癒やしてやる恩情の行為だと簡単に思ってしまってはならない。続く37節で「おまえがユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」という嘲りのことばがあるので、酸いぶどう酒を差し出すのも侮辱と一体となった行為である。主イエスにぶどう酒を差し出す行為は二回ある。一回目はマルコ15章36節に記されている麻酔用のぶどう酒である。主イエスはこれを拒まれた。私たちのための罪の苦しみを正常な意識で真正面から受け止めるためである。この時の二回目のぶどう酒は喉の渇きをいやすためのものである。ヨハネの福音書では、この場面で「わたしは渇く」(19章28節)ということばを記している。だが、ルカはこれをカットし、侮辱を浮き立たせようとしている。「酸いぶどう酒」はどういうぶどう酒であるかということだが、原語では二種類のぶどう酒がある。一つは<オイノス>と言って、食卓に並ぶ甘口のワインである。もう一つは<オクソス>でぴりっとした辛口のワインである。<オクソス>は安酒で、庶民や兵士たちの飲み物で、水で薄められることが多かった。この場合のワインがこれである。兵士たちは、ユダヤ人の王にはこれで十分だろと馬鹿にする気持ちで与えた。また、施してやるといった蔑みの気持ちで与えた。これは詩篇69編21節の成就となった。「彼らは私の食べ物の代わりに、毒を与え、私が渇いたときには酢を飲ませました」。彼らの嘲りのことばに「ユダヤ人の王」が使われたことも説明しておきたい。彼らはローマ兵なので、ユダヤ人のメシア用語である「キリスト」とか「神の子」といった表現を使わないのは当然だが、何よりも十字架の柱に掲げられていた罪状書きが「ユダヤ人の王」であったわけである(38節)。主イエスは確かに王である。神の国の王であられる。王の王、主の主である。その「王」の意味を彼らはわかっていない。彼らは、「王」としての威光そのものを主イエスに認めていなかっただろう。十字架上のみじめな姿は、「王」というよりも、それこそ「虫けら」に映ったのだろう。

もう一つの侮辱は犯罪人である(39節)。「十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、『おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え』」。十字架につけられる犯罪人とは最低の犯罪人である。その最低の人物にまでののしられたということである。彼はユダヤ人であったのだろう。「キリスト」というメシアの称号を用いてののしる。実は「ののしる」とは「冒瀆する」という意味のことばである。だから、ある訳は、「彼を(イエスを)冒瀆し続けて言った」と訳している。事実上、神への冒瀆である。彼の場合、自分たちも十字架についていたので、「自分を救え」だけではなく、「自分とおれたちを救え」と言っている。けれども、彼の言う「救い」とは聖書の救いの概念とは程遠いもので、悔い改めないまんま、放免されること。その先にあるのは自分勝手な生き方である。現代人も同じような精神で、「あんたが神ならば、この程度のこと、片目をつむってみのがせよ。神は愛というなら地獄になんか送らないよな」と言い放つ。ここまで悪態つかなくとも、「神さまらしくないね。神なら神らしくわたしを扱いなさい。なぜわたしは今のわたしでなければならないんだ。早くわたしの望みをかなえてくれればそれでいいんだ」とわがままに主張する。この犯罪人に求められていたのは、自分が死罪に値する罪人であることを素直に認めること、自分の犯した罪を恥じ入ること、そして素直に刑罰に服すことである。しかし、それができないで、主イエスを冒瀆するという過ちを犯した。

最後に、共通する侮辱のことばである「自分を救え」について考察しつつ、主の十字架を仰ぎたいと思う。「自分を救え」という侮辱のことばに似たような格言が当時あった。ルカはそれをすでに記している。ルカ4章23節にこうある。「そこでイエスは彼らに言われた。『きっとあなたがたは、「医者よ、自分を治せ」ということわざを引いて、「カペナウムで行われたと聞いていることを、あなたの郷里でもしてくれ」と言うでしょう』」。これは主イエスの郷里ナザレでの発言である。「医者よ、自分で治せ」ということわざは、医者の無能力をばかにする格言である。ナザレの人々が主イエスに求めた能力とは、しるし(奇跡)である。「カペナウムでも見せたというしるしをここでも見せてみろよ。そうしたらキリストである信じてやるから」。主イエスは彼らがそういった態度に出ることを予測して、それを先取りした表現をした。本日の場面において、十字架上の主イエスに対して「自分を救え」というのは、十字架から下りることができたらキリストだと信じてやる、王だと信じてやる、やってみろよ、という嘲りである。けれども、ご存じのように、主イエスは十字架から下りるつもりは全くない。いや、この十字架につくために地上に来られたわけだから。主は、私たちの罪のためのささげ物、贖罪のいけにえとなるために来られた。救い主の「救い」とは罪からの救いでなければならない。すなわち、主は私たちの罪の身代わりとならなければならない。だから十字架である。主イエスは、真の意味で過越しの子羊となるべく、第二の出エジプトを実現させるべく、過越しの子羊がささげられる日に十字架刑に服していた。それは永遠の昔からの神の救いのご計画であった。人には容易には理解されない人知を超えたこの救いのみわざを、主イエスは全うしようとされていたのである。主イエスは何度「自分を救え」と言われようが、十字架から下りるおつもりはない。私たちの罪の身代わりとして、罪の赦しのみわざを敢行しなければならなかった。十字架上の「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」という、十字架上の最初のことばは、まさしく、人類の罪の身代わりとして死ぬというご自身の使命を自覚されてのおことばであった。主イエスは、「自分が何をしているのかが分かっていない」という無知蒙昧な私たちのために愛の祈りを捧げ、十字架刑に服してくださったのである。