主イエスの刑場に向かう行進、十字架への道行きが始まった。前回は力尽きて十字架を背負う体力を失った主イエスに代わって、途中からクレネ人シモンが十字架を負って、主イエスの後からついていったことを見た。シモンは主イエスの背中に何を感じ取ったのだろうか。実は、主イエスの後についていったのはクレネ人シモンだけではない。「民衆やイエスのことを嘆き悲しむ女たち」もそうであった。「民衆や、イエスのことを嘆き悲しむ女たちが大きな一群をなして、イエスの後についていった」(27節)とある。「大きな一群」がイエスの後からついて行った。この人たちはどういう人たちであったのだろうか。まず「民衆」である。このことば自体は、13節で言われているピラトが招集したという「民衆」と全く同じことばである。彼らは祭司長たち、議員たちと一緒になって主イエスを訴え、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫んだ。その民衆は、十字架への道行きにおいても同行し、黙っていなかっただろう。野次を飛ばしただろう。だが「民衆」とはそうした人たちだけを指すとは限らない。主イエスの味方となっていた民衆もいただろう。確かに、ざまあみろという思いで同行した者や、好奇心や野次馬根性で同行した者もいただろうが、同情心から同行した者も中にはいたのではないだろうか。
続く、「イエスのことを嘆き悲しむ女たち」とはどういう人たちだろうか。この女たちは、基本、「嘆き悲しむ」という役を演じている。イスラエルではお葬式に泣き女が雇われた。主イエスはもう死ぬ身分でお葬式である。泣き女が必要である。その泣き女の役回りを彼女たちはボランティアで奉仕しているわけである。今、お葬式に泣き女が雇われたと言ったが、囚人は泣き女を雇うことはできない。当時のユダヤ教では、泣き女を雇えない囚人のために泣いてあげること、囚人のために泣き女の務めをボランティアでしてあげることは功徳になるとみなされていた。これは日本人はあずかり知らないイスラエルの文化である。「嘆き悲しむ」のところにマークが付いていて、脚注には「直訳『胸をたたいて悲しむ』」とあるが、そのようにして、悲しみの感情を表したのである。では、この女たちは全くの演技で泣いていたのか、それとも真の同情心をもって泣いていたのかは、本人たちに聞くしかない。だが、対象が主イエス・キリストであるので、心から悲しんで、真剣に泣いた女たちが多かったと信じたい。福音書を見ると、敵対心をもって主イエスに相対する男たちのことは描かれているが、女性でそういう人は登場していない。ともかくも、女たちが大勢オイオイ泣きながらついてくる。野次も飛んでいただろう。マタイの福音書では野次のほうだけを記している。けっこう騒々しい光景が目に浮かぶ。静かな行進ではない。
主イエスは女たちに語りかける。思えば主イエスは沈黙を守ってきた。裁判においてあらぬ嫌疑をかけられても、侮辱されても、イザヤ書のメシア預言、「彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれて行く羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない」(53章7節)とあるように、黙していた。だが主イエスは、この時、口を開く。それも、苦しさを訴えるとか、弱音を吐くとか、ご自分のことに関して何かを話すというのでは全くない。同行してきた女たちのことを案じて語りかけるのである。さすがとしか言いようがないお姿である。実は、十字架への道行きにおいて、女たちへの語りかけを記しているのはルカの福音書だけである。女性に関する記述が多いというのがルカの福音書の特徴であり、女性のための福音書と言っても良い。
語りかけのことばは28節にあるように「エルサレムの娘たち」である。ルカの福音書の流れから、主イエスはエルサレムの女たちだけではなく、エルサレムそのものを気にかけておられたことがわかる。13章34節を見よ。「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者よ。わたしは何度、めんどりがひなを翼の下に集めるように、おまえの子らを集めようとしたことか。それなのに、おまえはそれを望まなかった」。続いて19章41~44節を見よ。「エルサレムに近づいて、都をご覧になったイエスは都のために泣いて、言われた。『もし、平和に向かう道を、この日おまえも知っていたら。しかし今、それはおまえの目から隠されている。やがて次のような時代がおまえに来る。敵はおまえに対して塁を築き、包囲し、四方から攻め寄せ、そしておまえと、中にいるおまえの子どもたちを地にたたきつける。彼らはおまえの中で、一つの石も、ほかの石の上に積まれたまま残してはおかない。それは、神の訪れの時を、おまえが知らなかったからである』」。こうしてエルサレムへの嘆きを、すでに表しておられた。今、後からついて来るのが女たちであったので、特に女に焦点を当てた語りかけをしておられる。
「エルサレムの娘たち、わたしのために泣いてはいけません。むしろ自分自身と、自分の子どもたちのために泣きなさい」(28節)。この「~してはいけない。~しなさい」という言い回しだが、これはヘブライ的言い回しとされ、泣くことを全面的に禁じているのではなくて、もっと心して泣くべきことがあるのだということを言いたいのである。先に見たように、主イエスはエルサレムへの嘆きをすでに言い表されていた。さばきの日が来ると。主イエスは泣かなければならない理由として、女たちと女たちの子どもたちのことに焦点を定める。
「なぜなら人々が『不妊の女、子を産んだことのない胎、飲ませたことのない乳房は幸いだ』という日が来るのですから」(29節)。イスラエルの文化において、子どもがないということは恥であり不名誉なことであった。ルカ1章25節を見ると、エリサベツが身ごもった時、「主は今このようにして私に目を留め、人々の間から私の恥を取り除いてくださいました」と言っている。ところが、不妊の女が幸いだという日が来ると言われる。これの裏返しの表現が、21章23節の主イエスの預言にある。「それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです。この地に大きな苦難があり、この民に怒りが臨むからです」。ここは紀元70年のエルサレム滅亡の預言だが、私たちの未来に起こるさばきも重ね合わされているかもしれない。この時の講解メッセージでお話したように、紀元70年、胎児や赤ん坊をもつ親の苦悩はたいへんなものであった。都内に飢饉が広まり、飢えのために二千人以上が死んだ。歴史家ヨセフスによると、母親たちは赤ん坊が食べているものまでひったくり、いや赤ん坊まで食べて飢えをしのごうとしたと言う。
この時のさばきの恐ろしさは30節で表現されている。「そのとき、人々は山々に向かって『私たちの上に崩れ落ちよ』と言い、丘に向かって『私たちをおおえ』と言い始めます」。不思議な表現だが、これはホセア10章8節の引用である。ほぼ同じ表現である。そして黙示録6章16節にも似た表現が登場する。黙示録6章15~17節を開いてみよう。「地の王たち、高官たち、千人隊長たち、金持ちたち、力ある者たち、すべての奴隷と自由人が、洞穴と山の岩間に身を隠した。そして、山々や岩に向かって言った。『私たちの上に崩れ落ちて、御座に着いておられる方の御顔と、子羊の御怒りから私たちを隠してくれ。神と子羊の御怒りの、大いなる日が来たからだ。だれがそれに耐えられよう』」。私が高校生の時に初めてこれを読んだとき、印象に深く残った。これまで誰も経験したことがなかったような恐ろしい日が来るのかと。ルカの福音書の「私たちの上に崩れ落ちよ」云々は、凄惨な災いが身にふりかかる前に土に埋まって死んだほうがましだという心境を言い表している。黙示録のほうでは、神の御怒りの日からかくまってほしいという願いが込められている。どちらも、神のさばきの恐ろしさを予感させる表現である。主イエスはこれらのさばきの恐ろしさを知っている。目前のさばきは約40年後に起こる。主イエスは体力を消耗し、ふらふらと刑場に向かっている間も、来るべきさばきに心を留めておられた。主イエスは疲れ切っていて、全身の痛みはひどくて、頭は茨の冠で激痛が走り、口を開くことさえおっくうになっているはずだったのに、エルサレムの娘たちをおもんぱかって語りかけてくださったのである。
主イエスは30節でさばきの恐ろしさを婉曲的に表現された後、続く31節も、さばきの恐ろしさを覚悟させる婉曲的な表現をしておられる。「生木にこのようなことが行われるなら、枯れ木にはいったい何が起こるでしょうか」。これは当時のユダヤ人の格言からの引用の可能性も高い。大から小の論理で言われている。「生木」とはもともと「湿っている木」という表現である。「緑の木」と訳す聖書もある。ホセア14章8節では、神さまはご自身のことを「緑のもみの木」にたとえておられる。「生木」「湿っている木」「緑の木」と対照的なものが「枯れ木」である。さて、これらは何だろうか。この場面での「生木」とは、いのちそのものである主イエス・キリストご自身のこととして解して良いだろう。そして「枯れ木」とは、主イエスを拒んだユダヤ人たちのこととして解して良いだろう。「生木」である主イエスは十字架刑に処せられることになる。十字架刑は恐ろしい刑罰である。ならば、主イエスを「十字架につけろ」と狂い叫んで、救い主を拒んだユダヤ人たち「枯れ木」には、どんな恐ろしい刑罰が待っているのかということになる。救い主を拒む代価は大きい。紀元70年、エルサレムはローマの軍隊によって滅ぼされ、多くの人が虐殺の憂き目に遭い、多数が流浪の民となって全世界に散らされることになる。そして救い主を拒んだ個々のたましいにはゲヘナが待っている。「枯れ木」とは基本、主イエスを拒んだユダヤ人たちのことであると解釈できると言ったが、神は全人類をさばく権能をお持ちの方であるので、「枯れ木」とは民族問わず、主イエスを頑迷に拒む人々に適用されると言ってよいだろう。
以上が十字架への道行きにおける主イエスのことばだが、今日の語りかけを聞いて、主イエスは、「おまえたちにはさばきが下る、いい気味だ」という思いで語ったのではないことは強調しておきたい。19章で見たように、主イエスは、エルサレムをご覧になった時に、はらはらと涙を流された。それは、主イエスがいかにエルサレムを愛し、エルサレムが滅びることが耐えられないという思いでおられたことを物語っておられる。主イエスはエルサレムに深い愛情をもっておられた。その愛情が、今日の場面で、エルサレムの娘たちへのことばになった。私たちは、主イエスが十字架の道行きの場面で、ご自身の痛みよりも、エルサレムの人々の、もっと広く言えば、全世界の人々の、たましいの運命を気遣っておられたことに気づかなければならない。主イエスが願っておられるのは誰であっても悔い改めと信仰をもって、ご自身を救い主として信じてくれることなのである。そして救われることなのである。神は義なるお方であるので、正義を曲げることはできない。罪にはさばきという法則は曲げられない。だからさばきがある事実も伝えなければならない。だが神は一人でも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられる。そして、ご自身に立ち返ってくれることを願っておられる。そのお心あっての十字架への道行きである。
待ち受けている十字架刑というものは、全人類のためのものであった。主イエスの愛というものはエルサレムだけでなく、同心円状に世界に向けられている。十字架はユダヤ人ばかりではなく、世界中の人々のための十字架であった。そしてこの十字架は最も罪深い者のための十字架でさえある。主イエスが刑場に向い、十字架について、この十字架を起点として一番早く救われることになる人物が、なんと犯罪人である(43節)。他の福音書ではこの犯罪人は強盗であると言っている。十字架を起点として歴史を見るときに、一番に最初に救いを約束されたのは強盗という犯罪人である。何という神のあわれみだろうか。ルカの福音書は犯罪人のための福音書とさえ言えるだろう。刑場での十字架物語は次回以降、見ていこう。
今日は、十字架への道における主イエスの語りかけをご一緒に見た。エルサレムの娘たちという呼びかけで始まったが、この語りかけは私たちとも無関係ではないことを最後に強調して終わりたいと思う。主イエスは刑場に向かうという痛みと苦しみの歩行のさなか、ご自分のことは差し置いて、人々の運命を気遣って語りかけられた。主イエスのことばを受けた女たちは年齢的には幾つであったかわからないが、年若い女性たちが聞いたとしても、紀元70年のさばきの頃には身ごもっているとか、乳飲み子を持っているとか、そういう年齢ではない。二十代で聞いたとするなら高齢者の範疇に入っている。普通に考えれば、紀元70年のさばきの時点で、身重になっている、乳飲み子を持つ年齢になっているという女は、これから生まれてくる女たちのことである。だから主イエスは、同行しているエルサレムの女たちのことだけを気遣っているわけではなく、これから生まれる女も含めたエルサレムの女すべて、そして女たちを含めたエルサレムの住民全体のことを意識して語っておられたことがわかる。しかし、主イエスの意識の底には、世界中の人々のことがあったのではないだろうか。マルコの福音書13章の主イエスによる終わりの日の預言を参考にしてみる。17節で「それらの日、身重の女たちと乳飲み子を持つ女たちは哀れです」と言われた後、19節で「それらの日には、神が創造された被造物のはじめから今に至るまでなかったような、また、今後も決してないような苦難が起きるからです」と言われた。どう考えてもこれは紀元70年のエルサレムに限定することはできず、私たちがこれから経験することであると知る。私たち異邦人も経験することなのである。だから、主イエスのエルサレムの娘たちへのことばは、私たち自分への語りかけとして聞くべきなのである。主イエスは今、みことばを通して私たちに語りかけてくださっている。終わりの日に生きている私たちが何を気づき、どうすることがふさわしいかを。迫り来るさばきを思ってどうしなければならないのかを。主イエスのことばはどれも聞き流すことはできない。主イエスのことばに耳を傾け続けていこう。どれ一つも聞き落としはしまいとして。そして教えられたことを汲み取り、悟り、行動に移そう。

