主イエスの十字架裁判は本番を迎える。いよいよ、十字架刑を執行する権威を持つ総督ピラトの前での裁判が始まる。22章66節以降で学んだように、ユダヤ議会では、主イエスがご自分をメシア・神の子であることを否定しなかったために、死刑に値すると判決を下した。23章1節前半の「集まっていた彼らは全員立ち上がり」の記述から、満場一致で死刑に値すると断定したようである。そして、次の手続きに臨んだ。ローマ側に主イエスの身柄を引き渡し、そこで死刑を確定してもらうことである。
この頃、イスラエルはローマ帝国の植民地になってしまっていた。もしそうでなければ、ユダヤ教の掟に従って、自分を神と等しいとした者は死罪だとして、処刑できた。だが、イスラエルは行政力を失い、この頃、ユダヤ地方はローマの直轄地となっていた。罪人を死刑にする裁判権も失っていた。死刑にするにはローマ側の裁判にかけなければならない。それで、「イエスをピラトのもとに連れて行った」(1節後半)。ピラトはポンティオ・ピラトのことで、3章1節で「ユダヤの総督」と紹介されている。ユダヤ地方の総督というこことである。総督は行政長官で、裁判官としての権能も有していた。ピラトはユダヤの総督であるが、普段はユダヤにいない。どこにいるかというと、ずっと北側の地中海沿岸のカイザリアに駐在している。今、エルサレムにいるのは、時は過越しの祭りという大祭が催される時で、ユダヤ人が全国からエルサレムに殺到するという混乱が起きやすい時期であったからである。エルサレムは普段は3万人都市であったと言われるが、祭りの時期は10万人とも、それ以上に膨れ上がったとも言われている。彼は監視にエルサレムに来ていた。主イエスを殺す計画をもっていたユダヤ教の当局者たちにとっては好都合だった。手間をかけずに、なんなく主イエスをピラトに引き合わすことができたからである。
2節では、ユダヤ議会のサンヘドリン側がどのような罪状で主イエスを総督に訴えたのかが記されている。実は、ローマ側への訴状が記されているのはルカの福音書だけである。彼らは、色々と訴えたと思われるが、ルカは訴訟の大事なポイントを二つ記している。第一の訴状は「カエサル(皇帝)に税金を納めることを禁じ」。ユダヤ議会の裁判でお話したように、ローマ初代皇帝アウグストゥスにイスラエルが服した時に、ローマに税金を納めるなら、宗教上のことに干渉はしないという盟約が結ばれた。総督の勤めで一番大切なことは、税金をローマに納めさせることにあった。ほとんどのユダヤ人がしぶしぶ納めていて、ローマに重税を納めさせることを止めさせてくれる指導者の出現を待ち望んでいた。もしユダヤ人がローマに税金を納めないとなると、総督の責任問題に発展し、総督の首が飛ぶことになる。「カエサルに税金を納めることを禁じ」は、総督の弱みに付け込んだ訴状であった。ご存じのように、主イエスはカエサルに税金を納めることを禁じてはいない。むしろ、その反対であった(20章22~26節)。主イエスは「私たちがカエサルに税金を納めることは律法にかなっているでしょうか」と問いかけられた時、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と返答された。主イエスは国民の行政上の義務はきちんと果たすように教えられた。だが、いつの時代でも真実はねじ曲げられてしまうのである。
第二の訴状は、「自分は王キリストだと言っている」。自分を神と等しい者としたという宗教的理由ではローマの法において死刑にはできない。だから、ユダヤ教の指導者たちは、政治犯として訴えている。イエスは己をユダヤ人の王と名乗り、民衆を扇動し、ローマに反旗を翻し、暴動を画策していますよと。実際は、そのような動きは全くなかった。ユダヤ人にとっての敵とはローマ人であったが、主イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と教えられた。古文書には次のような記録が残っている。「『ローマ人は放っておけ』がイエスの考えでありました。誰が国を支配していようがいまいが、関係ない。彼らがあなたがたを苦しめるなら、逆に愛を返しなさい。そうすれば、彼らはもはや敵ではなくなる。打撃に愛を返してくる者を、苦しめ続けられるものはない。戦うな。天の御国の報いと神の恵みを密かに祈れ、そうすれば、すぐに事は収まるだろうと」。主イエスは実際、戦うことを教えてはいない。
ピラトが税金を納める納めない以上に関心を引くのは、この「ユダヤ人の王」ということばである。ピラトはユダヤ人たちを監視していたので、ユダヤ人がどのような王を待ち望んでいたかを知っていただろう。ローマに反旗を翻し、剣で独立を勝ち取ってくれる権威者。ローマを打ち破る、新しい帝国を築いてくれる国家元首。当時のユダヤ人歴史家ヨセフスは次のようなことを述べている。今や、ユダヤは盗賊の巣と化し、いくつかの扇動集団が、何者かを指導者に祭り上げさえすれば、その者は即座に王にのしあがり、民衆を誤って導くような情勢にあったと。ピラトもこれを把握していたはずである。集まった群衆が主イエスを王として祭り上げようとするやいなや、主イエスが身を引いた理由はこれであろう。
ピラトは審問する。「そこでピラトはイエスに尋ねた。『あなたはユダヤ人の王なのか。』イエスは答えられた。『あなたがそう言っています』」(3節)。主イエスのお答えは不思議である。新改訳第三版では「そのとおりです」と訳していたが、新改訳2017は直訳的に訳している。このお答は、ご自分が王であることを否定してはいない。けれども「わたしは王である」とはっきり肯定した答えでもない。この答え方は最高法院サンヘドリンと言われるユダヤ議会での答えに似ている。主イエスは22章70節において、「おまえは神の子なのか」、すなわちメシアなのかと尋ねられたとき、「あなたがたの言うとおり、わたしはそれです」と答えられた。メシアであるとはっきりと肯定しているわけではないが、否定しているわけでもない。なぜこのような答えをされたのか。ユダヤ人のメシア観と主イエスのそれとでは大きなズレがあった。ユダヤ人にとってのメシアとは政治的なメシア、民族的なメシアにすぎなかった。次元の低いメシア観である。主イエスは自分が神の子メシアであることを認めるけれども、あなたがたの考えているような世的なメシアではないということで、微妙なニュアンスのお答えをされたわけである。ピラトの前でもそれは同じであった。主イエスは「王」というタイトルを認めるだけのお答えをされた。一般に考えられているような血なまぐさい王のイメージを持ってもらっては困るのである。主イエスは何もユダヤ人の王として戦争を起こしたいわけではない。ローマと戦って、イスラエルの領土をローマから奪還することを考えていたわけではない。ヨハネの福音書18章のピラトの裁判では、主イエスが「わたしの国はこの世のものではありません」と二度述べたことが記されている。主イエスの願いは敵も味方も神の国の福音を受け入れて、神の国の民とされることである。主イエスはその神の国の王である。国家の転覆を画策しているわけではない。
ピラトは祭司長や群衆の前に出て行き、こう言った。「この人には訴える理由が何も見つからない」(4節)。すなわち、無罪放免に値するということである。ピラトは、この後の彼のことばを見ると、計三回、主イエスに罪を認めない発言をしたことがわかる。二回目は14節「・・・おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった」。三回目は22節「彼には、死に値する罪が何も見つからなかった」。ピラトはイエスには死罪に値する法的罪はないと繰り返し言い続けた。彼にはローマに反逆する姿は見られない、政治的危険分子ではない、訴状却下であると。だが、それを圧倒するサンヘドリン側の圧力がかかった。今日の箇所では5節にそれが見られる。「しかし、彼らは、『この者は、ガリラヤから始めてここまで、ユダヤ全土で教えながら民衆を扇動しているのです』と言い張った」。「言い張った」と意固地に主張した。
民衆を扇動していると言い張る彼らだったが、それは彼らに当てはまることで、この後、彼らは群衆を扇動してさらにピラトに圧力をかけていく。暴動が起きそうな予感にかられたピラトは、彼らの圧力に屈し、死刑判決を下してしまうことになる。エルサレムには大勢の兵士が駐屯していたわけではなさそうで、数の論理から言えば歯が立たない。暴動が起きれば、それこそピラトの責任問題に発展し、ピラトの首は飛ぶ。ピラトはゾウに踏みつぶされるような思いにかられ、彼らの圧力に屈することになる。主イエスの十字架刑は確定することになる。
だが、新約聖書の書簡では、主イエスの十字架刑はピラトが裁判官としての務めを果たさなかったからだとか、ユダヤ教指導者たちのどす黒い組織の陰謀のせいだとか、圧力のせいだとか、そのような書き方はしない。主イエスの十字架刑というものは、私たちの罪を負った結果なのだと主張している。つまり、主イエスの中では、私たちの罪を負うために十字架に向かっていったということである。ご自分がメシアであり、すなわち王であることを否定なさらずに、全くの不当な裁判に甘んじられ、私たちの罪の身代わりとなるべく十字架に向かっていかれたのである。
ピラトはこの後、主イエスをガリラヤの領主、ヘロデ・アンティパスのところに送る(6,7節)。このヘロデはガリラヤとペレヤの領主で、ご存じのように、預言者バプテスマのヨハネを殺害した人物である。ピラトが主イエスをヘロデに送った理由は、5節で「ガリラヤ」ということばがユダヤ人たちの口に上ったからである。主イエスは人としてはガリラヤ出身である。だがピラトはヘロデのところに主イエスを送らなければならない必然性はなかった。でも送ってしまった。おそらくピラトは、自分に圧力をかけてくるサンヘドリンとの対決を避けたかったのだと思う。ガリラヤ人のことはガリラヤ領主が裁けばいいと。ピラトは罪があるとは思えない主イエスを扱う責任を免れたかったのだろう。めんどうなことに巻き込まれたくないと。イエスのことはヘロデがどうにかしてくれないかと。ヘロデは7節からわかるように、ちょうどエルサレムに滞在していた。過越の祭りを見るためであっただろう。主イエスを訴える側としては、これまた好都合。ヘロデと主イエスの接見の間、10節からわかるように、祭司長たちと律法学者たちもその場にいて、主イエスを激しく訴えた。バプテスマのヨハネの首を切ってくれたヘロデが、バプテスマのヨハネよりもさらに憎いイエスのこともなんとかしてくれないかと。
さて、ヘロデの反応はどうだったのだろうか。ヘロデは主イエスを見ると非常に喜んだ(8節)。ヘロデはヨハネを殺害した後、主イエスのうわさが耳に入って来て、ヨハネの生き返りだとか、イエスは預言者エリヤだとか、昔の預言者の一人が生き返ったのだとか、様々な声が聞こえてきていた(9章7~9節)。ヘロデはこうしたうわさを耳にして、本人にぜひ会いたいと思っていたのである。不安や恐れが混じっていたと思うが、好奇心がまさっているという印象を受ける。「イエスが行うしるしを見たいと望んでいたからである」(8節後半)という文章が印象的である。主イエスは大道芸人なのか。ヘロデは軽薄な男だった。この男の前では何も話すに値しない。「それで、いろいろと質問したが、イエスは何もお答えにならなかった」(9節)。「おまえは預言者か?ん?わしの前で、何か一つ、やってみい。ほら」。まじめな尋問という感じではなかった。主イエスは完全な沈黙を守る。答えるに全く値しない人物である。外野がキャンキャンうるさくわめいても、主は意に介さず、沈黙を守ったようである。
ヘロデはこの後、主イエスをピラトのもとに送り返す(11節)。ただ送り返したのではなく、侮辱したり、からかったりしてから、はでな着物を着せて送り返した。ここで「侮辱する」と訳されていることばは、18章9節で「見下す」と訳されている。完全にばかにしているということである。そして着せた「はでな着物」とは白い衣のことなのか紫色の衣なのかわからないが、罪状の「ユダヤ人の王」ということがヒントになっていて、「王だって?じゃあ、これを着ろよ」と、嘲笑するふるまいなのである。これをしたヘロデはどれだけ最低な人物なのかが空けて見えてくる。主イエスを事実上、ただのデク(木偶)、着せ替え人形として扱っている。彼は軽佻浮薄の極致といってもよい人物である。
12節では付録の記述がされている。「この日、ヘロデとピラトは親しくなった。それまで互いに敵対していたからである」。ユダヤ地方はこの頃はローマ総督が治めていたが、もともとはヘロデ・アンティパスの父親ヘロデ王が行政権を託されて治めていた土地である。ピラトは総督としては五代目であるが、ピラトはヘロデ王の息子たちの敵対心を煽ってしまう行動にしばし出ていた。ヘロデ王の息子たちは、ピラトのやっていることは許せないとローマ皇帝に訴えたこともある。そのような敵対関係にあったわけだが、イエスという共通の侮辱相手を得て、仲が良くなった。
さて、忘れてならないことは、このヘロデもまたピラト同様、主イエスの無罪を証しているということである。彼は主イエスをひどく侮辱したわけだが、主イエスに死罪にあたる罪は認めなかった。次回学ぶ14,15節を見ていただくと、そのことがよりわかる。「・・・おまえたちが訴えているような罪は何も見つからなかった。ヘロデも同様だった。私たちにこの人を送り返してきたのだから」。ヘロデは主イエスを死刑に値する危険人物とみなしていない。死罪にあたる罪は認めていない。ヘロデのような良心が摩耗したでたらめな人物でも死罪扱いにしていない。
最後に問いたい。誰が主イエスを罪に定めたのか、ということである。祭司長、律法学者たち?形式的にはポンティオ・ピラト?それらは外れではないが、重大なことが抜け落ちている。
第二コリント5章21節を開こう。「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。それは、私たちがこの方にあって神の義となるためです」。最初の「神は、罪を知らない方を私たちのために罪とされました。」に注目してほしい。ここで、「神は…イエスを…罪とされた」と言っている。神が主イエスを罪と定めたのである。神が主イエスを私たちの罪の身代わりとしたのである。なぜか?私たちの罪が赦され、私たちが義とされるためである。私たちは、この事実に、神の驚くべき恵みといつくしみを見なければならない。そして救いは十字架にあることを本当に確信しなければならない。神は闇の力も、人間のあざとい思惑も、一見、救い主が敗北に見える十字架刑もすべて益と変えてしまい、私たちの救いに変えてくださったのである。ここに、人知を超えた神の御計画と、空よりも高く海よりも深い神の計り知れない恵みを見るのである。十字架は驚天動地の救いのみわざであったのである。

