本日はバプテスマのヨハネの登場の物語から悔い改めについて教えられたいと思う。悔い改めは、私たちが回避したい態度である。人間として、一番したくないことかもしれない。それは罪の心地よさと手を切りたくないということとともに、罪を認めることが屈辱だからである。けれども、本当の祝福に与りたいならば、悔い改めは避けて通れない。後で見る4~6節のイザヤ書の引用では、道、谷、山、丘といった描写が出てくる。それらで、私たちの心を表そうとしているわけである。私は以前、両側が断崖絶壁で、崩れかかっている細い一本道を車で通り抜けるビジョンが心に来たことがある。その時の私は、一歩誤るとどうなるかわからない難しい状況に直面していて、大きな不安を抱えていたわけだが、それを神さまが乗り越えさせてくださることを、そのビジョンは表していた。また、うっそうと茂ったジャングルをもがきながら前に進もうとしているイメージが来たことがある。そのジャングルも私の心を表していたわけである。4~6節は、悔い改めとの関係での心象風景である。

1,2節は、バプテスマのヨハネが公に出現する時期の説明である。皇帝であるとか領主であるとか、地位ある人たちの役職を挙げて丁寧に説明しているが、当時のギリシア、ローマの書籍の序文の体裁と似ていると言われる。丁寧な説明と言われても、私たちには良くわからないわけだが、バプテスマのヨハネの登場した年代は「皇帝ティベリウスの治世の第十五年」が決め手になって、ヨハネの登場は紀元28年の夏から翌年29年の夏までの一年間、その期間内の登場であると推察されている。この時、「神のことばが、荒野でザカリヤのヨハネに臨んだ」(2節後半)。「神のことばが臨んだ」という表現形式は預言者に当てはまるものである。たとえば、エゼキエルに関しては、「祭司エゼキエルに主のことばが確かに臨んだ」(エゼキエル1章3節)とある。預言者とは、その漢字どおりで、神のことばを預かって語る者である。自分の思想や思いついたことを語るのではない。神のことばを語る。だから、ヨハネのメッセージというのは神のことばなのである。

しかしながら、それぞれの預言者に特徴というものがあり、ヨハネの場合、救い主の先駆者として、罪の赦しのための悔い改めを強調した(3節)。「罪」とは原意で「的外れ」という意味があるわけだが、神さまという正しい的から外れてしまっている、また神のみこころという的から外れてしまっている、それが罪であるわけである。

4~6節は自然界の情景でも土木工事の描写だが、イザヤ書40章3~5節のギリシア語訳からの引用である。今で言うと、ブルトーザーやパワーシャベルを使って、地ならしをしたり、道路工事をすることを命令しているようである。これまで車を運転していて、土砂崩れやトンネル工事で国道が通行止めになっているのを知らず、手前で立ち往生して引き返したことが三回あった。古代、地方では王様を迎え入れるために、備えとして道路工事をしたが、それを心の領域で行うことを命じている。罪を宿す心を自然界の情景にたとえると、道なき山岳地帯、道あってもでこぼこで曲がりくねっていて、途中土砂崩れで行き止まり、そのような荒れた情景にたとえることができるだろう。王なるメシアを迎え入れるためには、危険な岩のような罪、高慢の山は砕いて取り除き、欲望の谷間はきよめて埋め立てし、そして平らな一本道を造るために、曲がった道は真っ直ぐにし、でこぼこ道は平らにならし、こうして救い主を心に迎え入れる備えをするわけである。具体的に、それは悔い改めをするということである。

ヨハネが授けていた水のバプテスマというのは、あくまでも悔い改めのしるしである。その儀式自体に罪を赦す効果があるのだ、ご利益があるのだと勘違いする愚かな者がいないように、ヨハネは、水のバプテスマを受けに来た人々に対して、実に厳しい悔い改めのメッセージを送る。7~14節で、ヨハネは三種類の人々に悔い改めを説く。

最初は、群衆である(7~11節)。「ヨハネは、彼からバプテスマを受けようとして出て来た群衆に言った。『まむしの子孫たち。だれが、迫りくる怒りを逃れるようにと教えたのか』」(7節)。群衆は水のバプテスマを受けに来た。ヨハネは、「遠いところ、ようこそいらっしゃいました」と歓迎のことばを述べている節はない。悔い改めを叫ぶ。しかも、最初の一声は「まむしの子孫たち」(協会共同訳「毒蛇の子らよ」)。実に手厳しい表現である。この表現を取る理由は「迫り来る怒り」とあるように、罪に対する神の怒りの日が必ず訪れるからである。「見よ、その日が来る。かまどのように燃えながら。その日、すべて高ぶる者、すべて悪を行う者は藁となる。迫り来るその日は彼らを焼き尽くし、根も枝も残さない。…見よ。わたしは、主の大いなる恐るべき日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす」(マラキ4章1,5節)(参照;イザヤ13:9 ゼパニヤ2:2~3 ヨエル2:10~12 第二ペテロ3:3~13 黙示録6章16,17節)。南海トラフ大地震が30年内に起きる確率が80パーセントと言われているが、全世界規模の裁きの日が必ず100パーセント訪れる。それは差し迫っている。神の審判の日は必ず訪れる。その前に遣わされる預言者エリヤとはバプテスマのヨハネのことである。彼は預言者エリヤがヨルダン川に遣わされたように(第二列王2章6節)、今、ヨルダン川に遣わされ、悔い改めを叫ぶ。迫り来る御怒りから救われるようにと。

「それなら悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(8節前半)。ヨハネはこう言った後、群衆だけではなく、取税人や兵士たちにも良い行いを勧めているわけだが、それを見て、ああ、救われるためにはやっぱり良い行いか、と納得しないでほしい。ヨハネが言っていることは、悔い改めを見せることである。「悔い改め」とは何だろうか。このことばは、やってしまったと後悔することではない。後悔して悲しんでも悔い改めていることにはならない。また、罪をやめることをほんとうに望みもしないで、申し訳程度に罪を告白することでもない。「悔い改め」<メタノイア>とは意志の方向転換である。たとえば、東を向いていたのを向き直って西を向くという方向転換をするなら、目に映る光景も、歩む方向も、その後の行動も変わってしまうだろう。私たちにとって方向転換とは、神さま従う道を歩むためである。第一テサロニケ1章に一例がある。「また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って生ける神に仕えるようになり、御子が天から来られるのを待ち望むようになったかを、知らせているのです。この御子こそ、神が使者の中からよみがえらせた方、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスです」(第一テサロニケ1章9,10節)。的外れの生き方だったのが、偶像から神に立ち返り、実際、神に仕えるようになる、これは悔い改めの一実例である。悔い改めは涙を見せて終わりではなく、必ず、生き方の変化を生み出すのである。つまり、「悔い改めの実」を結ぶということである。「悔い改めの実」があってはじめて、悔い改めが真実であったとわかる。ヨハネは、善行をいっぱい積み上げれば地獄に落ちないで済む、だから善行に励め、などという安っぽいことを言いたいのではないので誤解しないでいただきたい。ポイントを稼いで賞品をゲットしましょう、などということとは違う。心が変わらないまま、申し訳程度の善行で罪を相殺しようとする、それが悔い改めではない。

このヨハネの時代は、8節後半からわかるように、私たちは信仰の父祖アブラハムの子孫だから、ユダヤ民族だから救われると思っていた人たちがたくさんいた。けれども、悔い改めなければ、民族も関係ないということである。彼らは神はおひとりであると信じていたが、悔い改めがなければ、悔い改めの実を結ぶという本当の悔い改めがなければ、救いはないということである。

ヨハネは神の怒りの日が差し迫っていることを、9節では、木の根元に斧が置かれているという迫力あるたとえで伝えている。悔い改めの実を結ばないという、つまりは、悔い改めていない木は切り倒され、火に投げ込まれると。切り倒す、火に投げ込むというのは、さばきの描写である。現代は、神はだれひとりもさばかない、という耳障りのいい教えが蔓延している。罪ということば自体が骨抜きにされている。さばかれなければならない罪などない、善と悪の間に断絶はないという相対主義で、実質、何でも許してしまう方向に向かっている。だが、私たちは、今日のヨハネの教えに真摯に耳を傾けたい。

ヨハネは悔い改めにふさわしい実とは具体的にどのようなものであるかを語る。「下着を二枚持っている人は、持っていない人にあげなさい。食べ物を持っている人も同じようにしなさい」(11節)。これは、神から与えられている恵みを、持たない人、困っている人、貧しい人に対して分かち与えること。19章を見れば、悔い改めたザアカイがこれをしている。

群衆に続く、二番目の対象は取税人である(12,13節)。取税人はローマ帝国の役人の代理人として税金を取り立てた。ローマ側としては規定の税額が納められればそれでよく、取税人がどれだけ取り立てるかには関心がなかった。また、税金を納める側は、正規の税額がいくらになるのか、計算するための情報がちゃんともらえなかった。それで、言われるままに支払うしかなかった。おかしいと思っても、取税人にはローマ政府の後ろ盾があり、逆らえない。実は14節の「兵士たち」が、取税人が税金を取り立てるときに、警察官というよりも暴力団のように取税人に付き添って、取税人をバックアップした。取税人に言われていることは、「決められた以上には、何でも取り立ててはいけません」と、規定の額に上乗せして税金を徴収し、差額をポケットに入れるというあくどいことをするな、という不正を戒める命令である。職権乱用して不正を働くことの禁止である。

三番目の対象は兵士である(14節)。兵士たちも職権乱用は許されない。「自分の給料で満足しなさい」とあるが、兵士たちは、生活の最低限の保障としての給料はもらっていた。贅沢しなければそれで足りた。けれども貪欲な心から「金を力ずくで奪ったり脅し取ったり」という行動に出ることがあった。それはやめなさいということである。

こうして、悔い改めにふさわしい実を見ていくと、特段すごいことが言われているわけでもないことがわかる。世間一般の常識的なことのようにも思える。事実、そうであるわけである。これらができないで、悔い改めたことにはならない。

悔い改めに続いて求められることは、キリストに対する信仰である。バプテスマのヨハネは、キリストについて説明をする(15~17節)。ヨハネは「この方がキリストではないか」と思われていた(15節)。しかしヨハネは、「私はその方の履き物のひもを解く資格もありません」(16節中頃)と言う。「履き物」を新改訳第三版では「くつ」と訳していたが、サンダル、草鞋のことである。草鞋履きで旅をすると、足も草鞋のひもも埃まみれ泥だらけになる。それを解くのは奴隷の仕事であった。ユダヤ教の教師たちは、これを弟子にさせてはならないと教えていた。実は一般の奴隷も余りしなかった。草鞋のひもと解くのは、ユダヤ人ではない外国人の奴隷の仕事だった。つまり、この仕事は、一番嫌われていたような汚い仕事で、価値の低い奴隷の仕事だった。ヨハネは、それをする値打ちも自分にはありません、と言ったわけである。キリストと私は雲泥の差がある、いや、それ以上の差があるということである。キリストは権威ある神のメシアであるので、このような比較表現は的を得ている。ヨハネは人々の関心を100パーセント、キリストに向けさせようとする。彼はキリストの栄光を1パーセントも奪おうとはしない。ただ、キリストだけを指し示す。

キリストのなされることは二つに分けて言われている。一つ目は、きよめの働きである。「その方は聖霊と火で、あなたがたにバプテスマを授けられます」(16節後半)。ヨハネのバプテスマは「私は水であなたがたにバプテスマを授けています」(16節前半)とあるように、水のバプテスマだった。水について旧約聖書を読めば、きよめの象徴として、よく登場している。だが、実際に救い、きよめるのは、聖霊の働きである。聖霊は神の国到来のしるしであり、聖霊は人々を新しく生まれ変わらせ、きよめる働きをされる。聖霊が下る、これがキリストにある新しい時代の特徴である。「火」とは聖霊の火と理解すればよいだろう。聖霊の火は、悔い改めて、メシアを信じ受け入れる人にとっては、きよめとなる。しかし、メシアを拒む人にとっては、さばきの火となる。それが、続く17節で言われている。

キリストがなされる働きの二つ目は、さばきということになる。「また手に箕を持って、ご自分の脱穀場を隅々まで掃ききよめ、麦を集めて倉に納められます。そして、殻を消えない火で焼き尽くされます。」(17節)。ここで脱穀と選別について言われているが、昭和生まれの時代の人まで、「箕」と言われればなんとなくわかるが、それでも説明は必要であろう。農夫は、麦の収穫の後、屋外の平なところに麦の穂を広げる。そして脱穀の作業に移る。脱穀のために、棒で打つ。または、馬にその上を歩かせて蹄で割る。あるいは脱穀機と呼ばれるギザギザのついたローラーを馬に引いて歩かせる。こうしてもみ殻と穀粒とを分ける。それが済むと、箕を使ってふるい分ける作業に進む。「箕」というと、竹で編んだザルを思い出すわけだが、ここでの箕とは、木で作ったシャベルのことである。シャベルですくって、空中高く放り投げる。そうすると軽いもみ殻だけが飛んで、重い麦の粒だけが下に落ちる。この作業を繰り返し、ふるいわけられた麦の粒は倉に納められ、もみ殻は火で焼き払われる。ヨハネは、この選別作業で何を言いたいのだろうか。ヨハネはキリストを人類を二分する審判者として描いている。キリストへの態度で、人類は二分されてしまうというのである。ヨハネは、他の神々を信じていても救われるなどという都合のいいことは言っていない。神の存在さえ信じていれば、あとはなんとかなるとも言っていない。ユダヤ人はどういう人たちだろうか。ユダヤ人は神は唯一と信じていた。神はお一人で、そのお方は世界を造ったお方であると信じていた。彼らの知識はまちがっていない。そのユダヤ人に対して、バプテスマのヨハネは罪の悔い改めとキリストに対する信仰を促す。自分の罪がはっきりわかった人は、救い主に真剣に向かうことになるだろう。私たちの罪の身代わりに十字架の上でさばきを受けてよみがえられたお方を、私の救い主と受け入れることになるだろう。

19,20節は、ガリラヤ地方の領主ヘロデの悪行をヨハネが非難したことにより、ヘロデはヨハネを牢に閉じ込めるという悪行を重ねたことを記している。ルカは他の福音書と違って、この事件を簡略にしか触れていないが、ルカが今日の箇所全体を通して言いたかったことは、悪に対するヨハネの厳しい態度ということであろう。群衆をまむしの子孫とまで呼んで、このままでは神の厳しい審判はまぬがれられないぞと警告を発した。それは誰に対しても変わりがなかった。ヘロデのような地位が高い人に対しても、である。

今日の記事から、私たちは先ず、善悪に対してシャープな見方をしなければならないと教えられる。現代は特に、何でも許されるという思想、風潮に傾いている。悪は善が弱っている姿にすぎないからさばかれるものではない、善と悪を対立させてはならない、もとは一つだ。こうした一元論は、神道、道教にみられ、東洋神秘主義であるニューエイジムーブメントにもみられるわけだが、それが今や世界的に広まり、善と悪のはっきりとした区別を消し去ることが、世界の潮流となっている。ハリーポッターシリーズの第一巻の最後で、次のような文章がある。「善と悪が存在するのではなく・・・・力・・・・が存在するだけなのだと・・・」。こうした悪の否定は、人を心地よくさせ、人間の自己中心、高慢をあおり、結果、罪を蔓延させることに至ってしまう。大切なことは、人が善悪に対してどう思うかではなく、人間を造られた聖なる神が、善悪をどう思い、どう判断されるのか、であるはずである。何が善で何が悪なのか、罪なのかは、人ではなく神が決めることである。そして罪をさばく権威があるのも神である。私たちはそのことを真摯に受け止めた上で、悔い改めを実践する者として歩んでいきたいと思う。