フランスで活躍した、ある名高い作家の逸話を冒頭でご紹介しよう。彼の私生活はたいへん乱れていた。1841年の夏のこと、愛娘がセーヌ河で溺死した。彼は小さい亡骸に変わり果てた娘の顔に、白い布をかぶせながらむせび泣いた。そしてこう言った。「これはわたしの罪に対する神の審判である。死んだのは娘ではなく、天下の罪人である私自身である」。彼は愛娘の死を境に放蕩生活をピタリと改めた。彼は娘の死を通して変えられた。「死んだのは私自身である」と宣言して。彼こそは、後に不朽の名作である「レ・ミゼラブル」(「ああ無常」)を執筆したビクトル・ユーゴーである。「ああ無常」は、主人公のジャンバル・ジャンが牢獄で回心して、変えられた生涯を送る物語である。

前回は6章11節まで学んだ。6章は「それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きられましょうか」(1,2節)で始まった。「罪に対して死んだ」とあるが、私たちも死んだ。ここでは、私たちを奴隷化しようとする罪を主人に見立てて、「罪に対して死んだ」と言っている。死んだことにより、罪という主人との関係は終わった。もうそこに主従関係はない。では、私たちはいつ死んだのか?キリストが十字架で死なれたとき、私たちもそこで死んだのである。パウロは、キリストと私たちの一体性を論じていく。3~5節では、キリストを信じた後に受けるバプテスマは、キリストとともに死んだということ、そしてキリストとともに新しいいのちによみがえったことを証するものであることを告げている。死んで生まれ変わったのならば、死ぬ前の自分と同じように、罪を犯し続けていいわけはない。6節前半では、「私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられた」と語られている。「古い人」とはキリストを信じる前の私のすべてである。アダムの性質を受けて罪に支配されて生きてきた私である。古い人が死んだのは6節後半にあるように、罪の奴隷でなくなるためである。7節では、「死んでしまった者は、罪から解放されているのです」と、罪の奴隷から解放された事実を語っている。奴隷が主人から決定的に解放されるのは、奴隷が死ぬ時である。死んだ者には法的効力が及ばない。死んだ者に向かって、「俺はお前の主人だ!俺に仕えることはお前の義務だ!さあ起き上がれ!」と言ったところで始まらない。死んだら縁は切れるのである。私たちの側では、罪に対して、「私はお前とは何の関係もない。お前に仕える義務も義理もない。私はお前に対して死んだ。今の私は生まれ変わって、神さまという新しい主人に仕えている」と宣言できる。

パウロはまとめとして、11節において、キリストにあって罪に対して死に、神に対して生きているのだという事実を告げる。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい」。「思いなさい」と訳されていることばは、新改訳2017では「認めなさい」と訳されていると説明したが、これは会計用語で、「計算すること」「勘定すること」「計算に基づいて事実を事実として認めること」を意味する。今日の売り上げが百万円だった場合、その事実は、計算して、帳簿に記入することによって、そうだと認められる。私たちが計算し、心の帳簿に記入し、事実として認めなければならないことは、罪に対して死んだこと、キリストにあって神に対して生きていることである。パウロは、それは事実ではないけれども、思い込みなさい、自己暗示をかけなさい、と言っているのではない。私たちはキリストとともに十字架につけられ、そこで死に、罪の支配から解放され、今はキリストのいのちによって新しく生かされ、神に対して生きている。それは事実なのである。前回、「これは認めるべき事実であって、私たちが努力してたどりつく目標ではありません」ということばをご紹介したが、その通りなのである。「どうやったら古い人を十字架につけられるでしょうか、努力しているのですが」ではなく、すでにキリストともに十字架につけられたことを認めることである。また、前回、「私たちが新しく生きているということを実感できるかどうかではなく、そうなのだと『認める』ことです」ということばも紹介したが、その通りなのである。「キリストを信じて生まれ変わって新しくなったという実感が欲しい」と、自分の感情を見つめることに終始することではなく、みことばが何と言っているかに心を留めることである。まず、事実を事実として認めることである。それが信仰である。前回、魔法瓶が魔法瓶にして下さいと祈るこっけいなお話を紹介したが、ともすると、私たちも同じようなことをしてしまう。私たちはキリストと一つとされ、新しくされているのである。このキリスト・イエスと一体とされている霊的事実を、事実としてしっかり認めないと、どういうことが起こってしまうのか。それは、クリスチャンたちが、依然として罪の奴隷であるかのように、自分のからだを神にではなく罪に献げてしまうということである。それは罪に対する敗北である。

私たちが1~11節まで記されていた霊的事実を受け取りそこなうと、以前として古い自分ばかりを見てしまい、失望し、また一人で罪と戦い、罪に沈むことになる。パウロはキリストを信じると罪が無くなるとか、罪が死ぬとか言っていない。そうではなく、パウロはキリストを通して、罪との関係性が変わったということを教えてきた。キリストにあって罪に対して死んだ、罪の奴隷から解放されたと教えてきた。罪そのものは消えてもいないし、死んでもいない。罪は依然として獲物を狙っている。罪を犯す可能性がなくなってしまったわけではない。そこだけに目を留めてしまうと、「結局、何も変わっていないじゃないか。罪からのがれられやしない」となってしまう。だからこそパウロは、キリストにある霊的事実に目を留めさせ、キリストにある新しい自分に目を留めさせ、それをしっかり認めさせようとしてきた。

パウロは、私たちがキリストの十字架と復活に自分を重ね合わせ、自分がキリスト・イエスにあって、罪に対して死んだ者であり、神に対しては生きている者であるという事実を認めているなら、具体的にどういう行動に出るはずなのかを、今日の箇所で教えている。それは神に我が身を献げて生きていくということである。それは主人が罪から神に変わったのだから当たり前なのである。私たちの主人は神なのである。たとえとしてはふさわしくないかもしれないが、結婚のたとえで考えてみよう。Aさんと結婚した。Aさんが主人である。にもかかわらず、昔つきあっていたDさんのところに足しげく通い、主人のようにして仕えていたらおかしいだろう。二人の主人に仕えることはできない。私たちはキリストを主、神を主と呼ぶが、「主」とは「主人」のことである。

12節を見よう。「ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません」。罪は私たちを支配する主人ではなくなった。私たちはキリストとともに十字架で死に、キリストとともによみがえり、神を主人として生きる者とされた。もはや罪の奴隷ではない。罪の奴隷の時の習性は残っているかもしれない。残像は残っているかもしれない。しかし、現在の霊的事実は、キリストにありて生まれ変わり、神が主人となっているということである。だから、罪を主人とするような生活に舞い戻ることは許されない。ここで、私たちのからだが「死ぬべきからだ」と言われている。聖書はからだそのものを悪であると言っていない。けれども、このからだは脆いからだであり、死に至るものであり、様々な欲求を持ち、それらは罪の誘惑に負けやすいのである。「その情欲に従ってはいけません」を、新改訳2017では、「からだの欲望に従ってはいけません」と訳している。からだの基本的欲求、それ自体は悪いものではない。食欲、睡眠欲、性欲、等々。しかし、それらが罪に支配されるとき、罪の欲望となり、暴走し、罪に仕えることになる。

13節では、神への献身の命令である。「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」。前半は「また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません」と禁止命令である。この前半の禁止命令(現在形の禁止命令)は、原文の意を汲んで訳すと、「あなたがたは今まで、手足を不義の器として罪にささげてきたけれども、これからはそうであってはなりません」となる。これまで継続してきたことを禁止する命令文である。キリストにあって自分の変えられた立場をしっかり認識したら、昔に舞い戻り、昔続けていたことを続けることは愚かなことなのだとわかる。ここで、献げていけないものが、具体的に「手足」と言われているが、共同訳は五体満足の「五体」と訳している(新改訳2017別訳参照)。「手足」は分かりやすい訳だが、手も足も、口も、目も、耳もということで、手足を含めた五体を、罪にではなく神に献げるということである。私たちの手も足も、口も、目も、耳も、罪という主人に仕えるために造られたわけではない。だが、本末転倒になってしまっていた。

15節以降で、はっきりと言われているが、神を主人とした者の立場は、「神の奴隷」ということである。「しかし今は、罪から解放されて神の奴隷となり」(22節前半)。この奴隷ということについては次回、詳しく扱うが、ここで奴隷と雇われ人の違いを説明しておきたい。雇われ人は主人の所有物ではない。自分に関する権利を持っている。雇われ人は主人のことが気に入らなければ、そのことを主人に告げて、ほかの主人を探すことができる。この世の雇用関係がそうである。自分の都合で辞めたりできる。しかし、奴隷はそうではない。奴隷は主人の完全な所有物である。自分に関して何の権利も持たない。買い取られて主人の所有物となったのである。自分も手足も、もはや自分自身のものではない。それは主人に属するものなので、主人に献げるものなのである。では、私たちの主人は罪なのか、神なのか。私たちとその手足は誰のものなのか。パウロは、それをはっきりと自覚させようとしている。

13節後半は積極的命令である。「むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい」。最初に紹介した逸話は、愛娘の死に自分を重ね合わせ、「自分は死んだ」と宣言し、生活が一変したビクトル・ユーゴーの話だった。私たちの場合、キリストの死に自分を重ね合わせる。私たちはキリストにありて一度死んだ身である。そして、罪という最悪の主人から解放された。そこで終わらず、キリストにあって死者の中から生かされた。主人が新しくなり、神さまという最高の主人を得て、新しい人生が始まった。そのことを感動をもって受けとめて、自分自身とその手足を義の器として神に献げたいと思う。この13節後半は、原文では献身の命令が繰り返されている。新改訳2017の訳が原文に近い。「むしろ、死者の中から生かされた者としてあなたがた自身を神に献げ、また、あなたがたの手足を義の道具として神に献げなさい」。このように神への献身が二度言われており、強調されている。二度目の「神に献げなさい」は、不定過去<アオリスト>の命令文となっており、転機的な行為を促す命令文となっている。「迷わず、きっぱりと、完全に、神に献げなさい」。まごまごして、右往左往して、古い主人をなつかしんだりして、どっちつかずの優柔不断な態度になりやすい私たちに対して、「神に献げなさい」と、きっぱりした決断を迫っている。

なぜ、神に献身しなければならないのだろうか。パウロはそのことをこれまでも語ってきたのだけれども、14節で、改めて説明している。「というのは、罪はあなたがたを支配することはないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」。パウロは改めて罪の支配に言及している。「罪はあなたがたを支配することはないからです」。「支配する」ということばは、「主人となる」という意味のことばである。罪が主人で私たちは罪に従う奴隷という関係は、十字架までで終わった。主人の奴隷への法的拘束力は、奴隷の死で終わる。主人の奴隷への力は墓場までである。葬りでこれまでの関係はすべて終わりである。私たちはキリストとともに葬られたのである(4節前半)。私たちは罪に対して死んだ。罪という主人との縁はそこで切れた。だから、罪を犯さなくてはならないという義務はない。罪に身を献げて生きていかなければならないという義理もない。私たちは今、キリストのよみがえりと一つとされ、新しく生まれ変わり、神さまという新しい主人に身を献げて生きる者とされている。

パウロは14節後半で、私たちが罪の支配下にないことを説明するのに、律法と恵みという用語で説明することも試みている。「なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです」。これをわかりやすく説明してみよう。先ず、「律法の下」である。罪を奴隷の主人とするならば、律法は審判員にたとえることができるだろう。テニスの審判をしたことがあるが、ボールがコート外に落ちたときは「アウト」と宣告しなければならない。律法も同じである。律法というのは、これはしていい、これはしてはいけないという戒律(規則)である。律法は私たちに対して、神の義の基準を要求するわけである。そして、そこから外れたら「アウト」と宣告するわけである。つまり、違反を宣告するわけである。違反を宣告する、つまり、それが罪に定めるということである。この罪に対しては裁きという刑罰が伴う。それは死の裁き、永遠の死である。それも律法は宣告する。死刑宣告である。私たちプレイヤーは、「アウト」と言われないように人生のコートでもがくが、審判員は審判するだけで、何も手伝ってはくれない。「アウト」「タッチネット」と違反を宣告し、罪に定めるだけである。何も助けてはくれない。結局、私たちは罪という主人の願うことをやっているだけで、審判員にこき下ろされ、敗北を帰して終わりということになってしまう。表彰台に向かうどころか、罪に負けて、刑場行きである。表彰ではなく死の刑罰が待っている。悪いのは律法ではなく私たちであるわけだが、これが律法の下にある人生である。律法は神の意志を示すも、それを行う力は全く与えてくれはしない。審判するだけである。この律法は審判員の他に、罪を取り締まる警察にたとえることもできるだろう。私たちは律法の下にいるという自覚はないかもしれない。しかし、律法の行いによって義と認められようとしているなら、その人は律法の下にいるのである(ガラテヤ人への手紙4章参照)。

では、今は、ということで、パウロは私たちが「恵みの下」にあると言うのである。恵みは律法がしないことをしてくれた。恵みはキリストがもたらしてくれたものである。律法の審判の下で絶望の淵に立っている私たちのもとへ主キリストが現れた。あなたと一心同体となり、あなたを救うと言って。キリストはまず、私たちができなかったことをしてくださった。律法を完全に守り、罪のない違反ゼロの生涯を送ってくださった。不義ではなく義の生涯を送ってくださった。その上で、私たちの罪をあの十字架で全て負ってくださり、違反の責めを全て引き受け、裁きを受けてくださった。これで罪に対する裁きは終了である。そしてよみがえり、ご自身を信じる者に、ご自身の義を分け与え、いのちを分け与えてくださった。神の恵みはキリストの十字架と復活を通して表されたのである。キリストを信じ恵みの下にある者は、もはや罪の宣告や死の刑罰を恐れなくてもいい。しかも、それだけではない。キリストは神に従うのに必要なすべての恵みを与えてくださる。キリストがすべてのすべてとなってくださる。それは、前回、ぶどうの木のたとえでお話させていただいた。キリストがぶどうの木で、私たちが枝であるが、キリストはぶどうの木の幹までで、その先の枝が私たちという関係ではない。キリストは幹であり、枝であり、小枝であり、葉であり、花であり、実であり、ぶどうの木のすべてである。私たちはぶどうの木の一部として、キリストから必要な滋養分をいただいて生きることが許されている。

恵みの下とは、悪徳の主人に縛られて強制労働を強いられるように、罪まみれになって不自由に生きるようなところではない。また律法の目を気にするだけで、あれをしたか、これをしなかったかと、ビクビクして生きる世界ではない。処罰される日を、怖がりながら生きる世界ではない。神の愛に感動し、罪赦されたことを感謝し、永遠のいのちに感謝し、喜びをもって神に仕えていく世界である。しかも、ひとりで、自力でがんばって、「ああ自分はまだだめだ、失敗を繰り返すばかりだ」ともがくのではなく、キリストが私たちのすべてとなって、一心同体となって、御旨を行わせてくださる世界なのである。ある意味、律法は「する」の世界、恵みは「してくださる」の世界である。私たちは恵みの下で神に仕えていく。

私たちはパウロがすでに告げた真理に心の目を開こう。神はすでに私たちをキリストのうちにある者としてくださっている。主が死なれたとき、私たちも死んだのである。そして主が死者の中から生かされたとき、私たちも死者の中から生かされたのである。今の私たちは、キリストのうちにある新しい人である。どうやったら自分を十字架につけられるのかとか、どうやったら生まれ変わって生きられるのかとか、それはまだ先のことなのかと思ってしまう私たちだが、それはもうすでにしていただいたことなのである。神が私たちのためにすでにしてくださったことに対して目を開こう。キリストにうちに自分自身を見よう。事実を事実として認めよう。その時に、前回お話したクリスチャンのように、「主よ、あなたが私をすでに、キリストのうちにおらしめてくださったことを賛美いたします。キリストのものはすべて私のものです」と告白できるだろう。その人にとって、神に我が身を献げて生きるということは喜びであり、キリストを体験する喜びなのである。