前回は1節の「神の福音」をタイトルにして、ご一緒に福音について学んだ。「福音」<ユーアンゲリオン>は「グッドニュース」を意味している。「良い知らせ」である。私たちは人のグッドニュースならば、たくさん耳にしてきた。しかし、聖書が提供するグッドニュースは人のグッドニュースではなく、人に対する神のグッドニュースである。それは主イエス・キリストに関するものなのである。罪を悔い改め、キリストを神の救い主として、御国の王として信じ受け入れるならば、すべての罪は赦され、義と認められ、救われる。それは無償の神からの恵みである。これにまさる良い知らせはない。

執筆者の使徒パウロは、かつてはユダヤ教のエリートとして、熱心に神の掟である律法を学び、熱心にそれを実践することに努めてきた男である。いわば行いによって神に義と認めてもらおうとしていた典型的な人物である。だが、彼は自分の罪に悩み、神との距離感を感じ、生きていたはずである。自分の義、正しさにすがろうとしてもすがり切れない弱さを覚えていたはずである。人は生まれながらにして罪人であるので、誰でも神の福音が必要なのである。

パウロは最初、キリスト教徒たちをユダヤ国家の命を受けて迫害していた。彼らにとって、キリスト教徒の救い主イエスという人物は、伝統的な言い伝えを守らないふるまいが目に余った。そして、ユダヤ教の教師たちを批判し、新奇な教えを説いているように見えた。また、律法を守らない汚れた者たちや神に愛されているとは思えない者たちに対して親密さを表し、ユダヤ教の教師たちとは違った。弟子と言われる者たちは、ユダヤ教の祭司や律法学者たちはゼロ。漁師といったガリラヤの田舎者たちが多く、そして取税人といったユダヤ人の嫌われ者までいる。こうして彼らの首領は、許されざる革命家として、国家の裁判で死刑判決まで下され、ローマ側にも承認され、十字架で処刑されてしまった。ユダヤ人にとってそれは神に呪われた証であった。そのような者が救い主であるはずはなく、パウロは怒りと憎しみをキリスト教徒たちにぶつけていた。ところがある時、キリスト教徒たちを迫害していた途上で、彼は天からの光で打ち倒され、復活したキリストが天から彼に語りかけることになる。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」。これが彼の回心の転機となる(使徒9章)。4節で「死者の中からの復活により」とあるが、パウロは復活の主ご本人と衝撃的出会いを果たしたわけである。十字架で死んだと思っていたイエスは生きている!弟子たちの証言通りだったと。彼らの教えこそ正しかったのだと。そして律法による救いではなく、キリストを信じることによる救い、すなわち神の福音を信じることによる救いという、コペルニクス的転換が彼のうちで起こった。そして彼はユダヤ人であるけれども、異邦人の使徒とされた。そして、彼はこれまで、ローマ帝国の東側の地域に福音を伝えてきた。そして今、彼はローマ帝国の西側の地域に心を向け、このローマ人への手紙をしたためようとしている。今日の区分からは、ローマにも出かけて福音を伝え、また福音の恵みを共有したいというパウロの熱い思いが伝わって来る。

8節では、ローマ人のクリスチャンたちの信仰に感謝している。「あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです」と。一世紀半ばに、イタリアのローマの家の教会の人々の信仰が全世界に言い伝えられていると言う。当時、数百人と思われる信者たちの信仰が全世界に。私たちは「全世界」と聞くと地球丸ごとで考えるが、当時の人たちの目線で考えてみなければならない。パウロは15章28節で、「あなたがたのところを通ってイスパニヤに行くことにします」と言っているが、「イスパニヤ」、すなわちスペインが当時、西の地の果てと考えられていた地域である。スペインが当時の西の地の果てである。パウロは最終的にスペインで福音を伝え、殉教したらしい。とにもかくにも、当時の感覚で言う全世界にローマの家の教会の人々の信仰が伝わっていた。日本レベルで考えただけでも、東北のあの過疎地にもクリスチャンがいると聞くだけで嬉しくなる。

9,10節では、ローマに行く道が開かれるようにと神さまに祈っていることが記されている。ローマはローマ帝国の首都であり、大都市である。観光地としても申し分のない所であったらしい。だが、観光のためにローマに行きたいということではない。パウロはなぜローマに行きたいのだろうか。今日の個所から、三つのことがわかる。

一つ目は、ローマのクリスチャンたちの育成である(11節)。パウロは使徒として教える系の賜物が豊かだったので、これまでしてきたように、教えによって彼らの信仰を建て上げたいと思っただろう。当然である。教会の基礎となるのはみことばである。使徒であるパウロの教えを聞くということは、みことばを聞くということである。

二つ目は、信仰の交わりと励ましである(12節)。互いの信仰によって、ともに励ましを受ける、これが教会の忘れてはならない姿である。「教会」という漢字は、勉強会をする場所という印象を与えてしまう。キリスト教塾みたいな。勉強だけして帰りましょ、みたいな。しかし、もともと「教会」と訳されている原語<エクレーシア>は、勉強する場所を指すのでもなく、建物を指すのでもなく、信じる者たちの集まり、交わりを意味することばである。教会とは人である。あっては欲しくないことだが、火事で教会堂が失われてしまっても、集まる家が失われてしまっても、教会は無くならない。屋外でともに礼拝し、ともに祈り会い、交わり、励ましあっているだけで、その姿そのものが教会である。互いの信仰によって、ともに励ましあう、こうした姿を教会は軽んじないようにしなければならない。

三つ目は、ローマに福音を宣べ伝えることである(13~15節)。「・・・ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです」。ローマには多様な民族が住んでいた。ローマ人とは前回も述べたように民族ではない。ローマ帝国内に住む住民の社会的定義である。ローマ人は大きく分類すると、自由人と奴隷の二つに分かれる。自由人とは人としての自由・権利を持つ者。奴隷とは自由人に支配されている者を言う。ローマ法において奴隷は人としての権利を持たず、個人財産である。自由人はさらに、生まれながらの自由人と、お金を積んで奴隷から解放された被解放自由人の二つに分かれる。また、それぞれの中に、ローマ市民権を持つ者、持たない者がいた。パウロはユダヤ人であるけれども生まれながらの自由人で、ローマ市民権を持っていた。彼はそれを武器に宣教していくことになる。パウロは14節では、「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」と分類しているが、ここでは、社会的身分、階層ではなく、また単純に民族の別について言及しているのでもなく、文化や知識の違い、教養の違いに焦点を置いた表現をとっている。「ギリシヤ人」は、ギリシヤ語を話す教養のある人を意味していている。「未開人」は、こうしたギリシヤ文化を持たない人である。パウロの願いは、人であるなら区別なく、あらゆる民族、あらゆる社会階層、あらゆる文化層の人に福音を伝えることであった。神はすべての人を愛しているからである。

最後に注目したいのは、14節の「負債」ということばである。「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」。負債と聞いて喜ぶ人はいるだろうか。パウロはいったい誰に対して負債を負っているのだろうか。直接的には神に対してである。その負債とは何だろうか。私たちは神に対して罪を犯してきた。聖書では罪を、神に対する負い目、負債として表現している(主の祈り等)。しかし、その罪の負債、借金は、キリストの十字架の身代わりによって、その血の代価によって支払われ、帳消しにされた。だから、神に対する負債はもうないはずではないだろうか。だがパウロはここで「罪の負債」について言っているのではなく、「愛の負債」について言っている。「このような罪深い自分が福音を信じて罪赦され、義と認められ、神の子とされ、御国の富を受け継ぐ者とされた。このあふれるばかりの神の愛に対して、私は何をお返しできるだろうか。それはこれから、せいいっぱい神にお仕えするということ、それはこれから、神の福音を人々に伝えるということだ」。詩編116編は、神にいのちを助け出していただいた人物のことば、たましいを死から救い出していただいた人物のことばが記されている。そこにはこうある。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」(12節)。私たちも同じではないだろうか。主に何をお返しできるのか、各自が答えを持ちたい。

また、この負債とは人に対するものである。パウロは、「私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています」と、返さなければならない目に見える対象は人だと言っている。この負債は、まだ福音を知らない他の誰かに対して、受け取ってくださいと差し出すことによってのみ返されていく負債である。そのような意味において、私たちもパウロと同様、福音を知らないあらゆる人に対して負債を負っている。

この負債という性質をもう少し考えてみよう。負債とは「責任」であり「義務」である。そのまんまにしていいというものではない。返す義務がある。第一コリント9章16節を参考に開いてみよう。「というのは、私は福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったら、私はわざわいだ」。福音を伝えるというのは、オプションとしてあるのではない。つまり、選択権、選択の自由があるのではない。それはしなければならない責任であり、義務なのである。してもしなくてもあなたの自由、どちらでもいい、という事柄ではない。

しかし、現実問題としては、負債を負っているという認識がなければ何も進まない。愛の負債とは簡単に言うと、神を愛し人を愛する責任と義務があるという負債なわけなので、現実には、神の愛を実感したものだけが抱く負債なわけである。神の愛を実感できなければ、パウロの語る負債の認識に達しないだろう。

ご一緒にルカの福音書7章36~50節を読もう。ここは、キリストの罪の赦しの愛を深く実感した、罪深い女の物語である。この物語で、罪認識の深い女性と罪認識の浅いシモンという男性が比較対象されている。「だから、わたしは『この女の多くの罪は赦されている』と言います。それは彼女がよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません」(47節)。つまりは、罪の負債は少しであるという認識の者は、愛の負債も少ししか持たない。それに対して罪の負債は多くあるという認識の者は、キリストの赦しの愛を深く実感して、愛の負債も多く持つということである。パウロは第一テモテ1章15節で、自分のことを「罪人のかしら」と呼んでいるが、借財たっぷりというところである。それが赦され、彼はたくさんの愛の負債を負った。そして支払いに奔走することになった。

結局は、私たちが十字架の愛をどれだけ感謝をもって受け止めることができるかにかかっていると言える。「私の返しきれない莫大な罪の負債がすべて赦された、イエスさまが十字架にかかって、血を流してくださったことによって。ただ感謝しかない」。このように受け取める人ことができる人は、愛の負債に気づき、福音を伝えることに心を砕くようになるだろう。