本日より、ローマ人への手紙の講解説教に入りたいと思う。ローマ人への手紙はキリスト教の教えを体系的に伝える内容となっており、一つの文書で、キリスト教の教えをこれほどまでにまとめて知ることができる文書は、他にはない。よって、ローマ人への手紙は、すべてのクリスチャン、そしてクリスチャンばかりではなく、聖書が救いについて何と言っているのか知りたいすべての人が読むべき書である。マルチン・ルターはローマ人への手紙を、「新約聖書の中で最も重要な書であり、最も純生な福音である」とまで言っている。こうした書であるわけだが、ローマ人への手紙は、山にたとえると、エベレストのような高峰にも感じてしまう。難解という印象も持つわけである。ですが、今回のローマ人への手紙の講解説教においては、皆でこの山に登れるように、丁寧に解き明かしたいと思っている。また、頭の知恵知識で終わらず、生活信仰に結び付くように心がけたいと思っている。

ローマ人への手紙とあるが、ローマ人という民族がいるわけではない。ローマ人とは、政治的・社会的特権を認められたローマ市民及び外国人や奴隷なども含むローマ帝国居住者ということになる。この時代、ローマ帝国の国土は日本の1.3倍ほどで、一世紀初めのローマ人の人口は4500万人ほどであったと言われている。世界人口が2億人程度の時代である。そして、この手紙の宛先は、7節で「ローマにいるすべての、神に愛されている人々」からわかるように、ローマ人の中でも、イタリアにある首都ローマにいるクリスチャンたちが対象となっていることがわかる。首都ローマは、東京の隅田区ほどの広さの市街地とその周辺に100万人ほどが住み暮らしていたと言われているから、現代の大都市と変わらない人口密度であったことがわかる。そしてこの頃、ローマに教会堂があったわけではない。あったのは家の教会である。最終章の16章にはクリスチャンたちへの挨拶が記されているが、そこからある学者は、ローマには少なくとも5つの家の教会があっただろうと推測している。そして8つ、それ以上あったかもしれないと。

こうした家の教会宛に、使徒パウロが書簡を送った。時期は紀元57年頃のことである。パウロの第三回伝道旅行の時である。これまでに、テサロニケ人への手紙、コリント人への手紙、ガラテヤ人への手紙、ピリピ人への手紙をすでに執筆している。これらの手紙の地域はローマ帝国の東半分の地域である。パウロがこれからの宣教すべき地域として思いが向かっていたのはローマ帝国の西側の地域であった。当然、ローマが視野に入るわけである。パウロの宣教ビジョンは5節後半にあるように、「あらゆる国の人々」に信仰の従順がもたらされるためであった。

執筆場所はギリシア半島の南に位置するコリントであったと思われるが、もしくはコリント東方のエーゲ海に面する港町ケンクレヤであったと思われる(16章1節)。パウロはケンクレヤのある教会の女執事フィベを郵便配達人として、ローマにいる兄弟姉妹に、この手紙を届けさせる。

ローマの教会の詳しい成り立ちはわからない。パウロはまだこの地に足を踏み入れていなかったので、パウロが直接福音を伝えたわけではない。初期において宣教に用いられたのがローマ帝国各地にあったユダヤ教の会堂である。そこで、旧約聖書を信じるという人たちに、キリストのことを宣べ伝えた。初期のローマの教会では異邦人よりもユダヤ人クリスチャンが多かったことは容易に推測がつく。ここからがローマ人の教会の特徴である。注意深く聞いていただきたいのだが、紀元49年、皇帝クラウデオよって、ユダヤ人に対するローマ退去令が出される。クラウデオはローマ帝国第四代目の皇帝だが、この紀元49年の退去令について、歴史家スエトニウスはこう記している。「ユダヤ人はクレストゥスの扇動でたえず騒動にふけっていたので、クラウデオ帝は彼らをローマから追放した」。「クレストゥス」というのはありふれた名前であったらしいが、ユダヤ人クリスチャンであると思われている。ユダヤ人クリスチャンたちとユダヤ教徒や異教徒たちの間で、様々な摩擦が生じたのだろう。当時、キリスト教はユダヤ教の一派にしか思われていなかったわけだが、ユダヤ人たちはローマにとって有害な民族だということになり、退去令が出されてしまった。使徒の働きにも、この退去令の記述がある。「その後、パウロはアテネを去って、コリントに行った。ここで、アクラというポント生まれのユダヤ人およびその妻プリスキラに出会った。クラウデオ帝が、すべてのユダヤ人をローマから退去させるように命令したため、近ごろ、イタリアから来ていたのである(使徒18章1,2節)。ローマの教会で中心的働きをしていたユダヤ人夫妻、アクラとプリスキラはクラウデオ帝の退去令によって、ローマを離れた。ユダヤ人全員がローマを離れることになったかどうかはわからないが、こうしてユダヤ人の退去によって、ローマの教会は異邦人が多勢を占めるようになっただろう。ところが、ローマ皇帝がネロに代わると、紀元54年に退去令は取り消され、ユダヤ人はまたローマに戻ってきた。ユダヤ人クリスチャンたちもローマに戻る。この頃、教会のメンバーの中心は、初期とは代わって異邦人たちになっていたわけであるが、そこにユダヤ人たちが戻ってくる。民族、文化の違いから折り合いがつかない問題が発生することは、想像に難くない。ローマ人の手紙は、こうしたことが背景となっている。

パウロはローマの教会に直接出かけたことはないが、アクラとプリスキラを初めとして、紀元49年の退去令によってローマを離れたメンバーたちと会っている。知り合いがけっこういたことは、16章の挨拶から分かる。

パウロはこの手紙の執筆当時、ローマ帝国の東の地域の教会やエルサレムの教会への対応で忙しくしていた。実際、この手紙を執筆した後は、献金を携えてエルサレムの教会に向かわなければならなかった。こうした忙しい中、ローマ帝国の西の地域まで手が回らないよ、ではなく、ローマ帝国の西側の地域にある教会のために、彼らの成長とさらなる福音の伝播を願って、歴史に残る、キリスト教の遺産となる手紙を執筆したのである。パウロには西も東も関係ない。パウロの福音にかける思いが伝わってくる。

では、ローマ人の手紙の背景は、ここまでとして、ローマ人の手紙の書き出しを見ていこう。当時の手紙の形式として、書き出しは、差出人、受取人、挨拶という三部形式をとる。パウロもその形式にならっているが、差出人の記述が6節までと、差出人の記述が異常に膨れ上がっているというか、長い。そうなったのは、パウロの福音に対するスピリットのせいである。福音の強調は1章全体からもわかる。「福音」という用語は17節まで7回登場している(1,2,9,15,16~2回,17節)。この手紙全体では60回使用している。この手紙の主題は「福音」と言ってもいい。

「福音」<ユーアンゲリオン>ということばは、キリスト教の専売特許ではない。教会が考え出した造語ではない。このことばの意味は「グッドニュース」であるが、このことばは、パウロの時代、皇帝崇拝の儀礼に使用されていた、ありふれたことばであった。皇帝の多くは自分を神格化し、自由人、奴隷、富める人、貧しい人、位の高い人、低い人、問わず、礼拝を強要した。そして自分を印象づける出来事に際して、グッドニュースとしておふれを出した。町の布告官が街角に立って叫んだ。「グッドニュース!皇帝のお后にご子息が誕生した!」「グッドニュース!皇帝のご子息が成人年齢に達せられた」「グッドニュース!新しい皇帝が王座に着かれた」。今で言えば、号外発行みたいなものである。こうしたものはみな、人の福音である。けれども、パウロの伝える福音はそうではない。1節冒頭にあるように「神の福音」である。それは人のグッドニュースではなく、人に対する神のグッドニュースである。神の啓示によるグッドニュースである。それは正真正銘のグッドニュースである。すべての人へのグッドニュースである。それは皇帝に関するグッドニュースではなく、3節で言われているように、御子に関するグッドニュースである。

この福音の中心は「神の御子、主イエス・キリスト」である。パウロは福音の説明に際して、挨拶の区分である7節までに、キリストに関することばを8回使用している(1節「キリスト・イエス」、3節「御子」「ダビデの子孫」、4節「神の御子」「主イエス・キリスト」、5節「キリスト」/新改訳2017「この方」~原文は「彼」、6節「イエス・キリスト」、7節「主イエス・キリスト」。福音とはキリストと言ってしまっていいくらいである。パウロにとって福音を宣べ伝えるとは、キリストを宣べ伝えることであった。キリストのうちに、私たち人間の救いのために必要な、私たちを幸せにするために必要なすべてがつまっている。キリストを信じることにより、罪の赦しがあり、神との和解があり、義と認められ、永遠のいのち・まことのいのちが与えられ、神の子となる特権が与えられ、真の自由が与えられ、永遠の御国が保証され、神とともに歩んでいくことができる。死からいのちへ、暗闇から光へ、絶望から希望へ、悲しみから喜びへ。それは、キリストを信じ受け入れる者への恵みである。キリストは永遠のいのちそのものであるばかりか、全き愛のお方であり、真理そのものである。すべての知恵、知識に満ちておられる。神ご自身である。福音はこのお方を私たちに恵む。地上の金銀も、そしてどのような人格も、このお方と比較することなどできない。

パウロは1節で自分のことを「キリスト・イエスのしもべ」と呼んでいる。「しもべ」と訳しうる原語は3種類あるが、ここでは奴隷を意味する<ドゥーロス>が使用されている。「パウロ」の名前の意味は「小さい」だが、もっと自分を卑しくすることば、<ドゥーロス>を用いている。神の福音の中心、神の福音そのものであるキリストのために、宇宙最高の価値あるお方のために、自分を卑しくし、喜んで服従し、自分を捧げ尽くすのだという気合を感じ取ることができる。

キリストはパウロが紹介しているように、3節で「肉によれば」とあるが、弱さをもった人間存在として、預言通りに「ダビデの子孫として生まれ」、そして4節にあるように、肉との対照で、「神の御霊によれば」、十字架の死後、「死者からの復活により」、力ある神の御子として示された方である。

このお方がすぐれたお方であることは「主イエス・キリスト」(4節後半)という名前からも知ることができる。すでにご存じの方もおられると思うが、「イエス」という名前は、ヘブル語名「ヨシュア」のギリシヤ語形である。ユダヤ人に多く見られる名前で、意味は「救い」である。「キリスト」は名前ではなく「救い主」を意味する称号で、「メシア」というヘブル語に対応するギリシヤ語である。「救い主」であるから、何かから救ってくださるわけだが、マタイ1章21節では、「罪から救ってくださる方です」と、御使いによって紹介されている。

今、「イエス」と「キリスト」の意味についてお話したが、ここまでは良く聞く話だと思うが、「主」の意味も知っておいていただきたい。「主」<キュリオス>は、神々や皇帝にも使用されていたことばである。この「主」の意味するところを実感していただくために、ローマ皇帝の実例を挙げておこう。キリストはローマ帝国初代皇帝アウグストの時代に生まれた(ルカ2章1節)。アウグストは「全世界の救い主」とあがめられた人物で、神格化され、死後、神の子という称号を手にする。パウロがこの手紙を執筆したのは、第五代皇帝ネロの時代である。キリスト教への迫害はネロの時代に本格化する。パウロはこの時代の迫害で、紀元67年頃、殉教したと言われている。ペテロもネロ皇帝の迫害によって殉教している。迫害が激烈を極めるのは、第十一代皇帝ドミティアヌスの時代である(81~96年在位)。ヨハネはドミティアヌス帝のもとで、90年代前半、パトモス島に流刑の身となり、黙示録を書いている。ドミティアヌス帝は冷血な人物として知られているが、彼が皇帝礼拝を確立させた。「わたしは主<キュリオス>であり、神である」と公におふれを出した最初のローマ皇帝である。帝国全体に皇帝礼拝のための神殿を建て、皇帝の像の前でお神酒をささげて、香を焚き、「皇帝は主です/カイザルはキュリオスなり」と唱えることが強制された。そうしなければ厳罰が待っていた。これからわかるように、<キュリオス>には、単に、主人ということではなく、「神」とか「絶対服従すべき王」という意味が込められていたことがわかる。クリスチャンたちは「皇帝は主です」と言わなければ厳罰が下る時代に、「イエスは主です」と告白した。それは、いのちを懸けた告白であったことがわかる。主こそ、神であり、我らの王であると。私は人ではなく、このお方を礼拝し、このお方に服従しますと。これで、「主」の意味を実感していただけただろうか。キリストを主なる神として、王として告白できる者に、無償で救いが与えられるのが福音の大切な側面である。

「主」はもともと「主権」を意味する。主の主権は全天全地に及ぶ。キリストは昇天される前に、「わたしは天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています」(マタイ28章18節)と言われた。そしてパウロは第一コリント人への手紙でこう述べている。「なるほど、多くの神や、多くの主があるので、神々と呼ばれるものならば、天にも地にもありますが、私たちには、父なる唯一の神がおられるだけで、すべてのものはこの神から出ており、私たちもこの神のために存在しているのです。また、唯一の主なるイエス・キリストがおられるだけで、すべてのものはこの主によって存在し、私たちもこの主によって存在するのです」(8章5,6節)。パウロはキリストを「唯一の主」と呼んでいる。人間や神々が主とはなりえない。主はただお一人であり、それがイエス・キリストである。主に対する私たちの立場は、それこそ「しもべ」である。皇帝の奴隷ではない。キリストのしもべ<ドゥーロス>である。キリストを主とする者の生き方は、自分の人生にキリストの主権を認めて、全面的にお従いするということである。それが人間のほんとうの幸いなのである。それだからパウロは5節で、「それは、御名のためにあらゆる国の人々の中に信仰の従順をもたらすためです」と言っている。パウロはこの手紙の結びのことばでも、16章26節で「信仰の従順」ということばを述べて、それが福音がもたらす特質であることを明らかにしている。

皆様にとっての福音とは、これまで何であっただろうか。お手伝いをすれば駄菓子がもらえる、お駄賃がもらえるから始まって、懸賞当たった、試験合格、誕生日プレゼントがもらえる、明日は学校が休校になる、と色々あっただろう。戦争が終わった、も福音であるだろう。けれども、神の福音以上に私たちを喜ばすものはない。私たちを真に幸福にするものはない。それはこの福音の中心であり中身が主イエス・キリストだからである。「グッドニュース!キリストはあなたのために死なれ、そしてよみがえられた。このお方を神の救い主として、御国の王として信じる者は無罪放免だ。義と認められ、永遠のいのち、天の御国に入る特権が与えられるのだ。キリストが永遠にあなたの主となってくださる。あなたに恵みと平安があるように」。私たちは、この福音に人生を賭けたいと思う。また宣べ伝えていきたいと思う。