新年おめでとうございます。

元旦礼拝に引き続いて、詩篇を味わいたいと思う。今日のテーマは祈りである。詩篇は神への祈り、嘆願で満ちている。私たちはどういう時に真剣に祈るだろうか。それは悩みの時である。私たちは悩みに襲われる時に、心の中で格闘が始まる。問題に正面から向き合えず、逃げ出したくなる自分がいる。解決の道を見出せなくてもがく自分がいる。自分が負っている重荷に押しつぶされそうな自分がいる。人格攻撃にダメージを受けている自分がいる。そのような時、詩篇は助けになる。詩篇全体が祈りに満ちている。そして今日の詩篇では、珍しく、表題が「ダビデの祈り」とある。「ダビデの賛歌」といった表題が多いわけだが、今日の個所は「ダビデの祈り」である。ダビデが書いた詩篇を読んで気づくのは、しばし彼は命を狙われるような攻撃を受けていたということである。私たちの場合、どんなに苦しんでも、そこまではいかない。私たちはダビデが苦しみの極みを味わい、そこから救い出されたことを知って、慰めを受けるわけである。「まだまだ自分たちのほうがましだ。そしてダビデがその苦しみを耐えたように、私たちも苦しみに耐えることができるはずだ。神さまがそうしてくださる。ダビデのように神に助けを求めよう。涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所としてくださる(詩編84編6節)」と。

ダビデは今日の詩篇を見ると、「私に答えてください」(1節)、「私のたましいを守ってください」(2節)。「救ってください」(2節)、「あわれんでください」(3節)その他、様々な表現で神に助けを求めている。私たちも自分の状況に応じて、嘆願のことばを選んで祈るわけである。

ダビデは今から三千年前の人物であるが、彼のこの時の状況はどうであったのだろうか。1節後半に「私は悩み、そして貧しいのです」とある。先ず、「私は悩み」とあるが、悩みはちょっとした思い煩い程度ではなかったようである。14節に「神よ。高ぶる者どもは私に逆らって立ち、横暴な者の群れは私のいのちを求めます」とある。ひどい人格攻撃を受けていた。憎まれていた。こうした悩みは私たちを祈りへと駆り立てる。祈りというのはペーパーと鉛筆があれば学び通せるというものではない。7節には「苦難の日」とあるが、苦難の日に悩みを通して祈りを学習するわけである。神の御座に心を向けること、思い煩いをゆだねること、みことばを握って祈ること、そして悩みを通して神ご自身を体験し、祈りが聞かれることを学ぶ。悩みは祈りの学習道場である。そして、ダビデはこの悩みの時、貧しかったことがわかる。「そして貧しいのです」と。彼は困窮していた。明日がどうなるかわからない不安が襲っただろう。キリストは山上の説教で教えられた。「だから、わたしはあなたがたに言います。自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません。いのちは食べ物より大切なもの、からだは着物より大切なものではありませんか。空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。けれども、あなたがたの天の父がこれを養ってくださるのです。あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。あなたがたのうちだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。なぜ着物のことで心配するのですか。野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。きょうあっても、あすは炉に投げ入れる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分にあります」(マタイ6章25~34節)。私たちはこの教えを受け止めて、父なる神の養いに信頼して祈るわけである。

ダビデは悩みを通して神の前にへりくだっていた。物乞いのような精神になっていた。それは、3節の「主よ。私をあわれんでください」という嘆願からわかる。この祈りをささげる方は多いだろう。実際、古代教会より、この祈りは多くささげられてきた。6世紀の聖徒、ヨハンヌスは次のような祈りを残している。「主イエス・キリスト、わたしをあわれんでください。主イエス、わたしを守り、わたしの弱さを助けてください」。単純であるが、小さな叫び声のような祈りである。実は、この祈りは、祈ることが息をすることと同じくらいに普通になるようにと、弟子たちへの助けになることを願って勧めたものである。3節後半には、「私は一日中あなたに呼ばわっています」とあり、ダビデも「主よ。あわれんでください」と絶えず祈っていたのではないだろうか。祈りは短くて、単純でもいいのである。この「主よ。あわれんでください。」という祈りは、神のあわれみの懐に飛び込むような祈りである。ダビデ自身が神のあわれみのご性格を良く知っていた。「主よ。まことにあなたはいつくしみ深く、赦しに富み、あなたを求めるすべての者に、恵み豊かであられます」(5節)「しかし主よ。あなたはあわれみ深く、情け深い神。怒るのに遅く、恵みとまことに富んでおられます」15節。神の前にへりくだり、あわれみを求める者は自らの罪を自覚させられている。ただいま読んだ個所がそのことを暗示している。ダビデは自らの落ち度を自覚していることがわかる。神に助けを求めるとともに罪の赦しを求める、それが悩みの時である。86篇に限らず、ダビデは悩みの時に、自分の罪、愚かさを告白し、赦しを求めている。悩みの時はへりくだりの時となる。それが摂理である。

私たちは嘆願の祈りの時に、意識したいことの一つに賛美がある。8~10節までが賛美である。「主よ。神々のうちで、あなたに並ぶ者はなく、あなたのみわざに比ぶべきものはありません。主よ。あなたが造られたすべての国々は、あなたの御前に来て、伏し拝み、あなたの御名をあがめましょう。まことに、あなたは大いなる方、奇しいわざを行われる方です。あなただけが神です」。作者は神の偉大さを賛美している。このように賛美することが、大きな不安におののく祈り手自身の励ましになるわけである。神の偉大さに合わせて、キリストの十字架の勝利を賛美することも良いことである。私も、悩みの時は、意識して賛美することにしている。

「主よ。あなたの道を私に教えてください。私はあなたの真理のうちを歩みます。私の心を一つにしてください。御名を恐れるように」(11節)。新年礼拝に、詩篇86編を選んだ理由の一つは、今年度の標語が、「一つの心、一つの道」(エレミヤ32章39節)だからである。ダビデ自身が「私の心を一つにしてください」と祈っている。彼は悩みによって心が千々に乱れていたとも言えるし、思い煩いで心がバラバラになっていたとも言えるし、「御名を恐れるように」からわかるように、信仰と不信仰の間を心がさまよっていたとも言えるだろう。ヘブル語で「二心」の直訳は「心と心」となるが、神を恐れようとする心と、神以外のものにすがろうとする心との狭間でもがく、ということはよくある。悩みの時などがそうである。ダビデはまさに、この時、「一つの心、一つの道」を求めたのである。

この詩篇の後半では、前半の不安さが消えていく。12節では「感謝」という表現が生まれ、13節では、神の力強いみわざを告白している。「それは、あなたの恵みが私に対して大きく、あなたが私のたましいを、よみの深みから救い出してくださったからです」。ここはもしかすると、キリスト復活の預言の箇所では、と言われている節であるが、ダビデ自身は死からよみがえったという体験をしたわけではないだろう。ここでは、死に匹敵するような危機的体験から救われたことを語っているだろう。死に瀕するような危機的状況から救われたことを語っているのだろう。ダビデは、死にたとえられるような危機から救ってくださった方を仰ぎ、今、信仰が強められて祈っていると思われる。私が、この節から連想し、実際に、悩みの時に思い起こして祈ったのは、ヨハネ11章25節のみことばである。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」。私はこのみことばを、イエス様を信じたら死んでも永遠のいのちをいただいて生きるのだと、どちらかと言うと、死んでからの恵みとして受け止めてきたように思う。しかし、私は悩みの中で、「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」と言われているキリストのいのちは、現世においても働くと気づいた。キリストのよみがえりのいのちの力は、この世の悪、この世の腐敗、闇の力、そうしたものに打ち勝ち、死さえも飲み込んでしまう。このいのちの力が、動かしがたいと考えているすべてのマイナスの状況に働く。今の弱ってしまっている自分の心、からだにも働く。このよみがえりのいのちの力を今、呼び求めればいいのだと気づいた。キリストは、「すぐれて高い大能者の右の座に着かれました」(へブル1章3節)とあるが、この御座を仰いで、このよみがえりのいのちの力を求めることを実践してみた。それは私にとって良かった。平安が回復した。力を得た。私の嘆願の祈りには「主よ。あわれんでください」の祈りとともに、この御力を求めることが加わった。実際、ダビデも主のあわれみとともに、主の御力を求めている。

「私に御顔を向け、私をあわれんでください。あなたのしもべに御力を与え、あなたのはしための子をお救いください」(16節)。ダビデは、主のあわれみとともに、御力を求めている。この御力に関して、私が神学生時代から心に留めているみことばもご紹介したい。

「あなたは知らないのか。聞いたことがないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造した方。疲れることなく、弱ることなく、その英知は測り知れない。疲れた者には力を与え、精力のない者には勢いを与えられる。若者も倒れて力尽き、若い男たちも、つまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように、翼を広げて上ることができる。走っても力衰えず、歩いても疲れない」(イザヤ40章28~31節)。

このみことばは悩みの時というか、体を壊し、疲れ果ててしまった時に与えられたみことばである。責任のある奉仕が数日間、目前に迫っていた。しかしダウンして寝込んでしまっていた。その時、このみことばが迫ってきた。このみことばを握り、祈り、そして実際、新鮮な力が与えられた。疲れているのにしなければならないことがある時に、このみことばを唱え祈る。また悩みの時に、緊張している心や体をリラックスさせて、このみことばを唱え祈る。これらはお勧めできることである。

「私にいつくしみのしるしを行ってください。そうすれば、私を憎む者らは見て、恥を受けるでしょう。まことに主よ。あなたは私を助け、私を慰めてくださいます」(17節)。苦難の中にある者にとって、「いつくしみのしるし」とは何だろうか。それは、神に助けられ守られている姿である。それだから、「あなたは私を助け、私を慰めてくださいます」と告白している。「あなたの神は生きている!」そのような反応が周囲からあったら嬉しい。まさに信仰者の父と言われるアブラハムは、そのような反応を体験し続けた。ダビデもそうであった。

ダビデは悩みの中で祈りの格闘をした先輩の信仰者である。ダビデをあわれみ、御力を与え、助け守ってくださった神は、私たちに対しても同じようにしてくださるだろう。神を仰ぎ見よう。すぐれて高い御座に心を向け、祈ろう。そうして、心を一つにしていただこう。神はその者に、平安、必要な力、助け、守りを与えられるだろう。

パウロは「絶えず祈りなさい」(第一テサロニケ5章17節)と言っているが、ある方は「祈りは、霊が神と継続的な交わりにある状態である」と言っている。私たちは悩みの時を通して、このことをよりよく学習していくことになる。悩みは私たちを、御座に追いやる。神との交わりを求めさせる。そして、心の周波数が神に定まるようになる。心が一つになる。神の現実を体験する。私たちは今年一年、祈りにおいて成長させていただこう。