アブラハムの物語も終盤に差し掛かった。アブラハムは私たち信仰者の模範となる人物であり、信仰者の父と呼ばれる人物である。神の友とさえ聖書で言われている。アブラハムはそのような人物であるけれども、聖書は彼の弱さも赤裸々に記している。彼も完全ではない。この時点でも古い性質が残っていた。神さまがそれを取り扱われるのが今日の物語である。

今日の記事を読むと、アブラハムは方便を使って異教の王を欺いている。それはこれで二度目である。一度目はエジプト滞在の時であった(12章10~20節)。これは二十数年前のことである。その時、アブラハムは妻のサラを妹であると偽り、自分に害が及ぶのを防ごうとした。エジプトの王パロは何も知らずにサラを召し入れる。このようにして夫婦の危機が訪れただけではなく、この行為のゆえに、パロの家は神の手によりひどい災害を被ることになった。12章のエジプトでの失敗の記事を読むと、もう同じ失敗は繰り返さないだろうと思ってしまう。しかし事実は違った。私たちは、どんな人であっても、人間にすぎない、罪人の一人なのだ、という見方をしなければならないと思う。また、自分だけは大丈夫だという穿った考え方も捨てなければならないと思う。

この時、アブラハムはゲラルという地に滞在していた(1節)。「ゲラル」は、死海の西に位置する(ベエルシェバの北西24キロの地点)。イエスさまの時代はユダヤの地域内となる。アブラハムがこのゲラルに滞在した理由は書かれていない。エジプトに下った時は飢饉がその理由であったが、この時、ゲラルに滞在した理由はわからない。もしかすると、19章のソドムを含むヨルダン低地にひどい自然災害が及んだことと関係しているかもしれない。爆発が繰り返され、死海の南方面がひどくやられたと思われる。硫黄や塩害の影響で、人々の生活圏が激変したことは想像に難くない。この災害によって、死海近郊の人々の社会生活は変わり、人口移動も見られ、これが何らかのかたちでアブラハムに影響を及ぼしたことは考えられる(例~東日本大震災)。

さて、問題は、なぜアブラハムがゲラルの地でも、自分の妻サラのことを「これは私の妹だ」(5節)と偽ったのかということである。確かに腹違いの妹であったので、妹と言えば妹であるが、結婚した二人なので、当然のことながら夫婦という関係が優先されるべきであった。しかしながら、夫婦だとわかると夫のほうは殺される危険があった。兄であるというと、逆に良くしてもらえた。アブラハムの方便は自分の命を救いたかったということが基本としてあるわけだが、アブラハムは「この地方には神を恐れることが全くない」と言っている(11節)。ゲラルの人々は、後にペリシテ人として知られるようになる。ダビデの敵となった民族として有名である。このペリシテという名称から「パレスチナ」という名称が生まれるようになる。彼は、この地の人々のことが信用できなかった。

アブラハムは、サラを妹と偽るという不正直、方便を、旅の最初から使うことに決めていたようである。そしてサラもそれに同意していた(13節)。アブラハムが故郷であるカルデヤ人の地ウルを旅立ったのは75歳前(12章4節参照)。とすると、現在は100歳。とすると、アブラハムは25年以上も前から、しかも最初から、この方便を使うことを決めていたということになる。エジプトに下った時に初めて思いついた発案ではない。そして私たちは、サラを妹だと偽ったのはこれで二回目と数えるが、二回に限定できないかもしれない。なぜなら13節には、「私たちが行くどこででも」とあるからである。普通に読めば、アブラハムは自分たちが行く所どこででも、「これはわたしの妹です」と言い、サラは「この人は私の兄です」と言っていたことになる。

しかし、この暗黙の了解事項は、ここゲラルの地でも大変な事態を招くことになる。先ずはアブラハムたち側のことを考えてみよう。18章10節で、来年の今ごろ、あなたの妻サラには男の子ができている、と御使いを通して約束があった。妻サラが異教の王に召し入れられたらどうなるか。サラに姦淫の罪を犯させるだけではすまない。このままでは約束の男の子は与えられなくなってしまう。神さまは、これを阻止しなければならなかった。そのため、アビメレクがサラに触れることを許さなかった。

この時、サラの年齢は90歳。彼女は18章12節で「老いぼれてしまったこの私」と自分のことを言っている。アブラハムは、サラの年齢からいって、前回のエジプトのことのようにならないと思ったのかもしれない。年老いたサラが召されるというのは想定外のことであったかもしれない。

ゲラルの王、アビメレク側にも災いが及んだ。アビメレクに死の宣告が与えられている(3節)。そしてアビメレクの家の者たちの不妊である(18節)。アブラハムは「この地方の人々は神を恐れることが全くない」と言っているが、その地を統治する王アビメレクは、予想に反して誠実な人物であった。彼は神さまに対して、「私は正しい心」でこの事をしたのです、と訴えている(5,6節)。アブラハムの方便は神の介入がなければ、アビメレクに重大な罪を犯させるところであった。すべてをご存じの神がストップをかけてくださった。

アビメレクはアブラハムを叱責している(9節)。神を信じる者が異教の人々に叱責されるというのは、間々あることである。「あなたは卑怯ではないか」「あなたは無責任ではないか」「あなたはわたしに罪を犯させるところだったのだぞ」。こうした非難を受けなければならないのは嘆かわしいことである。地の塩、世の光であるはずのクリスチャンが、神を煩わせるだけではなく、人を煩わせ、疲れさせる、迷惑をかけてしまうということがある。

アビメレクのアブラハムへの対応は、実に品位のあるもので、丁寧で、柔和かつ寛大であった(14~16節)。良く見ると、サラを返しただけでないことがわかる。たくさんの贈り物を与え、16節では「銀千枚」ということばまで目にする。これは、サラの名誉を守るためのものであった。こうしてアブラハムはゲラルの地での安全が保障された。アビメレクのこの寛大さと親切は、驚くほどである。愚かな行為に出てしまった信仰者が、未信者に諭されるばかりか、親切に助け舟を出してもらうということがある。

アブラハムは、神が介入してくださった事実とアビメレクの態度により、謙遜にさせられたのではないかと思う。このゲラルでの出来事がアブラハムにとってどういう意味があったのか、もう少し考えてみたい。時期が約束の子イサクが与えられる直前だったということにポイントがある。その前に、アブラハムの霊性は取り扱われなければならなかった。おそらく神は、アブラハムが引きずっていた肉の問題に、ここで完全に対処しようとしたと思う。エジプトの時との違いは、アブラハムの祈りである(7,17節)。神はアブラハムが祈ることによって、ゲラルの人々を回復させようとしている。7節でアブラハムが「預言者」と言われているが、預言者とは、神のことばを伝えるとともに、神と人との間に立って、とりなす役目がある(詩篇105編13~15節参照)。アブラハムは祈り、その祈りは聞かれるわけだが、祈りが聞かれる条件は何だろうか。イザヤ59章1,2節にはこうある。「見よ。主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」。罪は祈りの妨げとなる。しかし、アブラハムの祈りは聞かれた。アブラハムは、嘘も方便と、妻を妹と偽ってきたことのまちがいを、ここで完全に悔い改めたのだと思う。

神さまから見れば、約束の子を賜るべき夫婦が偽装しているのは許されないことであり、偽装夫婦に約束の子を与えようとは思わなかっただろう。自分に都合が悪くなれば、夫と妻の関係を偽って解消して、サラに犠牲を強いる。妻を妹と偽って、ごまかしてやりすごす。そんなことを続けていてはいけないと、神は教えこもうとされたと思う。30年間近く存続してきた古い性質の根は、ここで完全に取り扱われたと思う。

神さまはゲラルの地の人々に下された災いは、完全にサラを意識していることを見逃してはならない(18節)。サラは不妊の女であった。アビメレクの家の女たちはサラのように不妊にされた。この不妊のいやしのためにアブラハムが祈るように導かれる。自分の妻は不妊のままなのに、他人の不妊の女性たちのために祈らなければならなかった。神がそうさせた。アブラハムは必死に祈っただろう。自己防衛のため方便を使って、滞在地の人々に迷惑をかけてしまったアブラハム。しかし、今は、自分の愚かさを痛感させられ、迷惑をかけた人々のために必死にとりなすことになった。彼女たちの不妊をどうかいやしてくださいと。そして、その願いは聞かれ、彼女たちの胎はいやされ、17節にあるように、また子を産むようになった。この事実は、神に対する恐れをアブラハムに与えたばかりではなく、自分の妻が子どもを産むかどうかは、全く神のなせる事であることを知っただろう。胎を閉じるのも開くのも、全く神のみわざであることを。結果的に、アブラハムはアビメレクの家の者たちのために祈ることを通して、サラには確かに約束の子が与えられるという信仰が強くされたはずである。それは、不妊のサラもまた同じであったはずである。約束の子は与えられるという強い確信を得たはずである。

そして二人は、このゲラルでの体験を通して、約束の子を産むのにふさわしい夫婦となったと言えるだろう。行く所どこででも、変化自在に、兄・妹に早変わりしましょう、などというご都合主義の夫婦姿勢は終わっただろう。行く所どこででも夫と妻であらなければならない。行く所どこででも夫婦でなければならない。オモテの顔とウラの顔があってはならない。ここに来てようやく二人は、子どもを授かる夫婦としての備えができた。旅の初め以来の古い根は、ここでようやく根絶された。そして二人とも、約束の子が与えられるという信仰が強くされた。アビメレクの家の不妊の女たちのいやしを通して、自分たちにも子どもが与えられるという確信は強まったはずである。これは万事を益と変えてくださった神さまのおかげである。あとは約束の子が与えられるのを待つだけである。21章に入り、冒頭で、サラのみごもりと出産の記事があるが、アブラハム夫婦の取り扱われ方からすると、自然な流れである。20章での取り扱いがあり、21章がある。この二つの章の出来事につながりを見たい。

今日のゲラルの地での出来事は、エジプトでの出来事と似ているために、アブラハムは同じような失敗を繰り返したと、そこだけ見られてしまいがちだが、神さまがこのゲラルの地で、アブラハム夫婦をどのように取り扱おうとされたのかを、見落としてはならない。

さて、神さまは私たちをどのように取り扱おうとされているのだろうか。古い性質でひきずっている部分、繰り返してしまいやすい弱さ、それはこの世的には何でもないような事柄に見えたとしても、神さまはそれらを取り扱おうとしている。そのためには、環境も未信者も、すべて動員して、それらを用いられる。そのことに気づいて、私たちは陶器師である神の御手に謙遜にゆだねて、ふさわしく形作られていきたいと思う。でも、だって、この状況が、あの人が、自分の性格が、で言い訳ばかりしていては進めない。成長はない。神の栄光が現されるために、へりくだり、陶器師であられる神の御手に自分自身をゆだねよう。

「この世と調子を合わせてはいけません。むしろ、心を新たにすることで、自分を変えていただきなさい。そうすれば、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に喜ばれ、完全であるのかを見分けるようになります。」(ローマ12章12節/新改訳2017訳)