前回は1~6節から、神の約束が私たちに希望を与えることを見た。私たちは、みことばの約束を通して、どんな時も希望を持って歩んでいくことができる。もし希望が失われると、心が揺れる。足もとが救われそうになる。足もとが液状化するような錯覚に囚われ、沈みそうになる。神さまが備えて下さる脱出の道など見つからないような気持ちになる。人生灰色に見えて来る。未来が暗くなる。だからこそ、私たちは、みことばを通して主を見上げる。そして約束を信じる。お金がなくても、能力がなくても、天然の力を失っても、問題の出口が見えなくとも、もう自分はおしまいですという境地に達しても、約束を信じ、希望を手放さないことが大切である。

実は、創世記15章はアブラハム契約として知られる重要な書である。6節の「彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」は、なんと新約聖書で6回も引用されている。引用の目的は、信仰による義認を教えるためである。信仰義認はキリスト教のかなめであり柱であると言われている教義である。16世紀に宗教改革が起こりプロテスタント教会が生み出されたのは、この信仰義認の教義を回復したからである。行いによらず、ただ信仰によって義と認められる。これが信仰義認である。これをまずアブラハムが、信仰者の父として体験したのである。

よくよく考えると、義と認められるのは私たち罪人である。義と認めてくださるお方は義なる神さまである。「義と認める」の消極的意味は、「無罪と宣告する」である。罪人にすぎない私たちを無罪と宣告する、これはおかしいのではないだろうか。裁判では正しい人を無罪とし、犯罪者を有罪に定める。これが正当な裁きである。神の前に正しい人は一人もいないのだから、神さまが罪人である私たちを無罪とし、義と認めてくださるというのはおかしいのではないだろうか。黒を白と言っているようなものである。神さまは不正な裁きをするお方だろうか。いや、そうではないわけである。神は正義の裁判官であるので厳正な裁きをされる。それが起こったのが、あのキリストの十字架だった。キリストの十字架において、私たちの罪のための裁きが行われた。

6節後半の「主はそれを彼の義と認められた」について学ぼう。最初に、ちょっと面白いので、「義」という漢字の成り立ちをご紹介させていただきたいと思う。古代中国では「義」とはもともと犠牲となった羊を表わす文字だった。古代中国では羊は神に捧げる大切な動物であった。争いがあった時、原告と被告は、それぞれが羊を神の前に捧げて、自分の正当性を主張した。捧げる時に、羊は鋸で切断された。その鋸で切断された羊は完全ないけにえであることの召命だった。実は「義」という漢字は、羊の下に鋸が置かれる形になっている。当時は、「全く欠陥のない正しいいけにえ」のことを「義」と呼んだそうである。キリストは全く欠陥のない正しいいけにえ、義そのもの、罪なき神の子羊として、十字架という祭壇の上にご自身を捧げられたわけである。そして厳正な裁きが下った。このお方を信じる時に、罪が赦され、このお方の義が私たちに与えられる。

「義と認められる」という表現の「認める」ということばは、へブル語においてもギリシャ語においても、「計算する、勘定する」を意味する。それは会計用語である。聖書で、罪・咎は「負債」(負い目)として扱われている。神さまは会計帳簿に私たちの罪という負債を記入していく。計算するとそれは莫大な額となっている。この負債を帳消しにしてもらうためにはどうしたらいいだろうか。行いによっては返しきれない。行いによっては「義と認める」「義と計算する」というところまでは達しない。この負債が帳消しとなるためには、誰かが身代わりとなって負債を全額返済していただくほかは道がない。だからキリストは、ご自分のきよいいのちで、この負債を償ってくださったのである。

ローマ人への手紙3章21~26節を読もう。キリストは私たちの罪の負債を肩代わりしてくださり、罪のさばきを受け、そしてご自身のいのちによってすべて返済してくださった。このキリストを信じる者が義と認められる。続いてローマ4章1~5節を読もう。アブラハムは、おぼろげながらも、新約時代に明確に啓示される神の救いのご計画というものを受け止めていた。それは信仰による救い、恵みによる救いである。

ここで皆さんは疑問を持つだろう。信仰が義と認められることは分かった、ではアブラハムはイエス・キリストを信じていたのかと。信じていたのである。ヨハネの福音書8章で、キリストはユダヤ人とアブラハム論争を繰り広げている。キリストはその時、「アブラハムが生まれる前からわたしはいるのです」と土肝を抜く宣言をされるが、その前に、こう語っておられる。「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て喜んだのです」(8章56節)。アブラハムは、自分の家系から出るひとりの子孫が、全世界の民の救い主となることを知っていた(参照:創世記22章17,18節~「子孫」は単数形 ガラテヤ3章8節)。アブラハムは、来るべきひとりの子孫である救い主キリストを通して救いが全世界にもたらせられることを信じていた。

アブラハムとの契約は、創世記15章1節で、「主のことばが幻のうちにアブラハムに臨み」というかたちで始まっていくわけだが、ラビの伝承にこのようなものがある。「神がアブラハムと契約を結ばれた時、主のことばが幻のうちにアブラハムに臨み、アブラハムはメシヤ時代の幻を見たのである」。ユダヤ教の教師たちの間で、このような伝承があったわけだから、イエスさまの語られた、「あなたがたの父アブラハムは、わたしの日(メシヤの日)を見ることを思って大いに喜びました。彼はそれを見て喜んだのです」というおことばは、突拍子のないことばではない。アブラハムは来るべき子孫であるキリストの到来を信じた。この子孫を通して神を信じる子孫たちが繁栄することを信じた。私たちとアブラハムはキリストを介してつながっている。同じ信仰でつながっている。私たちはアブラハムの霊的子孫、神の国の民であるわけである。

では、続いて、創世記15章後半の契約の儀式を見てみよう(8節以降)。神さまはアブラハムの信仰を確認した上で、約束の地カナンを与える保証としての契約の儀式に臨まれる。当時の契約の儀式は、動物を二つに裂き、その間を契約の当事者たちが通るというものであった。奇異な儀式と思われるかもしれないが、これは古代オリエントで行われていた儀式で、神さまは、これを用いられたということである。契約の当事者たちが裂かれた動物の間を通ることによって、間を埋める、つまり二つのものを一つにする、この行為で契約の完了を意味した。ただし、この場合の契約の特異性は、裂かれた動物の間を通ったのは、主なる神だけであるということである(17節)。「煙の立つかまどと、燃えているたいまつ」は神の目に見えるシンボルとして用いられている。裂かれた動物の間を通ったのは神さまだけである。これによって契約は締結された(18節)。これは、神さまが契約の全責任を持たれるということである。人間の側はただ信じるだけでいい。それ以上は問われない。だから、恵みの契約なのである。

この契約の儀式は、キリストの十字架と比較できるような契約である。動物を切り裂いた後、日が沈みかかった頃、12節を見ていただくと、ひどい暗黒の恐怖がアブラハムを襲ったことが書いてある。13節からわかるように、これは出エジプト記に記されている、エジプトでの四百年間にわたる奴隷生活を暗示しているが、私たちは、もう一つの暗黒の恐怖を知っている。キリストがカルバリの丘において体験された暗黒の恐怖である。キリストは12時から午後3時まで暗黒の恐怖を体験された。

14節ではエジプトからの救出が言われている。ご存じのように、出エジプトは、キリストによる救いの型である。罪人である私たちが罪の奴隷から解放される型である。アブラハムの契約では動物の体が裂かれたが、キリストはご存じのように、ご自身の体を裂いて、贖いを成し遂げてくださった。このことにより、約束の地カナンではなく、ほんとうの相続地である天の御国を保証してくださった。実は、アブラハム自身も、この天の御国を目指していた。「彼は、堅い基礎の上に建てられた都を待ち望んでいたのです。その都を設計されたのは神です」(へブル11章10節)。

15節では、アブラハムが長寿を全うすることが約束されている。16節では「そして、四代目の者たちが、ここに戻って来る」と、エジプトを出た子孫たちがカナンの地に帰還することが約束されている。「エモリ人の咎が、その時まで満ちることはないからである」とあるが、「エモリ人」とは、イスラエル人たちがカナンの地に定着する以前の、パレスチナ住民の総称である。カナンの地に罪が満ち満ちた時、神はその地の住民をさばき、その地をイスラエル人に与えるということである。ヨシュア記にその実現の記録がある。。

そして17,18節で、先ほどお話したように、契約の締結である。アブラハムは契約の当事者なのに何もしていない。暗やみの中、かまど(炉)とたいまつという目に見える神のシンボルが、裂かれた動物の間を通り過ぎ、契約は結ばれた。「かまど」と「たいまつ」の登場も奇妙に思えるかもしれないが、かまどとたいまつはメソポタミアでは特別な儀式のための神聖な用具であり、清めを行う夜間の儀式に使用されていた。神さまは、当時の儀式や用具を用いて、アブラハムにもわかるかたちで契約を結んでくださった。私たちは説明されないとチンプンカンプンな儀式であるが、アブラハムにはそうではない。ただ特徴がある。アブラハムは、この契約において、動物の準備をしているし、11節にあるように、契約を邪魔する猛禽(ハゲタカの類)を追い払うことなどしたが、契約締結のためには何もしていない。私たちも何もしてない。したことと言えば、キリストを十字架に追いやったことぐらいでしかなかった。しかし、キリストは、それを私たちを救うための手段としてくださった。キリストによって打ち立てられた新しい契約において、私たちは何もしていないし、する必要がない。私たちの救いのために必要なことはすべて、キリストがしてくださった。私たちは十字架を仰いで信じるだけなのである。

今日の中心聖句は明らかに15章6節となる。アブラハムは義と認められること、祝福の約束をいただくことにおいて、何もしていない。ただ天を見上げて信じただけである。神と神の約束を信じただけである。もちろん、信じたことは服従というかたちで行動に表すことは求められるわけであるが。私たちも、自分の救いのために信じることだけが求められている。だが、頭で信じて終わりということではなく、心を込めて信じるというか、全身全霊をかけて信じたいわけである。キリスト私たちのために、命かけて十字架についてくださったわけだから。「信じる」、その質は大切なはずである。

今日のタイトルは「信仰義認」であるが、副題は「見上げる信仰」でもいいかもしれない。私たちにとって、見上げるのは十字架である。十字架を見上げ、キリストを信じ、キリストを信じる者に与えられる約束を信じるのである。

ある意味において、アブラハムのように、星空を見上げるのもいいだろう。ベートーベン交響曲第九番「合唱」の歌詞にはこのようなものがある。

星空の上に神を求めよ 星の彼方に神は住みたもう

星空を見上げて、創造主なる神に思いを馳せる。また、私たちも、星の数のようなアブラハムの子孫にされていることに感謝をする。そしてアブラハムと同じロマンを抱く。アブラハムの子孫が増え広がっていくことを。十字架を見上げ、星空を見上げ・・・希望と夢とロマンは、神を見上げる者にある。