今日のテーマは「信仰者の成長」である。今日の箇所では「完全におとなになって」(13節後半)や、「私たちがもはや、子どもではなく」(14節前半)。「あらゆる点において成長し」(15節後半)といった表現を通し、子どもから大人に成長することが言われていることがわかる。もちろん、これは霊的な意味においてである。時おり、「自分はそんなに成長しなくても・・・。天国の隅っこに入れるだけで十分」といったことばを聞く。私も時おり、「天国の隅っこの四畳半一間で暮らせれば十分」と言ってしまう。けれども、去年の自分より今年の自分のほうが成長したと思える自分でありたい。飛躍的に成長したとは思えなくとも、螺旋階段を上るようにかもしれないが、成長したい。神ご自身も私たちにそれを願っている。そして、今日の箇所でも気づくが、信仰の成長ということがキリストの共同体である教会の成長と結び付けられて論じられている。信仰を持つとは、キリストのからだの一部とされることである。キリストのからだとはキリストをかしらとする教会のことである。教会から離れて一人で信仰生活を送っているけれども信仰者として成長しているというのは、ことばの矛盾である。教会を無視して成長したクリスチャンなどというのはあり得ない。個人主義は未成熟か何か、心に問題を抱えているかの証である。神さまは、私たち人間を、一匹狼で生きるように造られていない。一人で孤独に生きるように造られていない。仕え合い、愛の結びつきをもって生きるように造られている。それはからだの中の各器官が互いに仕え合い、ともに全体として成長していくようなものである。現代では、家庭でも社会でも、個人化、分裂が進んできている。孤立と孤独化が進んできている。個人主義の時代である。しかし、教会は人間本来の共同体の姿を実現するように神に召されている。それはキリストをかしらとする共同体、キリストにあって一つとされていることを生きる共同体、愛の交わりに生きる神の家族である。

あるクリスチャンの方が、興味深い記事を書いている。彼女は女学生の時にはしかにかかってしまった。その人はそれまでバスケットボールの選手をしていて健康体であったが、体重が落ち始め、ボールをもって動くことが困難になってきた。そのうち衰弱していき、皮膚は乾き、色を失い、骨の輪郭がくっきり浮き出てきて、骨と皮だけの体になってしまった。やがて膵臓の機能の停止が原因だと突きとめられて、インシュリンの注射の治療が始まった。膵臓の機能の回復とともに、他の体の機能も回復していって、体全体が彼女を再びサポートし始めた。彼女はこの時の体験を通して、体のそれぞれの器官は他のすべての器官に属するのだということを実感したという。そして彼女は言う。「私たちは、実際は互いのものだということを本当に理解している教会が、いかに少ないことか」。もし膵臓が、肝臓なんかに私は関係ないでしょ、とやっていたら大変なことになる。もし、私たちのからだの器官同士が、いがみ合い、そっぽを向きあっていたら、体はまちがいなく衰弱する。また、一つの器官でも痛めば、今見たように、その影響はからだ全体に波及する。教会もこれと同じである。

前回ご一緒に学んだみことばから、愛によって一つにならなければならないことを教えられた(1~6節)。そこでは、一つという表現が繰り返し使われていた。一つであることを妨げてしまうのが、成長していない肉の姿である。ようするに、2節で言われているような、謙遜、柔和、寛容、愛が失われた姿である。パウロは愛によって一つとされたコミュニティが念頭にあり、今日の箇所でも愛のコミュニティの姿を論じていくのだが、今日の箇所では、ほんものの愛と矛盾する偽りの教えにも目を向けさせ、真理に生きるように促している。「・・・教えの風に吹き回されたり・・・むしろ、愛をもって真理を語り・・・」(14,15節)。皆さん、偽りの教えは、学者、牧師と言われる人たちを通して、またキリスト教の書籍を通してもばら撒かれている。私はそうしたものを見聞きするたびに、やるせない気持ちになる。偽りの教えはキリストのからだを衰弱させる。病気にさせる。成長させない。

からだの健康、成長を考える時に、からだに悪いものは避けようとするものである。現代は栄養バランスということに敏感な時代になってきた。それだけ知識を増してきたということでもある。また、栄養バランスの他に、鮮度に注意を払い、賞味期限がかなり前に切れている食品は避けようとする。また、添加物表示にも目をやり、添加物だらけの食品もできるだけ避けようとする。産地にこだわる人も増えてきた。水銀汚染や放射能汚染の問題もある。最近は偽装食品の話題も尽きない。合成の白い粘着物質を注入して霜降り肉に見せる。白身の魚を着色してマグロに見せる。古いマグロに赤い着色料をつけて新鮮に見せる。タマゴの白身を着色して黄身に見せる。食品業界では色々なことが行われている。教会の場合は、偽りの教えや混ぜ物の教えが入り込む場合がある。一見すると、本物っぽい。だからだまされる。大概そうした教えを、愛の名のもとに受け入れてしまう。神が忌み嫌う教えや行為を愛の名のもとに容認してしまうということが起こる。偶像崇拝、その他の罪の容認。愛ならば許すべきだよね~。神さまなら、だれもさばかない。地獄なんてない。これが真理だよね~。新約の手紙を読めばすぐわかるが、パウロもペテロもヨハネも、偽りの教えに対しては相当な厳しさをもって臨んでいる。信仰生活の土台はなんといってもみことばである。みことばが何と言っているのか、それがすべてである。この世の人気の教えや、自分の感情、感覚をベースに論じる人たちがいる。また、有名なあの人が言っているからと、有名度、知名度で、そちらのことばに信頼を置いてしまう人も多い。あの学者が言っているから、あの先生が言っているからと。ある有名な牧師が三位一体を否定した。しかし多くの信徒が、有名で実績のある先生が言っていることだからと追従したという。現代では、偶像崇拝を愛の名のもとに受け入れる学者、牧師が増えている。信徒も追従してしまう。こうしたことは悲劇である。教会ははかりしれないダメージを受ける。

パウロは7~10節で、賜物について触れている。そして11節では教える系の賜物を取り上げている。それは、教会にみことばの真理が伝達されることの大切さを強調したいからである。個人の成長も教会の成長も、みことばの真理にかかっている。

真理のみことばが私たちに何をもたらすのかは12節以降で語られている。それは教会の成長である。12節ではみことばが「聖徒たちを整え」また「奉仕の働き」に向かわしめ、キリストのからだが建て上げられることが言われている。「整える」<カタルティモス>はもともと外科用語で、外科医が骨折した手足をつないだり、はずれた関節をもとに戻したりする医療用語だった。パウロはこのことばを用いて、信仰者の体ではなく、信仰者の霊性、人格が健全なものとなることを描こうとした。健全な体によって仕事がバリバリできるように、健全な霊性は主に喜ばれる奉仕となって教会を建て上げる。

奉仕について整理しておこう。私たちは奉仕の根本的意味を知っておきたい。「奉仕」は教会でなじみの用語だが、原語では<ディアコニア>と言う。「仕える」という意味が込められていて、奉仕する人のことは<ディアコノス>と言うが、キリストがこのことばに言及している。「あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに『仕える者』<ディアコノス>になりなさい」(マルコ10章43節)。イエスさまご自身が、この仕える者であられた。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです」(同10章45節)。キリストは私たち全員に仕えることを願っている。目的は「キリストのからだである教会を建て上げるため」である(4章12節後半)。

奉仕に関しては次のことも知っておきたい。奉仕も賜物の一つである(ローマ12章7節)。奉仕の種類は数ある。奉仕の種類は数あれど、すべてはキリストに仕える働きである。キリストに仕えているという自覚があれば、何をしても喜びとなり、また手を抜こうなどとは考えなくなる。また、互いに仕え合う時に、キリストが私たちを通して仕えられるという神秘があり、また、キリストが私たちを通して仕えているという神秘があることも覚えておきたい。キリストは「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25章40節)と言われた。キリストは教会というからだのすべての状態を取っている。たとえば、皆さんが誰かの足をさすってあげているとする。足をさすっているのはキリストであり、足をさすられているのもキリストであるということである。

13~15節では、真理のみことばは私たちをキリストに似た者へと成長させることが言われている。パウロはこの姿を13節中頃で、「完全に大人になって」と表現している。「完全に大人」と訳されていることばは、原語では一つで<テレイオス>である。原意は「目的の完成」で、マタイ5章48節の「あなたがたの天の父が<完全>なように、完全でありなさい」で使用されている。このことばは「完全」「成人」「成熟」「大人」と訳せることばであるが、ここで霊的成熟が言われていることは明らかである。だから新改訳2017では、「一人の成熟した大人になって」と訳している。私たちはみことばによって成長し、成熟し、キリストにならうことが目標とされているわけである。

さて、大人と反対の状態は何であるか。「子ども」<ネーピオス>である(14節前半)。このことばは「赤ちゃん」とも訳せる。赤ちゃんはわがままで自己中心である。奪う愛に終始し、要求が多い。自分の願いどおりにならないと、不満をぶつけ、ああしてくれない、こうしてくれないと泣きわめく。自分が満たされることしか考えない。与える愛、アガペーの愛はない。また赤ちゃん、幼児はだまされやすい。見分けがつかず、何でも口に入れてしまう。銀貨とジュースビンのふたを前に置いたら、ジュースビンのふたに手を伸ばすかもしれない。正しい価値観はない。神さまは、私たちが、こうした幼児のままでとどまっていることを望んではおられない。私たちは一人ひとりが、まだまだ成長の余地がある。愛において成長の余地があるということにおいて。また、知識不足、真偽を見分けられないということにおいて。だから私たちはみことばを自分の鏡として、みことばの前にへりくだり、自分を客観的にみつめ、内なる人を変革してくださるように祈ろう。また、みことばの知識を蓄えることにも心を砕こう。

私たち一人一人が成長するとき、教会も成長する。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです」(16節)。16節は、教会を建物に、またからだにたとえている。先ず、建物で考えてみよう。教会はいまだ罪人の集まりである。いわば、まだ建設途上の建物のようなものである。建築現場はまだ雑然としている。汚かったりする。床は汚れていたり、窓がついていなかったり、屋根は骨組みだけだったりする。壁紙もまだ。備品もそろっていない。それが当たり前。それを見て、こんな建物は住めたものじゃないと非難するだけなら、その人が間違っている。建築中なのだから。むしろ、どんな建物になるだろう楽しみだと思うべき。そして、この建物の建設のために自分はどんな役割ができるだろうと考え、自分を提供していくだろう。つまり、それが奉仕である。この、みんなで教会を建て上げていくという姿が16節で描かれている。教会を傍観して見ているのではなく、教会とは私たちという観点で、愛の建築材料となる。壁の隙間を埋めるために煉瓦となる。強度を増すために柱となる。雨漏りを防ぐために屋根の一部になる。暖かさを出すために暖炉になる。こうして愛のうちに建て上げられていくのである。

教会をからだにもたとえて考えよう。教会はキリストをかしらと仰ぐ(15節後半)。私たちはキリストのからだの一部である。16節の「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって」という表現に着目しよう。「あらゆる結び目」の「結び目」とはどのような意味だろうか。今日では、筋肉や神経にあたるもの。筋肉や神経の役目は伝達である。すなわち、かしらであるキリストの指示を各器官に伝達する役目が「結び目」である。この役目を担うのが、教会では牧師や執事や各部のリーダー的存在。この人たちによって、信仰生活を含む教会形成の骨格が伝達される。この人たちがみことばを教え、主からのビジョンを伝え、からだ全体のつなぎ役を果たす。続いて「しっかりと組み合わされ、結び合わされ」とあるが、各自が一致と調和を保つことに腐心することである。「しっかりと組み合わされ」ということばは、建物にも用いられるのだが、からだに用いるときは、各部分が互いに調和をもって組み合わされるというときに用いる。私たちは多様な存在。からだの中に多様な器官があるように、私たちもだれひとりとして同じではない。私たちは、目が二つあるとか、鼻の穴が二つあるとか、手足が二本ずつあるとか、外形は似ていることは似ている。けれども中身はかなり違っている。神学校の授業の時、学院長が「うちの奥さんは宇宙人です」と言ったことばが忘れられない。余りに自分とは違うという意味でおっしゃたわけである。いやになるくらいという意味がそこには込められていたかもしれない。心の色が、感じ方が違っている。また私たちは賜物が違う。レンスキーという人は7節から、次のように言う。「救いの恵みは全員に同様であるが、個々の信徒への天賦の才は十人十色なのである」。天賦の才は十人十色、本当にそうである。色んな意味で私たちはみな違っている。

みな違っていても調和を保っているのがからだである。からだの各器官はみな違っていても、けれども不思議に一つからだを構成し、調和を保ち、それぞれが役目を果たしている。私たちもそれぞれが違う。けれども私たちもそれぞれがキリストをかしらと仰ぎながら、真理のみことばによって成長させていただき、互いに仕え合い、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、からだとして成長し、愛のうちに建てられていきたいと思う。すべては、キリストが教会の中で、また教会を通してあがめられるためである。私たちは肉体的には成長が止まったどころか、その逆かもしれない。しかし霊的には、子どもから大人へと成長していこう。